これはハヤカワSFシリーズJコレクションという叢書の第三弾だという。一般的にはあまりSFに興味はないのだが、作者のサイトをずっと読んでいたので、一度その小説も読んでみようと思ったのである。デパ地下で試食ばっかりしていて、なにか買わないと申し訳ないような気分になるのと同じ。M・モースの言う、「債務の時」が流れていたのである。

ただ、作者のサイトは読んでいたが、SF作家だとは思ってもいなかったし、実際読んでみて、ロボットも光線銃も宇宙船も出てこないので、この話がSFであったのかどうか、いまだに判然としない。ツール・ド・フランスみながら読む、という態度がまずかったか。

どんなジャンルであれ、小説というものをよむ動機のかなり大きな部分に、カタルシスを求めるということがあるのは否めないと思うが、その意味ではこれは全くカタルシスなどとは無縁で、ただただ当惑と寂寞感が残るばかりなのである。寂寞感というのは、自分が完全に置いてけぼりにされたと感じるからで、これは最近のTVをみている時、素人いじりの対象としては都合がよさそう、というだけの女の子がタレントとして登場し、しかも、やたらにオッパイはデカい、というような古典的記号をしょっていたりするのをみる感覚に近い。要するに自分がジジイになったということなのだろう。

民衆の自然的意思のみによって導かれる民衆国家の樹立、という啓示に取り憑かれた女性がいて、彼女は最高指導者として、その自発的意思に覚醒した人々に手紙をだし、補導官として任命し、来るべき国家の細胞を作り上げようとしているのである。自然的に共有される意思なので、彼女の手紙は住所表記などなくても、しかるべき補導官たちの元に届くのである。物語は、その啓示をえた最高指導者を妻にもつ男の視点で語られる。

民衆細胞は次々に増殖していき、指令書にはる切手が家計を圧迫するので、投函数が少なくなるようにと、男の発案で組織は系統化され、それがきっかけとなったのか、民衆組織は強大化し、ついに決起の日がやってくる。なぜか自衛隊の圧倒的に優勢な火力にも打ち勝った民衆細胞は、人類史上初の自然的意思によって導かれる民衆国家を樹立する。自然的意思というあいまいなものに依拠する民衆細胞達は、個別的意思にとらわれる敵=個別分子達を適当な手段であぶりだし、でっち上げ粛清し、やがて終末的内乱状況へといたる。

これは世代の違いということに尽きるのだろうが(といって、十ほど違うだけなんだけれど)、私なんかには、最高指導者である妻が提唱する新しい国家像がほとんどパロディにもならない冗談としか感じないし、それに次々と人々がとらわれていく理由がさっぱりわからない。その啓示が伝播していく経路である「郵便」の謎も最後までわからない。住所表記も、個人名もかかれていない指令書を、適切に手渡していた郵便配達員は何者だったのだろう。途中からは民衆細胞がその指令書配送組織を作るのだが、今までの郵便配達との関係は何ら説明されない。

そんなトリビアはどうでもいい、と思われるかもしれないが、国家をめぐる幻想がいかに共有化されていくか、という問題抜きに権力と国家の樹立とその崩壊について語られてもな、と思うばかり。もしかしたら、これは国家と権力の物語などではなく、愛する女性の観念世界を身をもって守ろうとする、献身の物語なのかもしれないなぁ。醜悪な民衆細胞たちの無様な跳梁を饒舌に描くのも、愛の対象と、それに対する献身の純粋さを強調するためなのであって、その愛の世界の外部が、どれほど救われぬものであろうが、あまり関係ないのかもしれない。

それにしても、大衆の無知無分別無能と、それゆえの無意味な大量死の話を、ここまで無感動に描く力量というものは、私などにはとても理解のおよばぬタイプの天才の技であろう。今後、まずこの人の本を買うことはないだろうが、一度は購入したということと、ちゃんと読み終えたということで、「債務の時」は永遠に終わったので、サイトの方をこれから長く楽しませてもらうつもり。 (2002/07/12)

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WOWWOWで放映されていたのを偶然視聴する。アメリカの名門私立学校、それも小学校あたりから高校まで一緒になったような、いわゆるプレップスクールにかよう少年の話らしく、オープニングは彼がやっている課外活動の羅列ではじまる。新聞部に始まり、学園年鑑編集長、演劇部(というより劇団を主宰してる)、フランス語クラブ、模擬国連ロシア代表とか、軽飛行機部、カリグラフィー部、養蜂部なんてのもあって、ほかにもあったが忘れてしまった。

才気あふれる少年が、様々な難問をトンチと行動力と並外れた頭脳で切り抜けていく、学園シットコムかと思ってみているとそうではない様子。いろんな興味に集中力が拡散されて目標を見出せず、性的な欲求にもさいなまれて、日々をなんとか切り抜けることを強いられる、誰にでも覚えのある、不器用な思春期後期の哀愁を描いた胸キュン劇なのだった。

マックス少年は8歳のとき、学園の校長にウォーターゲート事件をヒントに描いた戯曲を送りつけ、それに感動した校長は彼を特待生として入学させる。しかし入学後、彼はもっぱら上のような課外活動ばかりに精を出し、学業のほうは落第点ばかり。校長は史上最悪の問題生徒を入学させてしまったと後悔し、もう一度落第点を取ったら放校だとマックスに宣言する。

マックスは理事会に取り入って危機を回避しようと、有力理事のビル・マーレーに接近し、ついでに恋心を抱いた新任女性教師オリビア・ウイリアムズの歓心も買おうと、マーレーに金を出させて、勝手に野球場に水族館を建てようと策略をめぐらすが、これは当然自爆に終わり、あわれ放校となってしまう。水族館を作るという発想は、単にオリビアが熱帯魚を飼っている、と言う根拠でしかない。こういう主人公のユルい発想で無茶をもくろみ、大人の世界に無理やり自分のやり方を認めさせるというのは、あちらの学園バカコメディの王道なのだが、この映画では、マックスのもくろみはすべてその原則に乗っているものの、現実のほうはあくまでタフなままなのである。

マックスはやむなく公立高校にうつり、マーレーとオリビアが恋仲になったのを知って、自分のプライド回復のためもかねてか、ギャング映画風の執拗な妨害合戦をマーレーと繰り広げる。マックスの相手をするビル・マーレーがまた秀逸で、ガキのままで全く進歩していない中年男を実に見事に演じている。

妄想ばかりが先行し、アホな行動の暴発が時おりあるものの、結局は現実の壁の前にふてくされるだけに終わる、幾多の思春期への賛歌というか挽歌といえばいいだろうか、歳をくっても結局そのまま成長していないことを自覚している人間には、身につまされる作品ではないだろうか。

マックスを演じているジェイソン・シュワルツマンは、かのF・コッポラの親戚なんだそうで、劇中劇がセルピコだったり、地獄の黙示録風だったりするのはそのせいらしい。私が偶然導入部をみて、そのまま見続けたのは、ただこの人が道頓堀の食い倒れ太郎人形にそっくりだった、という理由だけ。そういう根拠で見ても、結構当たりはあるものだ。(2002/08/08)

はじめ、何を思ったのか主演のジェイソン・シュワルツマンのことを「監督と脚本をこなしつつ」などと書いてしまった。これは監督のウェス・アンダーソンの公式サイトをみて、あまりにマックスと似た風貌なのに感じ入ってしまったから。マックスと生い立ちはかなり違うみたいで、むしろ新作の"The Royal Tenenbaums"が自伝を反映しているようだ。

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そういえば「天才マックスの世界」の前々日に、こいつを観たのだった。観なかったことにしておこうと思う日本映画は数多いが、これは一応観たことにしておいても、そう恥ずかしい思いをすることもないのかな、と思える一品。

平安期中初期、帝におぼえめでたき左大臣だか右大臣に、ヨイショしまくる陰陽寮の重鎮が真田広之で、さえないほうの大臣をなだめているのが野村萬斎の安部清明なのである。なぜか真田はさえない側に、相手を呪ってやるぞと営業活動をしにきて、初めのうちはその理由がわからないのだが、どうも負け犬の恨みつらみエネルギーをつかって、長岡京から平安京に遷都する原因になった相良親王の怨霊を呼び出し、この世を魑魅魍魎の世界にすることを目的にしているらしいのである。

野村萬斎は古典劇の基本を抑えた所作が程ほどに見所があり、真田広之はなぜかほとんど新派風のオーバーアクション。だから、というわけではないのだろうが、ほかの登場人物はみんなセリフ棒読みのど素人芝居。笛の名手という源のなんとかに扮する伊藤なんとかなど、冗談なのかとおもうほどのヘタクソ演技をするのだが、あれはきっと野村・真田両者の国際的演技力を強調するために、わざとやっていたのだよね。そうだと言ってくれ、誰か。映画のほうは、結構策略をろうした割には、真田の側の陰謀は野村の放ったたった一発の矢によってついえてしまい、ぼろんぼろんの姿になってしまうのが気の毒。あれだけ霊力があるのなら、まず自分のボロ姿を治したらいいのに。そのあとの対決もハンディありすぎる。相良親王の怨霊ってのが、これまた軍事力としては、まったくあてにならんのだし。

小松和彦さんという民俗学者がいて、えらく判りにくい文体で、おどろおどろしい怨霊論など書くので有名なのだが、この人が安部清明ブームにのっかって出した「安部清明『闇』の伝承」(桜桃書房)という本がある。この人によれば、日本の権力というのは、古代から二重性があって、安部清明は、おそらく被支配者がわのコントロールが出来たフィクサーだったのだろう、と推測しておられる。言うなれば、現代の差別問題とか労働運動と同じような構図があったというのである。もちろん、古代と現代を一緒くたに論じることは出来ず、古い差別観の解消を図ろうとする啓蒙運動とか、労働者の権利を守ろうとする動きを、古代権力に敗北しつつ、それを側面から支えていた非正統的勢力と同じようなものとするのはあまりに乱暴である。ただ、具体的には江戸期の浅草弾左衛門みたいなものとして安部清明をとらえれば、つまらんオカルト解釈が出てくる余地はないほどわかりやすいのは事実。

式神が(この映画ではじめてシキガミと読むのを知ったよ)、戻り橋の下に住んでいたという伝承も、浮浪者とかホームレスとか、敗者の側を支配していたのが安部氏であったと考えれば、なんとなくわからんでもない。でも今の一条戻り橋はほとんどドブ川にかかった小さい橋で、とても何人もの式神は住まえなかったようにおもえますが。まあ千年前は広い河原だったんでしょうかね。

いずれにせよ、「オマエモナー」という2ch用語で終わる映画というのはそれだけでも貴重で、これは外国映画には求めても得られぬことだけに、その一点で、私のようにいい加減な関心しかもたない不熱心な人間に、日本映画からは目を離せないと意識させただけでも、この映画の歴史的意義は充分あるといえよう。さて、次は「逝ってよし」だな。(2002/08/10)

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そう期待もしないでみた映画が結構面白かったときの喜びはなかなかのもので、これはその中でもかなりのもの。もちろん借り物のDVDで見たのだが。

出だしからして競技場で、クィーンの「WE WILL ROCK YOU」を歌う観衆である。人々は顔にペイントして、あろうことかウェーブまでやってる。ファンファーレのラッパはエレキ・ギターの音を出すのである。中世の馬上槍試合が、完全にサッカー試合のノリで再現されているのである。ここでまずまいる。

試合の途中で頓死した騎士の身代わりで、従者だったヒース・レジャーが出場してラッキーな勝ちをひろい、彼はそれに味をしめて偽貴族になりすまし、トーナメントを転戦するという話。旅の途中で、バクチで負けて身ぐるみはがされ、スッポンポンで歩いていたジェフリー・チョーサーを拾って来歴を捏造させ、ついでにリングアナウンサーに採用する。こいつがまたWWF並みの、いかれたアナウンスをするのである。たまたま出会った女鍛冶屋は、ナイキのロゴがついた軽量甲胄までつくってくれるのである。これだけでは調子よすぎるので、長島一茂から身長をつめて、代わりに邪悪さと知能指数を6割増しにしたような伯爵が敵役となり、みそめた姫君の恋敵にもなるのである。

各地転戦して連勝をかさね、すっかりスターになってロンドンに凱旋するヒースだが、そこは好事魔多し、かの一茂風邪悪伯爵の陰謀で平民出身が暴露されてしまい、獄につながれ、処刑の危機が迫るのだが、さて、というのが後半の山。

貴族を僭称しているとはいえ、田舎者丸出しのヒースがトーナメントに参加するところは、身分違いの貧乏人が上流があつまるバレー団にはいった少女漫画のような、お決まり系サブストーリーで構成されていて、これがまたよろしいのである。当然主人公は、トゥシューズに画鋲が入れられたりするような危機を、わずかの機転と並外れた幸運で逃れるのである。ステップも知らないダンスを強いられ、恥をかきそうになるところも、なぜか流れてくる70年代ロックミュージックと、振り付けを熟知している周りの人間に助けられ、カッコよく回避するのである。

もちろん先ほど書いたような後半の危機も、鎌倉幕府鉢の木説話風というか、水戸黄門風しかけによって見事に克服され、かの邪悪一茂伯爵との文字通りの一騎打ちに持ち込まれるのである。そこに出てくる「グラデュエーター」からパクったようなシーンも、主人公の爽快な勝利を祝福していて、実に決まっているのである。

チョーサーがわざわざ出てくるのだから、この話は「カンタベリー物語」かなんかが元ネタになっているのかな、などとも思うのだが、そんなことはタイトルロールのどこにも触れられていなかった(と思う)。追求すればそれなりに面白いのかも。主人公がみそめる姫君よりも、女鍛冶屋のほうがよっぽど美人だったりする配役には不審を感じないでもないのだが、なによりお決まりプロットを組み合わせて、そこそこ感動的な映画を作る監督の手腕に感心してしまうのである。もっとも、お決まりだから感動できるのかもしれないのかな、と思ったりしないでもないが。(2002/08/19)

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小ぶりの啓蒙書なのに、読み通すのにえらく苦労した。ほとんど一ヶ月以上かかったのではないか。アルタミラの洞窟画発見のいきさつで書き出され、続いて遺伝子の作用メカニズムの解説、そして人類と類人猿との本質的差は、脂質取り込み能力にある、という洞察の開陳、続いて神経細胞の神秘的なまでに高度な「設計」について、時間や場所を行きつ戻りつして話はすすんでいく。そういうスイッチバック進行構成をとっているのは、もちろん著者の思い入れがあるのだが、私のように凡庸な読者には、ついていくのがかなりツラいのである。

どうやら、アルタミラの洞窟画をかいた現生人種の先祖と現代人には、芸術的なレベルの了解が可能なほどの同質性があり、それ以前の旧人種とは厳然たる差があること、そしてその差は脂質代謝の突然変異−脂質取り込みと蓄積能力の飛躍的増大−が生んだというのが著者の主張のようだ。よくあいまいに語られる、共同で狩りをする生活が進化圧となって今日の人類の礎となったなどという意見に、新ダーウィン主義の原則論に、いささかの神託的着想を加わえて反駁する立場とでも言えばいいだろうか。

そして、ここがいちばん受け入れるべきかどうかで考え込んでしまうところなのだが、そのような脂質代謝の突然変異は、人類に分裂病をもたらした遺伝子変異によって成し遂げられた、と言うのがこの本の主張の最たるものである。人類は、分裂病を抱え込むことで、文化文明の獲得という、他の種には成し遂げられなかった成功を得たのだと。

そこで圧倒的な知能の差と、抽象的象徴化能力の獲得、進取の気勢、他者を出し抜き打ち破ろうとする競争意識のようなものが脂質代謝の突然変異からきたというのはいいとして、なんでそれが分裂病の遺伝子と同じものだ、という認識にいたったのかが不思議。それは著者が臨床家として患者と接してきて得られた洞察だ、というのだがこれがわからない。

一時、分裂病の家族研究というのがはやり、"schizogenic mother"などという露骨な言葉があったほどで、「家族が分裂病をつくる」という見方が蔓延したことがある。著者はそれに対して心理学派の害毒として一蹴しているが、あれはそもそも、精神科医療従事者が分裂病者の家族に対して持つ、独特の印象をその根拠にしたもので、別にフロイトがそういう方向を出したわけではない。この著者にしても、全く同じような印象−要はちょっと変わった人が多いと言うことなのだけれど−を持っていると思われるわけで、それをこの人は遺伝子をその根拠にして、かつ社会階層の高さ、能力の高さという、ポジティブな面をもっぱら評価しているわけである。

ただし、私にはあまりそうとは思われないのだ。たしかに、独自の自己表現をする家族成員が多いのは認めるが、それがそのまま社会的成功につながっている、とはいいがたい。社会的弱者ばっかりだとも思わないが、強いて言えば、どんな階層にも分裂病は平等に発症していて、その家族は周囲の馴れ合いに染まらない、独自性が目立つ特徴を備えていることが多い、という程度のところだろう。この著者は学者としての成功を得てから臨床家になった人のようで、それが患者のバックグラウンドを、「高い社会階層」とみてしまうバイアスを生んでいるのだとおもう。エライ先生のところには、VIP系の患者家族が集まるのである。

著者がちょっとづつ繰り返していることをまとめると、たぶんこんな風になるのだろう。脂質代謝の突然変異によって、現生人類は飛躍的に高い知能と身体統御能力を得たのだが、それにかかわる遺伝子は複数以上あり、全部揃ってしまうと分裂病になる確率が高く、少数だとソシオパチーや性格障害者、もしくは卓越した能力をもつ異能者になる傾向がある。分裂病遺伝子が揃ってしまっても、ある種の不飽和脂肪酸が充分供給されるような条件では、彼らは発病しないか、宗教芸術的才能などを開花させる程度になり、「創造的狂気」の範疇におさまる。そうした不飽和脂肪酸の投与は、副作用のほとんどない、あたらしい薬物療法の糸口になりえる。

「創造的狂気」なんて、無責任な文化人の思い込みだと思っている私にすれば、とても受け入れられるものではないのだが、治療的な指針がちゃんとあるので、どうのこうの言うことはない。役に立つなら何でも取り入れるのが、私らの立場なのだから。そう思って、この人の紹介している不飽和脂肪酸を治療に取り入れる論文を調べてみれば、なんかそれなりに最近のトピックになっている様子である。不飽和脂肪酸が沢山入っているイワシ、サバ類をよく食べる日本人に、重症分裂病が少なくて、「創造的狂気」の持ち主が多いかといわれたら、あんまりそうとも思えないのですけどね。

さいわい、この脂肪酸は高脂血症用剤として日常的に使われる薬剤で、しかも長期入院している人には高脂血症はなんぼでも見つかり、保険病名にも困らない。副作用もほとんどないわけだし、薬価も安い。スタチン系の高脂血症薬はまず使わない私なので、高脂血症を理由にした薬の追加もやりやすい。ここは試してみるべきだろうと、バタバタと病棟ひとまわりして、この薬を処方しまくるという、軽佻な追試をおこなうことになった。啓蒙書が珍しくも、具体的行動指針を与えてくれたわけである。放り出さずに行きつ戻りつしながら読んだかいがあった。本当に効けばいいのだけれどね。*

あ、それとこの著者はなかなかの事業家みたいで、「気分と頭がよくなるヨーグルト」みたいなものを作る(あるいはノウハウを提供している)会社も経営しているらしい。ドクター中松がちょっと入った人なのかな。(2002/09/09)

(*9/29追記:まだ3週間過ぎていないのだが、本当に効果があるようだ。今のところ、精神症状の軽減が得られた例は少数ながら、遅発性ジスキネジアの軽減は何例かにみられる。)

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年に数回訪れる、ミステリなんか読みたいな症候群発作である。最近はフランス系本格推理がはやっているそうなので、近所の本屋でもおいてあった、この本に決める。はやっているといったって、この業界にそう詳しいわけではなく、全部殊能将之氏のウェブからの受売りである。彼のお勧めというか好みである、「フランスのディクスン・カー」といわれるらしきポール・アルテという人の本はどこにも見当たらず、買えなかった。

仕方なくディクスン・カーその人の本も何冊か買うが、こちらは一冊読んだだけでいやになる。あんなコンマ秒以下の偶然が積み重ならないと成立しないようなトリックとその謎解き解説を、ぐじゃらぐじゃらと書き連ねられたようなものを、几帳面に読む能力が私にあったら、本業のほうでもうちょっと大成している。

職に恵まれぬオーバードクターの歴史学者3人が金に困り、パリの古いボロ館を維持改修との引き換えで安く借りる。中世史専攻で、主人公格のマルクには、たたき上げの敏腕刑事だった叔父がいて、この人はその職業倫理のゆえなのか、単なる悪徳刑事だったのか、殺人犯の逃亡を助けて免職されたという過去をもつ。この叔父も館にうつり、そう仲がよいとはいえない共同生活を始めるのである。

この館の西側にはギリシャから出てきて、一世を風靡したこともある元オペラ歌手ソフィアが引退生活を送る家がある。彼女はごく普通の男と静かな結婚生活を営んでいるのだが、ある時、窓辺近くに一本のブナの木が植えられているのに気づく。夫に聞いても知らないといい、彼女の不安は増大する。夫は昔のファンが、なにか隠喩的な意味合いで押し付けがましいプレゼントをしたのだ、と取り合わない。

ソフィアは越してきたばかりのマルクたちに、ブナの木の調査を頼む。なにか意味のあるものがその下に埋められているのではないか、というのだ。金詰りのマルクたちは謝礼につられて協力するが、何も発見できない。そんなことがきっかけになって、ソフィアと親交ができ、彼女が懇意にしていたビストロ経営者の若年増、ジュリエットとも付き合いが始まる。ジュリエットは反対側の館に住んでいるのだ。歴史学者の一人、古代史専攻のマティアスは彼女のビストロでアルバイトをはじめ、穏やかな近所づきあいが交わされるのだが、そうこうしている間に、ソフィアが失踪してしまう。夫は、ちょっと用事があるだけだと気にしない。

その後、ソフィアの姪、アレクサンドラがリヨンから出てくる。自分との約束を忘れる叔母ではないと主張するアレクサンドラのために、事態は一期に事件化し、やがてソフィアとおぼしき身元不明の焼死体が発見される。

本格推理というと、雪に閉ざされた山荘で、関係者一同が疑心暗鬼になってドアから頭を出したり引っ込めたり、というようなものを想像したのだが、中盤まではフランス街角人情話に、うまい具合に失踪や殺人事件が組み込まれた雰囲気の、ソフトかつ地味な展開である。ところが、第二の殺人の調査が本格化するあたりから事態は一変し、それまでの人情話の布置は、まるで別の様相を呈することになるのである。

カーの理屈の上だけで成り立つようなトリックも、こういう生活史全般を偽装するような犯人の超人的作為も、とても現実的ではないわけで、そういうところを指摘してみても詮無きこととは思う。しかし、全生涯をかけて一テーマにそった犯罪をやりとおそうとするような、犯人の外面菩薩内心夜叉のギャップはいったいどうやって処理されていたのだろう、とつい考え込んでしまう。人間とは行き当たりばったりにしか生きられないものだ、と思っているこちらのほうが普通ではないのかしら。

その点に関しては、なにしろ連続殺人犯なので、目的のためにはどんなことでも平気でやれるんだよ、というような感じの安易な収め方が、前半の穏やかで繊細な描写を大きく裏切っていて、このフランス流本格というものにちょっと疑問を感じてしまうのだ。 (2002/09/28)

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某方面よりDivxファイル化されたこの映画を入手した。イケナイこととは知りつつ、来るものは拒まぬ主義から早速鑑賞した次第。ただ、音声は悪いわ、画面もぼんやりでなんだかはっきりせぬわで、そもそも物語そのものがあれこれ満載でようわからん内容だったので、これはあくまで参照ということにさせていただき、本物をそのうちもう一度ちゃんと見るつもり。まあ、DVD借りてくるだけのことですけど。

数千年の平和と繁栄を誇った銀河共和国も、だんだんとほころびが見え始め、政治家は腐敗するわ、分離主義者は跳梁するわで危機が露出し始めていたのだった。あちらこちらで独立を策動する分離主義者に対して、断固たる処断を求める一派は、共和国軍の創設を主張するが、前女王のアミダラ元老院議員は、それに反対するため議会の開かれる惑星に赴いたところ、そこで暗殺未遂事件に遭遇する、というのが出だしのつかみ。

共和国議会はアミダラ議員にジェダイの護衛をつけるのだが、これがオビ・ワン・ケノビが訓練中のアナキン・スカイウォーカー。こいつはアミダラとなぜか知り合いで、合うや否やかっての恋情を燃やすのであった。それはエピソードIでネタ振りされているらしく、そういえばちょっと前にそのDVDも見たはずなのだが、記銘力低下激しい私はあまりよく覚えていないのだ。知り合いっていったって、片一方はてんでガキだったはずなんだけど。

えらくしょぼい再度の暗殺計画を防いだアナキンは、アミダラが避難する故郷の惑星に警備責任者としてともに赴くのだが、なぜかそこで70年代風ニューシネマみたいな、とろくさい愛の生活を二人で繰り広げるのである。あそこは絶対バート・バカラックをBGMに使うべきだよな。そうこうするうちに超能力のあるジェダイのこと、母親の危機を感じたアナキンは、勝手に故郷タトーウィン惑星に母を救いにアミダラと出かける。結局、母を救うことが出来なかったアナキンは怒りに我を忘れて大虐殺者と化し、さらに絶対的パワーにあこがれることになる。

その後の話がどうもよくわからず、共和国の内部に陰謀があって、だいぶ前からクローン軍隊創設の準備がされていたのをオビ・ワンがつきとめたのはいいものの、分離主義者の陰謀も一方で進んでいて、それを粉砕するためにその軍隊は実戦投入されてしまうのである。アミダラは軍創出に反対していたはずなのに、その代理であるジャージャーは共和国軍創設の大演説をぶったりする。まあ、おかげで主人公たちはそのクローン軍隊、これはかの機動歩兵、ストーム・トルーパーそのもの、に命を助けられるんだけどね。

どうも分離主義者=星間ブルジョワジーたちのせこい策動を利用して、ジェダイの腐敗分子が共和国の軍事化を通じて一気に独裁化しようという陰謀があったのだ、ということらしい。こんな単純な策動が通じる未来社会なのかいな、ローマ帝国史でも研究している人がいたら、一発で見抜かれてしまうのではないか、と思わないでもない。神話物語だからこれでいいんでしょうけどね。(掲示板で、この現実世界とぜんぜん時系列が違う話なんだから、ローマ帝国なんか存在しないのだ、と指摘されてしまう。そういや、"Long, Long ago, in a Galaxy far, far away"だったね)

映画としては、アナキン役者がちょっとしょぼすぎたけど、私の大好きなマオリ系俳優、タムエラ・モリソンがかのボバ・フェットの親父(といってもクローンだから、本人そのものか)として大活躍してくれたのがうれしい。ストーム・トルーパーって、みんなあいつのクローンだったのね。二作目三作目で、なんだか意味ありげな存在だったのがちょっとわかった感じ。しかし、なんとなく謎解きしてみりゃこんなもんか、と思わないでもない。

命脈つきた民主主義政体に、パワーあふれる変革をもとめる2ちゃんねらーみたいな幼いファシストたちを、いさめようとする意図があるらしいのだけれど、ちょっと様式的なとらえ方が過ぎるのではないかな、と思わないでもない。もっとも、胡散臭いDivxファイルで見た感想で決め付けるのはなんなので、ちゃんとしたソフトでもいっぺん鑑賞させてもらった上で判断させていただきますが。

しかし、アミダラというと、アミダ婆ぁを連想してしまい、どうも素直にヒロインを鑑賞する気になれないのがいけません。(2002/10/06)

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  • パニック・ルーム (2002年米映画。監督:デビッド・フィンチャー)

かの重暗陰鬱不快映画をとらせれば右に出るものがいない、デビット・フィンチャー作品である。向こうの俳優にとっては、こいつの映画に出るのが一種の大物証明みたいなものなんではないか、というような感じがしないでもない。タモリのお昼番組みたいなものか。映像の凝り方はたしかになかなかのもの。タイトルのところで、題字がニューヨークの建物群に付属した構造物みたいに映っているので、すでに意表をつかれてしまう。ちゃんと窓ガラスに影まで映ってるものね。階段飛び越えたり、壁を突き抜ける場面移動もなかなか。

話自体はたわいないもので、女をつくって別れた旦那への意趣返しにと、豪華なタウンハウスを元旦那の金でマンハッタンの真ん中に買ったジョディ・フォスターとその娘が、前の持ち主が作っていた緊急避難部屋をつかって、侵入してきた泥棒と対決するというだけのこと。えらく凝ったセキュリティシステムをつくっている割には、侵入がえらく簡単そうに見え、パニック・ルームが売りだった不動産屋も、肝腎のシステムをちゃんと稼動するようにしていないという、まことに都合のいい設定なのである。

泥棒連中にきづいたJ・フォスター母娘が、パニック・ルームに逃げ込み、将棋の穴熊状態でお互いに打つ手なし、というところでどんなストーリー展開がありえるのかとおもうのだが、結構小細工を弄し合ってそこそこ話はすすむのである。途中で泥棒のひとりが仲間に向かって、"I don't need any help from this Joe Pesci."とかなんとか言うシーンがあって、なんのこっちゃいとDVDにポーズをかけ、傍らのPCでIMDBなどを引いてみると、ジョー・ペシってのは「ホーム・アローン」に出てきた泥棒役の俳優の名前。つまりこれは「ホーム・アローン」のパロディなんですね*。パロディというと普通は笑いで異化するわけだが、これは不安増幅という異化手段をつかっているのがみそ。J・フォスターはきっと、かのカルキン君の実生活的不幸をも、その背にしょった演技をするという、凝った重層性をかもし出そうとしていたに違いない。

それと穴熊状況からストーリーを作り出す手段として、娘が若年性糖尿病(?)であるという設定があるのだが、インスリン(?)を打たないと低血糖になるという糖尿病は、なんぼなんでもまずいのではないか。もしかしたら時間がたつと低血糖になってしまい、定期的にグルカゴンでも打たないといけないような天下の奇病なのかとも思ったが、そんなのは聞いたことがないしなぁ。高血糖になるだけでは、じたばたしようがないから、ドラマがもりあがらないと思ったのかも。これはIMDBでもgoofとしてとりあげられていなかった。医学監修がここまでいい加減なのは、最近ちょっと珍しい。

そのほかにも理屈に合わないところはいくつか目に付くが(空気より軽いプロパンガスとか、ドア開けた隙になんで携帯電話をかけないのかとか)、これは「もしもデビッド・フィンチャーが『ホーム・アローン』を撮っていたら」という、ドリフのコントみたいなものだと思ってみて楽しんでおくべき一品であろう。もちろん、そうできるかどうかはまた別の話。(2002/10/24)

*この映画が「ホーム・アローン」のパロディであるというような鋭い発見が私にできるはずもなく、誰かがそういっていたのが、頭のどこかにこびりついていたからそれに気づいたのだろう。確かめようと巡回する数少ない映画サイトを調べたら、読んだかどうか覚えはないのだが、やっぱりネタがありました。あのジョー・ペシ云々のセリフは、確かにやたらに違和感あるからね。

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  • ブラックホーク・ダウン(2001年米映画。監督リドリー・スコット)

ごちゃごちゃとした、ゴミタメみたいなのを美しく撮るのでは定評のある、リドリー・スコットの戦争映画である。93年のソマリア内戦に介入した、米軍の果敢なる戦いを描いたというのだが、米兵たちは仲間の一人でも弾が当たると大騒ぎし、ソマリア民兵をばたばた撃ち殺しながら、自分たちを守ることだけに必死なのである。取ってつけたような使命感より、当然ながら、とにかく自分と仲間が大事で、作戦目的へのダンドリが異様にわるい上層部の思惑とは無関係に、ドンパチが延々と広がりまくるのである。

そして腰の引けた米兵の使命感なんかまるでさまになっていないのに、民兵の親玉が吐くセリフ、「俺たちは歴史を作っているので、あんたらみたいに正義を行っているのではない」というのが実に決まっている。だからなのか民兵たちはほとんど一方的にやられまくりながらも、実に生き生きと戦っている。映画自体のつくりは米国の一方的自己正当化なのだが、映像では民兵側のノリの勝ちである。企画としての米軍賞賛の意図(多分)を、映像作家の感性が見事に裏切ってしまっているのである。どこまで意識的なのか、ちょっと判断に苦しむのだが。

結果として、硝煙の中、ゲロ吐きながらヨレヨレになって逃げる米兵たちを、踊りながらはやし立てる子供たちの無邪気なあざけり顔を美しく撮るためにこの映画がつくられたとしか思えない。「あれはアフリカの民衆を守るために戦った米軍を賞賛しているのだ」とおめでたくも感動してくれるアホたれを見つけて、その後の付き合いを考える識別装置にしてやろう、ぐらいのことは考えたのではないかな。

映画の始まりで「戦争の終わりを見ることができるのは、死んだ兵士だけである」(記憶あいまい)というプラトンだかの言葉がでるのだが、逆に言えば、「死ぬことさえなければ、戦争はけっこう楽しい生き方を提供してくれる」というところか。とりわけ、ノリでやってるような連中にとっては、自分が死なない限り永遠の真理というものだろう。正義の名のもとに、うわずった介入をしてしまった、米国式使命感が空転するざまを、延々と鑑賞できる一作というものを、エンターティンメントとして楽しめるかどうかは、意見が分かれるところだろう。

個人的には、硝煙たなびく戦闘場面にやたらにうろつく野良犬が印象的であった。犬に弾は当たらないのかと、ハラハラしながら見ていたのである。全然関係ないこんな俳句を思い出したりして。

油煙の立つや夏原狩りの犬---伊丹十三

(私の世代だと、これには注釈がいらないが、若い人は何のことだかわからないだろう。これは昔の日本人ポップス歌手がプレスリーの"Hound Dog"の"You ain't nothin' but a Hound Dog"を歌ったのを聴覚訳したものに由来する。全然この映画とは関係なくてゴメン。

(2002/11/06)

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  • ラスト・ワルツ (78年米。監督マーティン・スコセッシ)

職場のDVDコレクターが、新着ソフトを何本か買っているようなので物色する。その中からこれを見つけ、まだ封も切られていなかったが、当然のように私物化し、視聴。

これは76年に行われたカナダ出身のロックバンド、「ザ・バンド」の解散ステージの記録映画なのである。その2年前にスコセッシ監督が出した「タクシー・ドライバー」にかなりまいっていた私は、その当時、この映画をどうしても見なけりゃいかんと思ったのはいいが、卒業直後の研修生活のどたばた(もっぱら看護婦さんとの飲み会が忙しかったというわけ)で、その機会を逸していたのだった。

といって、ザ・バンドのファンだったわけでもないし、大体、ボブ・ディランのバックバンドであったことぐらいしか知らず、彼ら自身の音楽活動にはまるきり無知なのである。一般名詞を自分らの個別名にする根性に、多少は一目置くものの、どうもそれは単なる行きがかりだったようなことも映画ではばらされてしまうのだ。多分、彼らの個別性とは無関係なところで、60年代のアメリカ系ロック音楽が変貌していく雰囲気から時代を見据えるといった、スコセッシ風の回顧趣味でまとめているにちがいない、というような思い込みで何らかの期待をしていたのだ。

実に30年近くたってから、やっとその期待がかなえられたわけだが、結論的感想としていえるのは、60年代にルーツをもつロックミュージシャンというのはやたらに小汚い、という一点のみ。日本式にいうと友情出演といえる連中が、みんなこれでもか、というほど胡散臭い。音楽のほうも、DVD早送りがないとちょっとつらい。聞きとおしたのは、井上ひさし似のジョニ・ミッチェルによる「コヨーテ」とか、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、そして最後の全員による「I shall be released」ぐらいのもの。

あの時代のロック音楽シーンの単なる記録映画としても、それなりに評価できるとはいえ、ニール・ヤングなんて「シャイニング」から抜け出てきた主人公みたいに危なそうだし、同じニールでも、ダイヤモンドのほうなんか、インチキ商売で会社をおこした似非エグゼクティブにしか見えない。ほかの連中もみんな古典的ロック業界利権を泳ぐ、総会屋か労組オルグ専従班、といったおもむき。キョービの、如才ないプロデューサーにすべて仕切られた小奇麗なまとまりのよさとは、何の関係もないのがむしろ逆に小気味よい。

それでも、映画はフツーのコンサートドキュメンタリーのかたちをとりながら、60年代をそれなりに疾走したザ・バンドという連中の幻想と野望と失望をそこそこ表現しているのは、さすがスコセッシである。その時代の寵児となりながら、ツアー生活の中で消耗して死んでいった天才ミュージシャンである、ジミー・ヘンドリックスとか、ジャニス・ジョプリンなどへの憧憬を語らせつつ、彼らの轍を踏むことを拒否して1.5流で終わることを選んだ一般名詞バンド、ザ・バンドの怯懦と保身の悲しさを、ろくでもない時代へ移り変わっていく予感としてまとめた手腕を味わうべきであろう。こうして20数年遅れで見たことも、それなりに意味があったかな、なんて思ったり。(2002/11/19)

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  • テレビの黄金時代 (小林信彦:文藝春秋)

最近のTVを見ているとイライラする。タレントが集まって仲間内の自慢話をするか、やはりタレントがあつまってどうでもいいような情報をフムフムと聞くような番組ばかりが目に付く。とくに健康情報について、後者のパターンは民放・NHKを問わず放映されていて、たとえばドロドロ血液は身体に悪いという内容なら、まずタレントの検診をやってひと騒ぎ。どこやらに改善する昔ながらの方法があると絶叫しながらレポ―トする馬鹿アナウンサーが無意味に時間を引っ張り、「さてその方法とは?」でCMが入って、つぎは素人か安手のタレントがその方法にチャレンジした、という記録VTRになって、「驚きのその結果とは?」でCM入れて、スタジオに被験者をいれて皆で大仰に騒いでエンディングである。

こんなもの、血液循環を改善するにはこういう方法が効果的だそうです、と紹介すれば5分で終わる。それを1時間近い番組に薄めるのは、企画が出来ないスタッフ自身と芸無しタレントを救済するための一種の公共事業みたいなものなのだろう。なにより、みのもんたがむしろ新鮮に感じられるほど、どこの局でも同工異曲の番組を作りつづけ、発想の貧困さにあえて居直ろうとしているとしかみえないのが不思議である。作り手は虚しくないのだろうか。私がああいう仕事をしていたら、世の無常をはかなんでお遍路さんにでもなってしまうぞ。

昔はこうではなかったな、なんていうとそれはお前がジジイだからだといわれそうだが、見ている側にも作り手の熱気が感じられる時代は確かにあったのだ。この本の著者、小林信彦によれば、60年代初めから70年代初めの約10年間がその黄金時代だったという。ちょうどその時代、TVぐらいしか娯楽のない田舎で貧乏育ちしていた私にも、それは実感できる。(ここでTVとかTV番組というのは、すべていわゆる「バラエティ番組」のことをいっているが、報道やドラマを含めても、同じようなものだと言えるのではないか)

かの「オヨヨ大統領」シリーズでしられる小林信彦は、当時一部のTV番組の作り手側に入ったり、時には出演者になったりしながら、それに没入することなく常に半身で、もっぱら観察者としてTVに関わってきたという。この本は回想録ではないのだそうで、あくまでTVにかかわる人々が、ものを作り出す熱気にあふれていた時代のクロニクルを目指しているらしいが、やはり業界内幕話として私なんかは読むしかない。

この本はほとんど「光子の窓」のディレクターであり、「シャボン玉ホリデー」などのバラエティ番組のプロデューサー格であった、井原高忠という人に捧げられているといってもよく、それらの番組の放送作家であり、出演者でもあった前田武彦や青島幸男たちとのかかわりを通じて、井原の仕事、それも「シャボン玉ホリデー」を中心に、そこにクレージー・キャッツなどのタレントを供給していた渡辺プロ周辺の動きなども交えて描かれている。60年後半からは、小林自身が井原の別番組「九ちゃん!」(もちろんこれはマラソン選手ではなく、飛行機事故で死んだ歌手、坂本九の番組である)の作家の一人としてかなり中心的に動きはじめ、ドリフターズやコント55号という新しい才能がでてくるのを目撃しつつ、TVからは離れていく。

小林信彦が何を根拠にして、TVの黄金時代がおわったというのか、読んでいてもいまひとつはっきりしない。しかしTVを見るときに感じていたワクワク感が、そのころ急に消えうせてしまったのを、一視聴者である私も実感する。肥大化しすぎた渡辺プロの独占化が、渡辺プロ自身の凋落をまねいたこととか、ちょうどそのころオイルショックが勃発し、放送時間枠が削られたことなども挙げられているが、要はこのころTV放送20周年をむかえて、TVというメディアで試みられそうなことはほぼやり尽くされてしまった、ということがその実体らしい。

私は、TVが面白くなくなったのは自分が大人になったからだと思っていたが、TV自身がこのころ成人に達していたのだった。少数の映画、演劇、音楽、出版からのわけありはぐれ組少々と、大多数の素人によって作られていたTVが成熟し、老成してしまったということなのだろう。小林も挙げているが、72年の浅間山荘事件は決定的だったとおもう。10日にわたる攻防戦、といっても遠景から雪にかすんだ建物が見え、時折銃声が聞こえるだけ、という「実況中継」なのだが、これにおそらくほとんどの人が見入ったのである。それはバラエティ番組も、ドラマも真似の出来ない「現実」であった。ある現実をそのまま映し出すことが、どんな作為よりも力があることを、TV自体が暴露してしまったのである。

小林信彦はTVの黄金時代が終わり、TVの魅力がなくなって誰もTVを見向きしなくなったといっているのではなく、むしろ反対なのだ。TVというメディアは黄金時代にこそうまく飼いならされ、視聴者がそれに支配されることから逃れられていた、と彼はいう。黄金時代の後の荒廃こそが、TVによって人々の精神や文化が食い尽くされ、破壊される危機をもたらしたというのだが、それはどんなものだろう。私にはいまのTVに徹底的にスポイルされるほど、人々が愚かだとは思わないし、なによりいまのTVにそんなパワーがあるとも思えない。

おそらく危機はそんな支配−被支配などという形ではなく、「共倒れ」という形で、しかもすでに来てしまっているのだ。初めに挙げたような、どんなパワーも感じられないその場しのぎのクソ番組の数々を、タダのものに文句を言っても仕方ない、と多くの人が物分かりよく受け流していること自体が、すでにこの国の文明というものが終焉を迎えてしまっていることの現われだろう。そこには作り手の才能の発露や熱意もなければ、人々の期待もないのである。(2002/12/08)

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  • 白い犬とワルツを (監督グレン・ジョーダン 93年米TV映画)

昨日TVをぼんやり見ていたら、NHKBSでこれを予告していた。えらくおぼつかない新人のアナウンサーが、「老人とペットの交流を描いたドラマ」だというので、そりゃ違うんではないか、とおもって見はじめたというわけ。ちょっとまえ、近くの本屋にもこの原作が平積みされていて、千葉はどこやらの本屋さんの手書きの紹介文がきっかけになって、口コミでベストセラーになったという由来が書いてあり、そんなアホなことがあるわけがない(真面目な本屋さんが推薦文を手書きする、ということは事実でしょうけど)、メルヘンでメルヘンを売るという出版社の宣伝戦略だろうとおもって眺めていたものだった。歳とって涙腺がゆるくなっているので、この手の泣かせで攻める卑怯千万な本など買うと、たちどころに向こうのいいカモにされる危険があり、あえて買わなかった。まあ、TV映画ぐらいだったら見ておいてもいいかな、と視聴した次第。

50年以上連れ添った妻を突然の心臓発作で失った老人のところに、白い犬が訪れるようになる。近所にとついだ娘たちが老人の世話をしに来るが、犬は見えない。老人がボケて幻覚を見ているのだ、と心配する娘や息子たちをよそに、老人と犬は仲むつまじく暮らしている。老人は自分と妻が出た学校の同窓会に、犬と一緒にこっそり出かけ、道に迷ってしまう。車を浅瀬に立ち往生させてしまい、溺れかける老人の危機を、白い犬が息子たちの前に現われて道案内し、老人はかろうじて助かる。しかし老人は肺炎になって寝こんでしまい、やがてこの世を去る。葬式の翌日、老人の墓の真新しい土には、犬の足跡がくっきり残されていた、という話。

ワンワン騒ぐわけでもなし、子供たちにも見えず、近所の犬にも気配をさとられない犬という、超自然的存在の白い犬が、やがて子供たちにも見え始め、そこで老人は妻と自分の死を受容していくという話で、死んだ妻そのものというか、死の予兆のアレゴリーと言ってもいいのか、白い犬がどうしてあんなに不可思議なものに書かれる必要があったのかいな、と思わないでもない。もちょっと普通に書いておいたほうが余韻が増すのでは、と思うのは日本人感覚かも。想像するに、老夫婦の個別的愛の物語を、永遠に至る普遍的無時間的なものへと変換する装置として、あの犬をだしたということなのだろう。実に様式的といえば様式的、手の内はさらしまくりといっていいのだが、その限定的なイマジネーション喚起をねらったやり方ゆえに、手もなくつくり手の術中にはまるしかないのもまた事実。

ましてこちらでは、先ほどの「手作りベストセラー」の物語まで付加されている。ここまでルチーンでせめられると、「感動」という奴に浸るしかなくなる。考えてみれば、感動というのはまさしく紋切り型の構図からこそ、出現してくるものであるのだから。これに似たものはどうもいつぞやどこかでお目にかかったような気がする。そうだ、「マディソン郡の橋」である。そういえば映画の中でもマディソンが出てきたような。同じ場所かどうかしらないが。

あちらのほうを「一杯のかけそば(性愛編)」と書いたように思うので、こちらを同じようにいうなら、「一杯のかけそば(死生観編)」とするのがよろしいかも。(2002/12/10)

  • 他人と深く関わらずに生きるには (池田清彦:新潮社)

構造主義生物学者、池田清彦氏の新刊である。いまどき、何とか「主義」というラベルを(もっとも構造主義は政治的立場を表す言葉ではないけれど)自分の仕事につけるという、いささか時流に反したスタイルを貫かれておられるので一目瞭然なように、この方も団塊の世代後半の偏屈者である。

出版社の著者紹介によれば、「構造主義科学論とそこから導かれる多元主義、そしてリバータリアニズムの考えをもとに」著作活動をおこなっておられるというのだが、前半はいいとして、「リバータリアニズム」っていうのはこういう立場をいうのだろうか?リバータリアニズムって市場至上主義のくせして、個人の権利とかにはえらくこだわる、いいとこ取り主義のことなんだと思っていた。有名な解説本を和訳したのがえらく胡散臭い人で、訳もかなりお粗末だったからちょっと偏見がある。

この人の立場はマイルドなアナーキズムなんじゃないですかね。規制をとっぱらうというのは同じだが、具体的な有用性によってのみ結ばれるような経済体制と、犯罪行為のチェックという機能だけに限定した権力というのは、リバータリアニズムとはかなり違うと思うのだが。まあどうでもいいけど。

とにかく池田氏の理想とする生き方は、他人から余計な指図をされず、またそうしないというもの。前後編に分かれているこの本の、前半の章立てをいくつかあげるだけで、ほぼその内容は想像され、現に想像通りなのである。「濃厚な付き合いはなるべくしない」「車もこないのに赤信号で待ってる人はバカである」「病院にはなるべく行かない」「心を込めないで働く」「ボランティアはしないほうがカッコいい」「自力で生きて野垂れ死のう」などなど。

妙な理想原理主義に拘泥するのはやめて、ホントに自分が興味を持てることのために生きていこうよ、というごくごく当然の主張なのに、それがかなり奇矯なものになってしまうのがいまの時代の問題なのだろう。例えば「病院にはなるべく行かない」で、著者はおおむねこういう主張をしている。怪我と感染症以外は病院にいったとしても治るとは限らず、まして自覚症状もないのに検診などでデータ異常を言われただけで病院に行くのはナンセンスだ。それは健康は正常で善であり、病気は異常で悪だといういう健康原理教の信者になっているだけのことだと。私もそのとおりだとおもう。付け加えるなら、そういう健康原理教信者に限って、医師のいいつけとか、一般化している健康神話のためなら、大変な苦行をすすんで受け入れるのである。どうにも訳がわからない。

この本の後半は、著者がいうような生き方が可能な社会をつくるにはどうしたらいいか、という提言である。だいたい、この本がかかれたのは、日本が陥っている消費不況と雇用不安の悪循環への解消策という意図だったという。その具体策についての評価はさけるが、そういうものを実現させようと努力することは、少なくとも「他人と深く関わら」ない生き方からは導かれない、というのはどうにも致し方ない根源的矛盾。(2002/12/12)

  • 第四の扉 (ポール・アルテ 平岡敦訳 ハヤカワポケットミステリ)

殊能将之氏のサイトでやたらにポール・アルテが持ち上げられていて、ぜひ一度読まねばならないと思ったのはいいが、近所の本屋にはないし、この前都内にいった折、けっこう大きな本屋をのぞいたにもかかわらず見つからないのである。仕方なくBK1で注文。届いた本を見て納得。いわゆるポケットブックという奴だった。文庫本だと決め付けていたのでみつからなんだのだ。昔から、ハヤカワのポケットブックというのにはあまりコストパーフォマンスを認められないと思って、チェックすることもないのだった。

なんであれ、手に入ったからには読むしかない。「フランスのディクスン・カー」が創り上げたミステリ世界はいかがなものかと、恐る恐る読み進める。まえにこれが見つからなかったので、ディクスン・カーそのものを買ってきて読んだのはいいのだが、あまりの瑣末的理屈合わせに終始する内容に、かなり辟易した覚えがある。ああした理屈の上だけで謎が解明されているようなのは、そのゴチャラゴチャラしたとこなんか読んでる先から忘れてしまって、結局なんだかよく分からないのである。多少の矛盾ぐらい、力技でねじ伏せて読者を納得させるようなタイプのほうが私ごのみ。

読み終わった結論。これ、なかなかイケるではないの。なんでこの人が「フランスのディクスン・カー」なんだろう。むしろ一時凝ったことのある、都筑道夫を彷彿とさせるものがある。「フランスの都筑道夫」と呼んだほうがいいのでは。どこに共通点があるかというと、フェイクだと自覚している「照れ」が全編を覆っていること。いつも「なんちゃって」が語尾に来るのである。それもなにせ、この作家が小説というものを書き始めて第二作目ということもあるのか、ちょっとずれたようなイギリス中流家庭の描写と、牽強付会な奇術師フーディーニ伝説を無理やり絡ます一発ネタのぎこちない同居の不安定さが、いやでも異化作用をおこさずにはおかない。

もちろん、大真面目に書いているのに結果としてこれになった可能性もあるわけで、今後訳出されるものを注意深くチェックする必要はあるとおもう。妙に勘違いされたら、ちょっと付き合いにくいものばっかりになるかもしれないわけで。とにかく、読んでるあいだずっと、頭の中でオーネット・コールマンの「泣く女」が流れっぱなしになるという、みょうな読書体験だった。そういえば、オーネット・コールマンは天才なのかタコなのか、という昔あった論争はどうなったのだろう。

なお、この話のあらすじを変にかくとネタバレになるので、本職のまとめを読んでいただくのが一番いいような。

全然大筋とは関係ないが、登場人物の一人が、外国から帰ってくるというところで、あるところでは飛行機で帰ってくることになっているのに、別のところでは船になっていて、訳の問題かもともとなのか、ちょっと頭をひねる。どっちだっていいんですが。

  • ロード・オブ・リング (2001年米映画 監督/製作/脚本:ピーター・ジャクソン)

借りてきたDVDで「ロード・オブ・リング」をみる。ダークサイドのフォースが封じ込められた指輪をひょんことから受け継いだ、ホビット(小人族なのかね?)の一人が、勇士たちの手助けをえて、その指輪を手にして世界を闇の支配下におこうとする邪悪な力と対決するという話。里見八犬伝と桃太郎と、アーサー王伝説なんかをごちゃまぜにしてひっくり返したような話である。NZ南島で長期ロケを行ったそうで、失業問題が深刻なかの地には、ずいぶんな雇用対策になったらしい。しかもロケ跡地が観光地にもなって、万々歳というはなし。監督はNZ人で、いままでケッタイなホラーコメディみたいなのを撮っただけらしいが、企業家としてなかなかの手腕といわざるをえない。

とはいうものの、映画としては私には全然あわなかった。もともと大長編物語らしいのだが、映画化されてもやたらにくどくて長く、しかもえっ、これで終わりなの?という終わり方。続きものにして稼ごうという魂胆らしいが、これに引っかかってまた見に行く連中がいるとしたら、キョービの人々はよっぽど娯楽に飢えているとしか思えない。そんなことするぐらいだったら、もちょっと金ためてNZにでも景色見に行きなさい。映画よりよっぽど感激するのは間違いなし。

唯一興味をそそられたのは、主人公とその仲間がみんな、えらく身長にハンディがあり、日本でつくるなら、白木実とか、空飛小助(誰も知らんか?)、プリティアトムなんかを総動員しないといけないのだが、差別助長なんてこと言い出す手合いもいるだろうし、なかなか勇気のある設定だなぁと感じたことことぐらい。

ところがDVDのボーナスクリップをみると、どうもそれは特撮で誤魔化してそう見せているだけのようで、ちょっとがっくりなのだった。ネットで有名どころのレビューをいくつか見たが、誰もそこに触れていないのはなぜなのだろう。うしろ姿シーンなんかでは侏儒系の役者を使うのだろうか、それとも子役なのか、エンドタイトルロールを必死に見る趣味などないので、さっぱりわからない。

もともと私はこの手のファンタジー系がまるでだめなのだ。これは幼少のころ、絵本などにあまり親しまなかったためだろう。幼稚園のとき、「キンダーブック」という月刊絵本みたいなのを買わされていて、それに出ていた単純なおとぎ話に激怒した記憶がいまだにありありと残っている。動物園のサル山を巡るおサルの電車があって、夜中に動物園に入り込んだ子供が、サルにつれられてサル山の裏にあるおとぎの国に行く話である。

サル山の周りに線路があったって、何周回ろうがサル山の周囲以外にいけるわけはないじゃないか、いい大人がなんとつまらんバカ話を書いているのだ、と本気で腹が立ったのである。ついでに「キンダーブック」なんて、ドイツ語と英語を適当にごちゃ混ぜにした変な名前をつけるんじゃないと毒づいた、というのはさすがにウソ。

自分の子育てのときも、あまりしゃれた絵本というものに子供たちが喜んだ記憶がない。変に抽象ビジュアルなうさこちゃん(なんと今はミッフィーというらしい)より、まだ漫画っぽいノンタンのほうが面白いというような、俗っぽい遺伝的趣味をうけついでいた。例外的に喜んだのは、嵐山光三郎と安西水丸の「ピッキーとポッキー」ぐらいだ。しかも、多少物心がついたら、漫画そのもののほうをよっぽど好んだようだし。おかげで小学校の読書感想文に「パタリロ!」について書いてしまい、えらく顰蹙をかったりしましたが。

それはいいとして、「ロード・オブ・リング」にもどると、特撮でホビットとかドワーフ族を描いたにせよ、元の俳優たちの大頭胴長短足傾向というのはまず間違いないのである。日本人の若い世代はえらく急速にヨーロッパ的体型を獲得してしまい、これはちょっとした栄養状態改善とか、生活習慣の変化などでは解明できない謎を含んでいると私は思うのだが、それはまた別の話。ところが欧米の方では昔日本人があこがれたような「八頭身(完全に死語)」などというものは、ビジュアル的魅力と全く関係なくなってきているらしい、というのを「天才マックスの世界」とか「スパイダーマン」で感じていて、その印象をさらに強固なものにした映画なのであった。これには、いつかまた触れるつもりだ。

まあなんであれ、ああしたガキっぽい二項対立的世界観というものは、毛唐からキリスト教の価値観を引き剥がしたらすぐに露出してくるものらしい、というのが見えるあたりをそこそこ楽しむべきかな、などと無理に持ち上げてみたりして。(2002/12/17)

<追記>

一昨日、映画「ロード・オブ・リング」をくさすようなことを書いたら、あの物語のファンにはいたく不興を買ったようで、掲示板やメールで何件かご意見をいただいた。いろいろな視点が寄せられた、といいたいのだが、「あの原作を読んでいれば、あの映画がいかに素晴らしいかわかるはずだ」というのが基本の様子。

これは実に異様なことといわざるを得ない。例えば私のお気に入りの映画はいくつかあるが、それをつまらんという人に対して、「原作を読んでいればそのおもしろさがわかるはずだ」といえるようなものは一つもない。「カサブランカ」なんて、大体原作がないはずだし、「タクシー・ドライバー」だって同じようなもの。その面白さを判断するのはその映画そのものなのであって、原作とか由来で判断がかわるということはないはず。あれは確かに金をたっぷりかけて練りに練った映像を展開していると思うが、私みたいにそのストーリーや構成世界になんの興味もない人間には、全然どうでもいいものだとしかいえない。

作者のトールキンという人は言語学者でもあって、物語の中で使われている古代語というか、妖精語を丸々作るような能力と馬力の持ち主らしい。たぶんその物語も古典的素養に裏打ちされた緻密なものなのだろう。私が理解するような「ファンタジー」というものの先駆者なのかもしれず、そのため逆にああいったものが全部同工異曲にみえてしまって(つまりそれに続く作品群はみんなこれのパクりだということ)、ますます興味がもてないのかも。

ムッタ・デーバ日記のここなど読むと、仏教思想の次に人生をかえた本だとして、これに心酔していた時期があったと告白している。同じように宗教系高校で過ごしていて、既成仏教への疑問点をつきつめていった彼と比べれば、私なんか俗物のきわみであって、その俗物性がこういう物語を受け入れないのかもしれない。ムッタ・デーバ氏にとっては、アレフにいたる大いなる助走のフィールドであったわけで*、この物語に心酔する多くの人にとっても、神無き時代の代理神として機能しているといえるのかもしれない。そういうものにはそれなりのリスペクトを示す必要があったな、とほんの少々反省しているところ。

*アレフにいたる大いなる助走という書き方をもって、なにか貶めるような意図はないのだと強調しておきたい。もちろん、それが本当に解脱に至る道なのだろうかと、ちょっと案じているのは事実ながら。(2002/12/19)