けさの毎日新聞に、「地域医療の使命」なる署名記事が載っていた。大阪編集制作センターの千葉修平という記者が書いたものである。これは「京都府舞鶴市の市立舞鶴市民病院で内科医10人全員が3月末で一斉に辞職し、新任の副院長らも4月末に辞意を表明、病院機能の一部がまひする事態が続いている」ことによせて書かれたとのこと。そういう事態の原因は「『理念』と『経営』との対立だ」とこの記者は言う。
「さまざまな外来や入院患者に対応する『総合内科』を続けたかった現場医師らの医療理念。得意分野を限定して収益性の高い『専門内科』中心に転換しようとする病院の経営方針。この間の溝が大きくなった」からだというのだ。おかげで病院側は外来を制限し、内科入院患者をすべて転院させたらしい。これもみんな病院が、収益性ばかりを考えた結果だのこと。
おいおい、馬鹿なことをいうのもいい加減にしろよといいたい。どこの世の中で、田舎病院が変に専門化して経営効率があがるというのだ。実際の経営シミュレーションを大雑把にでもやってみるという程度の検証をする誠意など、この記者には全くないらしい。日ごろ、神話化したような理屈で病院叩きばっかりやっているから、理念と経営の対立なんて間抜けなことをいって平気でいられるのだろう。
医療経営において、何がいちばん大事かというと、それは理念を明確にし、それを人々に分かりやすく掲げることである。もちろん、その理念というのは利用者が求めるものに即応しつつ、それを半馬身ほどは超えたものである必要がある。単に「待たさず、すばやく、いうがままに治療してくれる」、というようなものだけではダメなのだ。ハッタリでもいいから、行く末を任せようと思うにたる信頼を得ることが必要である。
舞鶴のような規模の地方都市なら、辞めた内科医師たちが追求していた「総合内科」の方針はまことに現実的なものだと思う。やたらに専門細分化したって、こんな田舎でどれだけ適応例が集まるというのだ。いちばん効率のいい総合病院形態というのは「野戦病院」である、というのは医療業界では常識である。高度専門治療が必要な人は、どんどん後方専門病院にいってもらえばいいのである。
舞鶴市民病院のサイトをみれば、医師辞任の影響で混乱しているのか、もう一つサイト構造が良く分からないが、その設備をみれば別に無茶苦茶専門化したものがあるわけではない。病院当局が専門化を図るために、アホみたいな設備導入したとも思えない。あの程度なら、いわゆる総合内科をやるのにちょうどいいではないか。ライナック(放射線照射装置)はちょっと余計なようにも思うが、結構昔からありそうな物件にみえ、今回のことと関係あるとは思えない。
大体慢性赤字体質というが、大概の自治体病院というのはバブル期に無意味な拡張をやっていて、何より仕事をしない事務方が溢れかえっているのもよくみられ、なんぼ診療で実を上げようと黒字転換などできるわけがないところがほとんどである。病院当局が専門科造設でそれに対処しようとしていたのなら、昔のバブルの夢からまだ醒めていないということに他ならず、辞めた内科医たちの感覚の方がよっぽど正しかったように思う。
私に言わせれば、地の利に恵まれない田舎自治体病院の生き残る道は二つしかない。一つは事務方などの非収益部門の徹底的な人員整理で、経営効率化を図ること。医療收入よりも人件費がすでに上、という病院がゴロゴロあるというのは異常である。もう一つは、高齢化して既得利権にすがるだけの存在になっている、大方の開業医たちの生態圏を乗っ取ることである。特に今後老人の在宅ケアの必要性は格段に増えるので、そこに病院が入り込めないと厳しい。もっとも、手のかかる世話だけを引き受けて実をとる選択もありうる。やる気のある開業医たちは、それなりに個人専門商店化して頑張るだろう。
なんであれ、疾患に対して柔軟な対応を臨機応変にとることが大事で、総合的な視点を持つ医師が増えるのは、経営の観点からしても萬萬歳のはずなのだ。あ、それ専門でないからしらんというような医者が、バランスを欠いた一方的な医療を患者に強いるようなことを「高度医療」と称しているのでは、商売になどならないのはあたりまえなのである。
人員整理といっても、医療従事者はナンボ仕事しない人であっても存在するだけでも收入を生む。医者が多すぎてつぶれた病院というのは聞いたことがない。最低5人ぐらい入院患者をみていれば、自分の給料ぐらい稼げるのだから。その点、いくら事務方が張り切ろうとも、医師や看護婦さんがいないと医療收入にはならないのである。ただ舞鶴市民病院の場合、今年3月まで内科医が10人もいたとのことで、ちょっと医師配分に問題があったように感じないでもない。サテライト診療所つくるとか、工夫はあったのではないかねぇ。
まあ、詳しい事情を知っているわけでもないので、一般的なことしかいえないが、新聞記者のあまりにつまらない先入観というか、まるっきりものを考えていないクリシェだけの記事で間違った認識を得られることのないようにと長文を書いてみた。新聞記事にツッコミいれると、ちょっと前に身の程しらずの悪口かいた「極東ブログ」みたいな雰囲気になりますな。だいぶ格調はおちるものの。(2004/05/21)
成年後見制度適用のための鑑定書を二例同時に引き受けてしまい、まあ、締め切り前になればなんとか書けるだろうとタカをくくっていたら、その片一方は締め切り日がとっくに過ぎ、もう一つも今月末であるのに、今日になって気づいてしまう。
言い訳するわけではないが、昨年の10月に裁判所から電話で非公式に依頼を受け、正式な依頼書が届いたのは今月中ごろなのである。こののんびりペースなら、せめて一月ぐらいの余裕があるだろうと勝手に決めていたのがまずかった。
二例とも外来の患者さんで、しかも痴呆性疾患がらみで施設入所している人なので、くわしい情報を知っている人がいつもいっしょに来るとは限らない。鑑定書に要求されるのは現在の判断力と責任能力、そして今後の見通しなので、生活史やら家族構成が詳しくなくても、いいといえばいいのだが、「詳細不明」連発の公式文書というのも情けない。自分なりに事情を把握したうえでないと、本人を守るためという建前とはいえ、その法的権利にかなりの制限を加える根拠になる材料をだすのも気が引ける。
しかもその二例とも、成年後見制度をつかって、なんかメリットあるのかしら、と思うような例なのだ。疾患のために完全な判断力をうしなっているとはいえ、妙な浪費をしてしまうとか、怪しい連中に財産のっとられそうだとかの危険はありそうにもない。ただでさえ疎遠になっている家族が、この制度を使えば本人の死を待つまでもなく、さっさと縁を切れると誤解しているのではないかと思えるふしもある。
上に示したリンクは法務省による解説で、以前の「禁治産」制度との比較には力が入っているのだが、実際、この制度を適用された人がどのように具体的に保護されるかというのは、あんまりよく分からないのである。司法書士会によるこちらの説明をよむと、「自分たちが(適切な料金をとって)後見人になってあげるから大丈夫」という風にしか読めない。なんか、法務関係者のために小粒な新利権を開発しただけではないのかな、なんて思えてしまうのである。
まあ、そういう形で老人たちの貯めた金を流通にまわすのも、景気回復には必要なことなのかもしれない。何となくこの制度には穴があるようには思えるのだが、そこそこの鑑定料という形で分け前が入るとなると、問題点探すのにも腰が入らない。文句いわずに文書書くことにしようか。
さてさて、「出生地は不明であり、生下時、生育時についても詳細は不明である。学歴ははっきりしないが、20才になったころには働いていたらしい。結婚は20代後半とされるが、本人にはその記憶はなく、死別したものと思われる配偶者についての具体的情報もない」、うーん、この調子で続けると「公文書不実記載」に問われそう。 (2004/05/25)
TVニュースで、人工授精させた受精卵の着床前診断を産科婦人科学会に無断で行ったとして、学会を除名された医師たちが学会を提訴したというのをやっていた。それを受けることを望む夫婦五組も訴訟に加わったのだという。(新聞報道はこちら)
遺伝疾患を抱えつつ、自分たちの子供が欲しい人がこれを受けたい理由というのはわからないでもないのだが、受精卵が4個に分裂したところでそのうちの一つを丸々持ってきて検査に使う、というのは大丈夫なのかと素直に思うし、深刻な遺伝子疾患なら、かなりの確率で診断できるのは事実としても、100%ではないのも引っかかる。
実際、これが日常的に行われるようになったら、男女の生み分けに使われるようになるのはまず必定だ。一番簡単だし。多少根拠の怪しい遺伝子の問題点(ガンとか、アルツハイマーとか、精神疾患とか、肥満とか)にも拡張され、生まれる前に排除しようとする動きも出てくる可能性は高い。
今続々と発見されている遺伝子上の疾患親和性のほとんどが、全体的な生物機能との関連性の中で検証されているわけではない。例えば、アルツハイマーになりやすい遺伝子セットが、別の面ではかなり有用な働きをしていることだってありえるわけである。そういうものを、今わかっている知識だけに基づいて排除すると、これはかなりヤバい結果になりうる。
一部でいわれるような、富裕層だけが利用して遺伝子エリート階層を作るのではないかというようなSF風の不安に関しては、私はまずありえないと思う。遺伝子ごときの選別で、そんな前向きのメリットが得られるわけがない。はっきり知られている遺伝子疾患の回避が可能なだけだろう。メリットに付随するデメリットはまだまだ知られていないし、多分どんどん研究が進むにつれて、それらはかなり複雑に絡み合っていることがわかるはずである。
なんでそう思うのかといわれたら、そう根拠はない。例えば遺伝子異常の典型であるダウン症の人がしめすこの世ならぬ優しさとか(そうでないのもいるが)、精神疾患を持つ人に見られる、ある意味での有能さなどを見ていると、この平衡原理はかなり細かなところまで一貫しているのではないかと感じる、というのが根拠といえば根拠である。
そんなわけで、胡散臭いぞとは思う一方、重度の遺伝子疾患の回避のために、高い金をはらって人柱になりたい人がいるのなら、その人たちのための商売があってもいいのではないかなと思う。多分そんなに切れ味のいい結果も見せず、まずい結果も多々でてきて、訴訟やらの騒ぎがいくつかおこり、幻想も程ほどのところに落ち着いていくだろう。
それはさておき、TVニュースでこれをやっていてたとき、アナウンサーは「着床前診断」を何度も「ちゃくしょうまえしんだん」と読んでいたのだが、これが正式の呼び名なんだろうか。ほかは全部音読みで、「前」だけ訓読みというのがよくわからん。そういうものなのか、アナウンサーがケッタイな具合に読んだのか、字面でしか知らないので判断しようがありまへん。 (2004/05/26)
その後、自分で調べたりコメントを頂いたりして、本当に「ちゃくしょうまえしんだん」と読むのが正統であることを知る。「重箱読み」とか「湯桶読み」の例でいえば、なんて呼べばいいのだろう。やはり「着床前診断読み」しかないか。
昼休みに自室に戻ると、薬屋さんがデスクの上に宣伝雑誌をおいてくれていた。そこに「線維筋痛症」という疾患についての記事があり、聞き覚えのない病名なので、いつもは読みもせず捨てるだけの雑誌を、昼寝もやめて熟読する。その記事の著者である医師の作ったサイトも紹介されていたので、そちらもざっと目を通す。
それらを読むと、線維筋痛症とは「身体の広範囲に強い痛みを起こす原因不明の病気」であり、検査をしても特別の異常が見つからないものだそうだ。それを抱えた人はリウマチではないかとリウマチ専門医を訪れることが多いため、リウマチ学会を中心に今関心が広がりつつあるという。
でも私、昔からこういう人一杯みてきたし、今もみていますがなぁ。日本の、と限定する事も無いのだが、医療業界では客観的な検査所見がでないものは病気ではないとされることが多く、本人がいくら症状を訴えようと(時には目で見てハッキリした異常があろうと)、検査データとしてそれが示されないものは「気のせい、こだわりすぎ、ストレスのせい」とされることが多い(そのくせ、本人が「風邪だ」と主張すると、熱もないのにヘビーな抗炎症剤と抗生物質どっさり出すような医者も結構いるのだから、わけが判らんのだが)。それでもしつこく治療を求めると、形のないモノを見る唯一の診療科とされる、私らのところへ送られてくる仕組みになっていた。
最近は心療内科というような欺瞞的診療科名が通るので、敷居はかなり低くなっているが、ちょっと前まではこの敷居は非常に高く、ほとほと困り抜いた人しか来なかったため、逆に覚悟が出来るのか、案外治療には簡単に反応してくれたものだ。そういう訴えをする人は、かなり抑うつ的になっているレベルから、痛み以外のことに関心を振れないとうような、余裕を失っているだけの例までかなり幅があり、いわゆる精神科的対応が必ず必要というものでもない。
ごくごく簡単な認知療法的枠組み(といえばもっともらしいが、要は自分の症状を客観化する距離を持ってもらうようにするというだけ)で、必要な人には抗うつ効果のある薬剤をつかいながら、対症療法していくというのが方針のすべてであるが、まあそれで結構何とかなるものだ。もちろん普通の抗炎症剤とか、神経ブロックなども併用する。身体科でよく使われるミオナールなどの筋弛緩薬はふつうまず効かないので、確実に筋弛緩作用のある抗不安剤の使い分けに慣れている我々は、ほんのちょっとアドバンテージがあるといえる。
この状態の本質は、どうも体内知覚の伝達と抑制にかかわる未知のメカニズムの失調にあるらしい(例によって私の勝手な理解なので、眉に唾して読んで欲しいが)。実際に自己免疫疾患を持っている人に、この状態が発症することも結構あるそうだ。免疫システムというのも、要は情報伝達システムにほかならぬのだから、神経系知覚と絡み合っていることは容易に予測される。精神と身体を別のものとして、どちらかだけに問題があるというようなことがいえる訳はないのである。
いわゆる「慢性疲労症候群」ともかなり重複する部分があるとのことだが、そもそも主訴を大雑把にまとめたに過ぎない線維筋痛症やら慢性疲労症候群を、何かの実体だと考えるのが無理だと思える。千差万別の多様な身体知覚の変容という状態があり、その独自性を尊重しつつ、効果的な対症療法を積み重ねていき、背後にある(かもしれない)共通の本体にせまるという戦略が取られるべきであろう。
というわけで、多少の違和感を覚えないでもないのだが、「検査データに現れないものは病気ではない」とする風潮への逆流が生まれているらしいのは、なんであれ喜ばしいことだ。マニュアル優先にならざるを得ない医療現場では、こうした実体的な概念化が先行するのも仕方ないだろう。トータルに疾患を捉えるというのはお題目としてよく語られるものの、なんだか気色の悪い「人間的共感」みたいな見当外れに流れがちだ。こういう状態への対応を通じて、多元的に疾患にせまる科学的方法論が浸透していくことを望むものだ。
なんか、もうちょっとおちゃらけにするつもりだったのに、えらく真面目な内容になってしまった。基礎的な文献なんかを丹念に読まず、通り一遍で書くとこういう一見もっともらしいものになるという実例。(2004/06/02)
こういう事件があると、私なんかも専門家の1人だと思われるらしく、なにか気の利いたコメントでもあるのではないかと、いろいろ質問されたりするのでかなわない。時事には基本的には触れないといいつつ、こういうことにはまるきり無能なのだということを告白するつもりで、ある程度意見をまとめておきたい。
まず、結構あちこちでいわれるように、子供が殺人やそれに準ずる悪質犯罪を犯すということ自体はそう不思議なことではないと思う。こういうサイトをみると、むしろ最近はまれになってきているとすらいえる。今回の事件では、きっかけがサイト掲示板の書きこみだったということで、ネット社会の歪みだの何だのというところに、話が無理やり持っていかれそうな雰囲気があるが、まず何の関係もないといって間違いないと思う。
私自身、つまらぬメールのやり取りでケンカを仕掛けられたり、逆襲したりの経験も数あるが、あんなもの、腕力を介して渡り合うわけでもなし、たんなる下手な修辞のエスカレートに過ぎないし、現に数日もすれば忘れてしまうようなものだ。大きな掲示板なんかで、ちょっとイカレた荒らしサンが特定され、住所氏名が晒されていたりする事があるが、実際に暴力事件に発展したことなどない。あるわけがない。たかが言葉にすぎぬものに、直接行動を惹き起こす力なんてないのである。
やはり行動そのものを惹き起こすには、人間の生理(心理の間違いにあらず)に働きかけるものがないといけない。それはふつうなら具体的利害であるわけだが、それと同等の脳内過程を生み出すような精神疾患とか、閉ざされた人間関係内のゆがみというようなものも動因となる。なにより、対等な関係性を維持する意図というのは、予想以上に突発的な逸脱行動の原因となりうる。
経済的要素はもちろん、性的な要素すら希薄な前思春期というものは、人間関係というものが異様に単純な格子状配列に還元されるもので、そこでの対称性を維持する努力というのは、成員にとって最優先なのである。かってその小社会を形成していたことのある私たち自身、その事実を覚えている人は少ないのだけれど。
一時ACというキーワードが世にはびこった事があるが、あれも性格特性として貧困化して理解するのでなく、本能的な対称性維持努力として一般的に捉えるべきものだと私は思っている。あんまりスカな親との対称性維持努力を続けているうちに、天秤台がへしゃげてしまったわけ。
そういう「と」系理論の開陳はまた別の機会にするとして、私のこういう事件への具体的な方策は至極簡単なものである。要は多様なプラットフォームを用意するというだけのこと。学業とかスポーツだけでは個人差が大きすぎ、そこでの対称性維持はなかなか難しい。ネットなんてなかなかいいと思うんだけれど、ガキどもはむしろ密室的に使っているらしいので、もっと開かれた使い方を指導する必要はあるだろう。
あとはまあ、料理だとか、ゲームとか、株売買とか、あちこちでやられていることは一杯あって、そういう多様性は明らかに今のほうが上なので、それが実際に少年犯罪が減ってきている理由の一端になっているのだと思う。
というわけで、これ自体はたしかに悲しい事件ではあったものの、恐れることなく子供たちの生活価値の多様性を追及していけば(ただ、学校がオモテでやることではダメで、裏ルートの多様性でないとあんまり効果はないと思うが)、そんなにひどいことになるとも思えないというのが、私のはなはだ楽観的な意見である。 (2004/06/06)
老人痴呆病棟で実習していた、作業療法士過程の学生たちの実習終了レポート評価におつき合い。6ヶ月に一度ほど回ってくるのだが、そのおおかたは見当外れとはいえ、それなりに意外な面をついてくる(こともある)実習生の意見に触れると、逆にいろいろと考えさせられる機会になる(こともある)。
以前、「治療方針」についてたずねられて当惑する、という話を書いた事があるが、相変わらずそれは同じであるものの、「病をえた不運と、避けがたい悪化とその結果としての死を、本人とそのサポーターたちが受容する過程を援助しつつ、いくぶんかでも状況の固定、もしくは改善を希求する」などと、回りくどく返事するようにしてケムにまいて何とか誤魔化している。「よくなりゃいいけど、ちょっと無理なので、ま、いいかと思える余裕を皆に持ってもらう」では、意味はほぼ同じでも、身も蓋もないといわれてしまうので。
今回のレポートはどれも公式的に評価するなら優秀といえるものばかりだったが、どうもあまりに定式的なのがこちらのヒネクレ根性に引っかかる。なんといっても気になるのが、どれもこれも「患者さんの役割の回復を図り」と判で押したような文句が入っていること。いつごろから始まったか定かではないのだが、看護学とかリハビリ理論にいわゆる社会学的なアイデアが盛り込まれるのが普通になっていて、どうも学校でも教えられるらしいのだ。
そういう理屈からは被治療者への援助目的というのは、その人の社会的役割の回復ということになり、病棟のなかで以前果たしていた社会的役割の回復契機をつかませることが、作業療法や生活療法、ひいては治療全体の戦略ということになるのである。もちろん、それはそのとおりで、どこにも間違いはない。社会的役割を果たしている人というのが、健康な人と同義に語られるのだから、役割回復というのは健康を取り戻すということに他ならない。
これが外科の手術後のリハビリなら、別に社会的役割をもってくることもなく、以前の身体的能力の回復をいえばいいわけだが、痴呆老人の能力を元に戻すことは現実には不可能なので、「社会的役割」などとあいまいにいっておけば、身体的リハビリと同じ枠組みで語っているかにみえ、専門家が仕事できる振りの余地が生まれるわけである。いうならば、一応方針を示したぞという、アリバイ作りなのだ。ふつうならため息一つついて見逃すところだが、今日はなんとなく機嫌が悪かったのでネチこく責めてみる。
「あなたはこの老人の社会的役割の回復をいうが、そのためには元の能力が戻ってこないといけない筈。それはどうするの?」その返事はもちろん予想範囲。「いえ、能力の回復は不可能にしても、かっての役割に近いものならいいと思うんです」、「近いものとはなんですか?」、「仕事を通じて、人々に喜ばれ、受け入れてもらえるという実感です」、「実感?根拠のない妄想をもてばいいと?」、「いえ、やはり具体的に受け入れてもらえる内容も必要で……」、「人々に受け入れられるような仕事が出来れば、こんなところに入院していないだろ。だいたい、90近くにもなった人に、まだ仕事させるの?」、「いえ、仕事そのものでなく、あくまでそれを通じた役割を……」。
もうこのあたりで相手は半泣きになっているので、意地悪はやめて概説にはいるのだが、普段は建て前的な「役割」理論に近いことをいわないでもない手前、ここから一般的な医療的姿勢を導くのはなかなか難しい。「甘く美しき野垂れ死をすべての痴呆老人に」、なんて風に口滑らしたら、変わり者と思われるだけなんだし。受け入れられるぎりぎりのところは、上に書いたような「受容論」になる。
「受容」なんていうけれど、痴呆が進行していく人を相手にそういうこというのも建て前だろうと、引っかかる向きもあるかもしれないが、それが案外そうでもないのですな。お互いなすことをなし終えたという、非言語的共感に結ばれることもあるから、この商売はそう空しくならずに済むのである。(2004/06/11)
例の佐世保の小学生による殺人事件で、加害者の女児に精神鑑定が行われることになったそうだが、どうもそれを報じるマスコミのいうことがまるで見当外れ。被害者の父親を批判するようなことは言いたくないが、この人は某新聞の記者だったにもかかわらずというか、それゆえにというか、鑑定が真実の解明に役立つことを期待するというような、典型的な勘違いを表明していたりする。
精神鑑定とは、早い話がビョーキかどうかを見極めるだけのものである。事件の真実なんかと、何の関係もないのだ。対象者がある時点で、一人前の責任能力を持っていたかどうか判定(それだってハッキリ判るわけがないのだが)をするだけ。まして刑法上、加害者とされる女児の責任能力が問われないのは初めからわかっているのだから、全く法的に意味のない作業である。これを決定した裁判官は、基本的な法知識がないのではと疑いたくなる。
命令された精神科医のほうは、いい小遣い稼ぎになるから受けるだろうが(たぶん2〜3百万は取るだろうね*)、病的であるか否かということに絞った、分をわきまえた鑑定をする人なのかかなり気になるところ。バラエティに出てきていい加減なことをいうような精神科医に、心の底で嫉妬しているような人だと、くだらん類推を詰め込んだトンデモ鑑定をしてしまうので、ヘタレ裁判官の責任逃れに利用されてしまったりする。
精神医学というのは、精神疾患の診断と治療のためにある技術学問なのであって、人の心の中を興味本位にのぞきこむことの役になど立たないのである。そんな当たり前のことがいい加減にされるのには、そのあたりであいまいな幻想を振りまくことで下らん商売している連中の策謀もあるのだが、そういうのに手もなくダマされるマスコミや、それに影響されるヘタレ法曹関係者の責任も大きい。当たり前の意見のほうが奇異に思われるというのは、ホント、かなわんよ。 (2004/06/14)
*かなり手間のかかる刑事鑑定の場合はこのぐらいのはずだが、この事件でこの相場かどうかは知らない。無責任ですんません。私がやればいくら引き伸ばしても2〜3回の面接と、あとせいぜい身体的な検査ぐらいで誤魔化すことになるだろうから、20万ほど吹っかけるのがやっとですな。
TV東京の開運なんでも鑑定団をみていたら、不覚にも途中でうたた寝してしまい、気がつけば次の「ガイアの夜明け」という番組のイントロ部分になっていた。不祥事相次ぐ大病院をはなれ、中堅医師たちが患者のための医療を目指し、次々に地域にその実践の場所を移しているといったレポートであるらしい。
ところが、前半は「開業は夢でした」と語る、30始めの若い耳鼻科医師の新規開業エピソードなのである。多少のリスクをかけて、個人経営に乗り出す話であって、オヤジが脱サラでラーメン屋を開く話とまるっきり同じである。新しい医療のかたちを求めるような内容があるとは思いがたい。どうせ番組にするなら、思うように患者数が増えない医師が、カリスマ耳鼻科医のところに修行にいくという、「貧乏脱出大作戦」をなぞった格好にしたら面白かったんだけれど。
後半は、在宅治療に進出したいセコムのビジネス戦略の紹介になっていた。先端医療への幻想だけでは医療経営が引っ張れなくなってきて、そこそこのローテク人海戦術にまだ新規商売のネタがありそうだという、落穂ひろいの発想なのだ。そんなこと、昔からやられてきたことではないかといわれそうだけど、人が家族に看取られながらなじんだ環境で死んでいくというのが、必ずしも当たり前のことでなくなっているのも事実なので、それを支援するというのが新鮮にみえてしまうのである。
番組のほうはそのあたりを上っ面だけ触れて終わるのだけれど、こういう中途半端な作りこそが、医療に対する一般的幻想がいかに強固なものかを、逆に示してくれているといえる。最後の最後まで先端的治療が対応するべきだ、というようなかんちがいですな。自宅での死というだけで意外に感じられてしまうのだから、私がひそかに目標にしている、「すべての人に野垂れ死にの権利を取り戻そう」というテーゼなんぞ、永遠に受け入れられることはありそうにない。(2004/06/15)
パートで行っていた職場を変えて1ヶ月、今までの病院の患者さんもなんとか大過なく引き継ぎ、新しい診療圏の症例も増えてきて思うことは、たかが10kmの差というのは大きいのだということ。
今までの病院と今度のところでは、都心までの距離でいうと、その差はたった10kmなのだが、個々の症例のバックグラウンドがコロリとかわるのである。ごくごく印象的にいえば、「土の香りがしなくなる」とでも表せばいいのかも。
基本的には日本中どこにいったって、人々は狭い世間のしがらみへの反発と依存のなかに生きているわけで、その葛藤の質とかがそうそう変わるものでないのは自明の事である。ましてその病像までもが変わるわけではない、といいたいところなのだが、正直いうとちょっと変わるのだな、これが。
都市に生きる疎外された人々は、より都市文化に影響された脱構築的病像を示すといえば安っぽい社会学的分析にピッタシカンカンなのだが、事実は全然そうでない。実にストレートで開けっぴろげな、昔ながらの身体症状を伴うような不安症状や精神的虚脱を示して病院を訪れる人が多いのだ。脳器質疾患まで古典的教科書的症状を示しているようにさえ思える。
その理由を考えてみるに、主要なものは医療機関の表面的な対応であろう。精神科疾患の受け皿が、少数の古典的収容所病院と、一般病院やクリニックに二極化していて、本格的な精神病的錯乱でない限りは、敷居の低い後者に対応されることが多いため、「狂える人へのメタモルフォーゼ」といでもいう極限的パフォーマンスを演じることへの覚悟が、今ひとつ成立しにくいのではないか。
都市部に多いメンタルクリニックの隆盛は結構なことではあるのだが、そこでの医療はどうしてもファーストフード風になるためか、どうも今ひとつ具体的問題解決能力に欠けるところが目立つような気がする(もちろん、そうでないところもあるけど)。そういうところを沢山経てきた患者さんは、薬にたいする断片的な不信感だけをつのらせるが、そもそもちゃんとした診断すら受けていない場合がある。
わかりやすい症状をアッサリと手堅く示せば、適切な医療に行き当たる機会も増えるだろうという、やむにやまれぬ願いがあるのかもしれない。現状の精神科医療では、不十分な医療環境で、不当で不要な拘束をうけるような事はまずなくなったといえるのだが、そのことが逆に医療側にも医療を受ける側にも、緊張感を失わせる結果になっているのかな、なんて考えたりする。
もっとも、今のところには重度の病態をも含めた診療体制があるわけではなく、一般病院で対応できるレベルだけを見ているのだから、私の印象というのも、そういう御気楽な限界の中だけのことであるのだが、案外、全体に通じる事ではないかとうすうす感じている。おそらく分裂病の軽症化というのも、この一環なのではないかと思う。
駆け出しの頃、伝統的文化の色濃い田園地帯で診療していて、キツネ付きやら天狗付きが毎日のように押し寄せ、なんじゃこりゃと当惑していた昔が懐かしい。都市化というのは、要は単純化の事だったのですな。 (2004/06/29)
英国のニュースサイトANANOVAより。
今年のウインブルドン準々決勝で、地元の圧倒的なエコ贔屓をバックにしたティム・ヘンマン(英)はノーシード選手のマリオ・アンチッチ(クロアチア)にストレートで負けた。そのアンチッチは、2001年に同じヘンマンを3日間にわたる壮絶な準決勝戦で下し、その年の優勝をさらったゴラン・イワニセビッチと同じ街の出身であるばかりか、同じ狭い通りで育っていたのだという。
ANANOVAによれば、クロアチアはスプリットという古い街のフィルーレ通りというところで、イワニセビッチは71年に、アンチッチは84年に生まれており、年代は違うものの同じテニスクラブでジュニア時代をすごしたという。さらに彼ら以外にも、かって世界ランキング50位以内に入ったことのある、3人のテニスプレイヤー(Niki Pilic、Zjelko Franulovic、Marco Ostoja)が同じ通りから出ているとのことだ。
そのまま信じるなら、なかなかの偶然の妙である。アンチッチが一発屋に止まる可能性があるとはいえ、これは例えれば王と長島が水戸市大工町で生まれ育ち、同じアマチュア球団でプレーしていたのと似たような感覚であろう。おかしな比較で申し訳ない。スプリットは人口20万人程度の街らしいので、思いつく同程度の街が水戸だっただけ。
ANANOVAというところはかなり怪しいソースの記事も載せるので、もしかしたら地元のヘンマンが負けた腹いせにホメ殺し系をでっち上げたかなと疑ったが、同じような記事をほかにも見つけたので、まあおおむね正しいのだろう。
人間、理想を持って一生懸命にやれば世界を手にすることなんか簡単なのだという教訓になるのか、結局遺伝子の問題だよということになるのか。 (2004/07/02)
<ワシントン発ロイター>その時、合衆国上院議場には悲しみにくれる父親のすすり泣きだけが聞こえていた。
7月8日、オレゴン選出の共和党上院議員ゴードン・スミスは、彼の死んだ息子の名前がつけられた若者の自殺予防法案を提起するため演壇に立った。当日、上院は異例の速さでこの法案を満場一致採択した。
「息子は将来に絶望しており、彼の現状には苦痛だけを感じていた。苦痛と絶望はあまりに激しく、彼は救いを死に求めた。それが救いだった」、スミス議員はそう息子を振り返る。彼の息子、ギャレットは昨年9月、大学寮で22歳の誕生日の一日前に自殺したのだ。
「美しい、素晴らしい子供だった」、そう議員は語った。議員夫妻は生後まもないギャレットを養子に迎えたのだ。彼は知性に恵まれていたが、学習障害と失読症、そして躁うつ病と戦っていた。「自分の子供を葬るためのマニュアルなんてない。まして、原因が自殺という場合は特に」。
上院議場は彼が演説を始めるときはまだ空席が多かったが、演説終了時には数人の同僚議員が彼を迎え、抱きしめるために列を作っていた。そして二名の議員が追加発言を求めた。
ネバダ州選出の民主党議員ハリー・レイドはギャレットの葬儀に列席したとき、参加者が自殺についてオープンに語っていた事に触れた。そして、彼自身の父親が銃で自殺した時には、恥ずかしさのため、何年もそのことについて語れなかったことを告白した。スミス議員の法案に類したものが父親の時代にあったなら、「彼は人生を全うしてしただろう」。
オクラホマ州選出の共和党議員ドン・ニックルスも、彼の父親が自殺したことについて触れた。「詳しいことは語りたくない。それは大きな痛みだ。私はこの法案通過の結果を信じている。我々は多くの命を救うことになる。おそらく数千にのぼることだろう」。
この6千万ドルの予算支出を伴う法案は、各州の自殺予防プログラム展開を援助し、大学キャンパスでの精神衛生サービスにより多くの補助金を追加する内容である。毎年3万人の米国人が自殺しており、10〜24歳の世代でいえば、三番目の死因となっている。
ニューメキシコ州選出の共和党議員ピート・ドメニッチは、かねてから自分の娘が分裂病に罹患していることを公表してきたが、いったん帰宅していたにもかかわらず、再び議場にかけつけ、スミス議員への賛意を表明した。
ドメニッチ議員は、彼がここ数年主唱している、精神疾患治療に身体疾患治療と同等の支払いを医療保険に求める法案成立への意欲についても述べた。そして、その法案に暗然と反対している共和党の同僚を非難した。「君らが誰かはまだ知らないが、絶対見つけ出してやるよ」。
-----------引用以上。(元記事リンクはすでに消失)
権力を持つ政治家も、か弱い人の親であるというニュース。私もいままで地方議員の家族ぐらいなら、何人も診た事があるが、その親が熱心な精神衛生政策の推進者になった例など、まずありませんな。ほとんどひたかくしにするか、それを期に政治の世界を引退するかどちらか。失点になる「恥」として受け取られるだけのよう。
日本の場合、自殺率は米国の3倍近くだし、若い世代の死因ダントツ第1位なのである。何の対策も立てず、ささやかな精神衛生政策も、ただ予算削減の対象というのはあんまりお粗末なんではと思うのだが、こういう正直な動きがないというのがそもそもの原因なのかも。 (2004/07/15)
昨晩、真夜中に帰り着き、ビールかっ喰らってさー寝よと思った瞬間、今日職場で、ちょっとしたレクチャーをやらねばならないことになっていたのを思い出す。一般病院での精神科疾患への対応というような内容だ。そういえば症例データをメモしていたような気がする。問題は、そのメモがどこにも見当たらないということであるが。
仲間内の発表というものは、どこかの教科書に書いてあるようなことだけいっていても面白くなく、多少のハッタリをかましたくなるものだが、精神科領域というのはこのハッタリがなかなか難しい。極私的な臨床体験の開陳と、遺伝子解析のようなビッグプロジェクトにきれいに分かれてしまうのだ。身体科医が相手というところで、奇矯な人文系の知識を並べ立てて異質さを強調するという手もあるのだが、結局変人振りを際立たせてしまうだけに終わり、円滑なチーム形成という観点からは無意味な行為である。
「リエゾン精神医学の実際」という、昔の本だが手元にあったのを引用させてもらうと、総合病院における精神科医の行動指針みたいなことが書いてあってまことに面白い。身体疾患であっても積極的に症例検討会などに出席し、多少視点は違うにせよ同じ医療従事者なのであって、医療業界のはぐれ者ではないことを強調しろ、なんて書いてある。まるで「草」として潜入している忍びの者向けの極意書みたいだが、同じような立場で長らく仕事してきたこちらには、実に身につまされる記述である。
まあ、一般身体科で遭遇する可能性の高い精神疾患への対応という、無難なところにしぼり、多少の「と」系モデュレーションを施した精神病理学的ウンチクを交えるという控えめな構成にしておこう。「訴えはあるが所見がない」一群の患者たちに、少しは柔軟な対応が可能になるようにというのが目標というところ。
あ、そういえば広報誌に載せる自己紹介記事の締め切りも今日だった。めんどくさいので、ここのURLだけ書いとこうか。(2004/07/20)
昼休みに薬屋さんの説明会があるので、なるべく出席してくれと医局秘書から連絡が回ってくる。月に2回ほどこういう説明会があるが、私はまず出ないのだ。要は新製品の宣伝であったり、競合薬品のおかげで売り上げがおちた製品のてこ入れである。なんで他人の商売に協力してやらにゃいかんのだ、薬なんか使うかどうかはその必要性だけにかかっているので、宣伝なんぞに左右されてなるものかと思っているのである。
そりゃ、餅は餅屋であることは承知していて、我々とは違う視点からのメーカーサイドの情報が役に立つこともある。でもキョービそんなこと、わざわざ暑苦しいスーツ姿の営業マンにやってもらうまでもない。ネットでちょっと調べればすむことである。それにね、私は人から根拠なく下手に出られるというのが苦手である。営業用の阿諛追従など聞かされると身の毛がよだつのである。
ふた昔まえごろまでは、この薬屋さんの営業活動というのは掟なしの世界であった。ほとんど贈収賄か背任横領すれすれの利益誘導や便宜供与が当たり前だったのである。大手の病院や大学医局の裏金づくりといえば、なんと言ってもまず薬屋さんの宣伝資金がその出所のNo1であった。私も医局の会計を扱っていた事があり、型式的な治験をやって協力費明目で金を集めるようなことに何度か関与した事がある。
奇麗事をいっていても、別の医局や大学に金が回るだけの事で、こちらは図書や資料の充実に使うからいいじゃないかと合理化していたものだ。だからいまだに、どんなにEBMだのなんだのという体裁を整えていようと、提灯持ちの香りがする薬物治験論文なんか全く信じないんですな。さんざん自分がインチキやったことがあるもので。
ましてや今日の説明会は、TVでCMまでうって幻想をあおる某痴呆用薬剤である。この薬は日本で開発されたが、開発費がかかりすぎたのか、海外の製薬会社と共同販売という形になっている。確かに初期の痴呆症状を軽減する効果はあるように思うが、製薬会社やその提灯持ち医者が言うような、中度−重度の痴呆患者にも有用というような証拠はどこにもない。それどころか、夜間せん妄の発現率を明らかに増やし、パ−キンソン症候群の副作用出現もあって、かえって介護の手間がかかる例がよく見られるのである。薬価もやたらに高く、初期の薬効についても費用対効果比率がそう高いとは思えない。
私らのもとに紹介される痴呆患者は一般科や開業医からすでにこの薬を投与されていることが多いが、入院のきっかけになったせん妄症状や歩行障害などが、要はこの薬の副作用に過ぎなかったことも結構多い。この薬をやめるだけで落ち着く人もいるぐらいである。そんな薬で一日分500円近い金をふんだくろうというのは、ちょっと了見が間違っちゃいませんかといいたくなるのも当然であろう。
この病院で使用量が激減しているのに危機感を持って、今日の説明会開催に至ったのであろう。そんなもの、意地でも出てやるかと思っていたのだが、医局秘書によれば「今日は土用の日なので、ウナギ弁当を用意しているみたいですよ」との事。ウナギの誘惑には勝てず、ついつい節をまげて出席してしまった。しかも、主義に反して喰ったそのウナギ弁当のまずかったこと。信念より食い意地が勝るのは仕方がないと納得させてくれる味でないと、自分の情けなさに落ち込むことを防ぎようがありまへん。 (2004/07/21)
「新サイコドクターあばれ旅」の風野氏が、蒐集した「精神科薬広告図像集」を公開しておられるのはご存知のかたもいるだろう。それにぜひ追加したいと思い、昼休みに昼寝もやめて撮った画像が左。メーカーのMRさんが配ってくれたマグカップである。
風野氏のギャラリーでは2000年の部の冒頭を飾っている、「ルーラン」という薬の宣伝イラストをマグカップに印刷したものだが、ちょっとした工夫がしてある。このマグカップ、何も入っていないときにはこのように、黒い背景にひとりとんがった木のてっぺんに座った男性が描かれていて、そのまわりをなんやら稲妻みたいなものが取り巻いているのである。電波、ってことかな。
それが、お湯をそそぐとあら不思議、背景は青空になり、男性の周りには笑顔の家族とペットが現れるのである。温度によって色が変わる顔料をつかった、よく土産物屋さんでみる簡単なつくりなのだが、幻覚に支配された孤独な世界から、明るい日常に戻ってこれるのだよというメッセージが実にうまく表現されていると思う。薬屋さんのノベルティグッズとしては出色の出来といえる。
残念なことに、肝腎の薬剤効能のほうは、副作用も少ないが、およそここまで効かない薬も珍しいといいたくなるようなもので、とてもお湯をいれた時のようにさっと症状が消えるような効果は、お世辞にもあるとはいえないのが欠点なんだけど。もちろん、症例によっては効く例もあるとは思うものの、少なくとも私はそういう例に行き当たったことはない。こんな風に簡単に治療ができるものならいいのにね、と苦笑しながらお茶のむには最適ですが。 (2004/07/22)
毎度おんなじネタ元で恐縮なんだけど、英国テレグラフ紙が報ずる「受精レース放映計画」がちょっと面白いので紹介。これは英国の民放、チャンネル4が企画している視聴者参加番組で、いうならば一種の男性サバイバルショーである。
子供を作ることを希望している女性がまず紹介され、それに対して1000人の男性がつのられ、父親としての適格性が審査されるところからこの番組は始まる。審査基準はその知性、セックスアピール、フィットネスレベルである。遺伝的要因も検討されて、最終的に二名の候補者に絞られるのだが、ここから先の最終審査がなんとも即物的というか、自然の理に任せたというか、トホホというか。
具体的な詳細はまだ検討中らしいが、仮に「ママにならせて!」と呼ばれているその部分は、最新テクノロジーを用いて、卵子が受精する過程を映像化するものになるのだそうだ。つまり、二人の最終候補者から提供された精子が、互いに競争しながら卵子にたどり着いて、どちらかが受精させるまでを追うというもの。
反中絶団体からはすでに厳重な抗議が届いているとのことだが、番組関係者は「これは科学の成果に基づく、娯楽を超えた魅力に満ちた番組だ」と自画自賛しているそうな。それにしても、精子を競わせるのはいいとして、その精子たちの区別はどうやって画像化されるんだろう。その辺がうまく解決できるなら、最終候補二人にまで絞ることなんかしないで、そこそこ優秀な精子を選び、フィーリングカップル5vs5のノリでやってしまうというのも面白そう。
倫理的にはいろいろ意見もあるだろうが、少子化で国が滅びるといわれる昨今、TV番組の枠をこえた動きにつながるかもしれないな、なんて思うのだけれど、やっぱ不謹慎?( 2004/07/24)
警察庁の発表によれば、昨年2004年度のわが国の自殺者数は3万4427人であったという。毎日新聞の記事によれば、いままで不景気期に一致した58年と86年にピークがあったものの、減少傾向が見られていたのに、90年にはいって増加に転じ、総数が3万人を越えるのはこの6年連続であるらしい。
デュルケームの「自殺論」を引くまでもなく、自殺と社会的規範の解体とは深い関連があると思われ、経済的不況による生活基盤のゆらぎがその原因となるのも了解できるところである。警察庁の統計も90年からの自殺急増の主因を不況と位置付けているようであり、毎日の記事もそれを踏襲しつつ、「人生を勝負事や他人との競争とはき違えるような風潮が広がっている」というような、価値観の問題にもっていくような論調を使っている。
ま、そのあたりはなんとなく納得できないわけではない。「勝ち組」めざすばかりの貧弱な価値観なんか、ちょっとした拍子に破綻してしまうのもそのとおり。「生きる喜びや生命への慈しみ」を大事にして、弱者に手をさしのべる「社会の母性」を育まにゃいかんのだという笑っちゃうような主張にしても、とにかく何かいったことにしないとイケないときには、この程度のことで誤魔化すしかない内容であろう。押し付けがましい管理社会はカンベンしてくれよな、とは思うけど。
私がいまひとつ納得できないのは、精神科関連疾患との関連である。毎日の記事では「自殺者の多くが心の病気におかされている」とさらっと書いてあり、これはほかの報道や統計などでもそういうことにされている場合が多いのだけれど、これは本当なのだろうか。精神科疾患に自殺が多いのは確かに事実である。でも、精神科疾患はそんなに増えているだろうか。分裂病なんか、人類発祥以来一定の割合で発病していると思うし、うつ病にしても、少なくとも躁うつ病の発生率はそう変わらないはずである。
WHO分類でいう「大うつ病」や「気分障害」をとれば、事例として医療が対象にする件数は増えていると思うが、実数はそんなに変わるはずがないがなぁという気がしてならない。そもそも、簡単な統計だけを論拠にしても、うつ病者が自殺者の底辺になっているという主張には、どうもまずい点があることを指摘できるのだ。
というのは、自殺はまずほとんどの国で男性に多く、女性に少ない(2000年の日本で3倍弱)。ところが、うつ病に関していえば、女性のほうが発生率は高いのである。統計にもよるが、平均して約2倍強と言うところだろう。これをどう解釈したらいいだろう。女性のほうがいろいろと抑圧がつよく、症状が出やすいので症例は増えるが、男性の場合はぎりぎりまで発病しないので、いったん具合が悪くなると重症化しやすいのだ、というような説明もあるのだが、どうもあと付けの強弁くさい。
どんな文化にも見られる、男性は力強くなければならないというマチズモの問題としてこれは説明されたりするが、それなら病気の問題はどこに行ったのだということになってしまう。女性の場合はうつ病になりやすく、手厚く治療されるために、むしろ自殺の機会はへるのだという、精神科医療の赫々たる成果といえるならうれしいのだが、まずそれはないだろう。女性の自殺率の低さは、医療充足率などと全く関係なく、世界中で見られるからである。
そんなわけで、マスコミレベルで語られる「精神科医療の充実」で自殺がへるという期待には、正直いって多少の疑義がある。まして、DSM−IVで大雑把に診断し、SSRI投与してあとは野となれという精神科医も多く見受けられる現状で、自殺予防一般に関して、どこまで問題解決ができるかは少々心もとない。
もちろん、精神科医療機関の敷居が低くなるのは悪いことではない。でも、精神科医の皆さん、ホントにそういう人たちが押し寄せてきたら、彼らに充分なサービスを提供できる技量がありますかねと、意地悪な質問をしてみたくなるのも事実なのである。(2004/07/25)
参考資料
「平成10年(1998年)以降の自殺死亡急増 − 自殺予防対策のための自殺死亡統計 −」国立保健医療科学院
"Suicide rate - gender ratio "nationmaster.com
スラッシュ・ドット・ジャパンに、「有限会社ひきもどし」なる会社の広報サイト(?)が紹介されていた(現在、ここの内容は読めなくなっている)。この会社はプロフェッショナルとして引きこもり問題に実利ベースで対処する企業なのだそうで、「“ひきこもり”を“ひきもどす”だけでなく時流に乗るきっかけをつくり、流れに乗った船に乗せ、大海原への航海の楽しみを伝えることが弊社サービスの最大の目的」というのがその宣伝文句。
はじめに書いてしまうとこれは全くのフェイクサイトで、同名の映画「有限会社ひきもどし」の宣伝なのだそうだ。結構凝っていて、会社の理念とか理論的背景までちゃんとでっち上げているのも奥ゆかしい。しかしスラッシュ・ドットの住人たちにはあまりそのセンスは気に入られなかったようで、引きこもりという社会問題をジョークの種にして、ちょっと見フェイクともわからないような無責任なサイトなんか作るんじゃない、というような意見がメインになっていた。
あれをみてフェイクと思わぬほうに多少問題があるのでは、と私なんか感じますがなぁ。ナードを自称される方々というのは、過剰に倫理的なタイプが多いのだなとちょっと感心した次第。
この「ひきもどし」会社は、ひきこもりを一種の発達段階として捉える理論を採用しているようで、「人類は単なる『環境への不適応』としての『ひきこもり』ではなく、『ひきこもり』と『ひきもどり』の繰り返しによって進化する生物」であり、「『ひきこもり』経験の中で獲得したものを社会に還元する。このことにより、人類全体がさらに向上する」という仮説に基づいた治療的関与を行うと主張している。
仮説が大層な割には、その「治療」が部屋を煙でいぶすとか、デカい風船を突っ込んで破裂させるというようなバラエティの芸人いじめみたいなのとか、ニセの冠婚葬祭イベントを催すというような下らんものばかりなのはちょっとイケてない。
以前、吉本隆明の「ひきこもれ」という本の内容を紹介した事があるが、引きこもりのなかには、吉本のいうように、確たる生き方がさしあたって見つからないため、孤立した生活をあえて選んでいるような例もあるのだとは思う。しかし、私らのところに相談が来るようなケースはそういう余裕なんかまるでない例ばっかりで、やはりちゃんと「疾患」として対処する必要がある。彼らの自己決定をいくら待っていても、問題は複雑化するばかりなのである。さすがに吉本はそういうところの区別をちゃんとつけている。
こういうところに、「正常と病気の区別がつくはずがない」などという素人の思い込みで口を挟む人が結構いるのだが、ハッキリ言って、百年の歴史をもつ近代精神医学は、少なくとも診断レベルではほぼ完璧な判断が下せるのだ。治療はまた別、というのが難だけど。
結局、しゃれたつくりではあるのだが、例の「ひきもどし」サイトも、病的問題と個人的発達の問題を混同しているという、決定的思い違いに依拠して作られているという点で、凡百の床屋談義の枠を出るものではない。スラッシュ・ドットに集うような、偏差値的にはかなり優秀であろうナードの皆さんにも、やはりその枠を超えた論議というのは難しいらしいというのが今日の発見。July(2004/07/29)
雅子皇太子妃殿下は適応障害だ、という公式発表がされたとの報道である。これに関する報道機関のニュースを読み比べると、各社微妙なニュアンスの違いをこめていて、なかなか興味がそそられる。例えば朝日は「ストレスにより、抑うつ症状や不安な気持ちになる『適応障害』との診断結果」という表現で、「適応障害」という病名と、その力動的背景を説明している。
読売(すでに記事消失)はほとんど同じようなものともいえるが、「『ストレスへの適応障害によって不安や抑うつ気分が現れている』と診断」されていると伝え、「適応障害」という言葉を、病名というよりはむしろ日常的な意味合いで使っている。即物的な報道では定評のある毎日になると、「医師団から『適応障害』と診断を受けた」と実にあっさりと書かれており、「詳しい診断結果」がそれかいなと、大概の人は思うような内容である。
読売の報道には「適応障害なんていって、そんなもの『この人は調子が悪い』といっているのと同じだぞ」という、ほのかなツッコミのニュアンスが感じられるが、ほかの記事からはそれで納得してしまっている様子がうかがわれる。
いろいろと下衆なうわさが飛び交っていた皇太子妃の病状に、こんなあっさりした公式発表がなされただけでは、かえって疑心暗鬼が蔓延するだけではないかと私なんかは心配してしまうが、専門家がもっともらしく言えば、バカみたいな説明でもなんとなく通ってしまうというのは、私らのレベルでもよくお世話になっている手法で、どうもこの場合もそうらしい。
ほとんどの人は色々と問題を抱えながら、その環境にそれなりに適応して毎日を送っているわけで、その人に求められる機能を遂行できない状態が慢性的に続くなら、原因は何であれ適応障害であるといえる。それだけでは何を言ったことにもならないのは自明なのだが、それが通るというところがこの問題の面白いところである。
「適応障害」を病名として使っているということは、アメリカ精神医学会が定めるDSM-IVの診断基準に依拠しているわけだが、こいつがなかなかの傑作なのである。これの原型をはじめてみたとき、連想したのは、ボルヘスの「異端審問」という本に引用されていた「中国の百科事典」である。それには例えば「動物」がこう分類されているという。
(a) 皇帝に帰属するもの、(b) 剥製にされたもの、(c) 飼い慣らされたもの、(d) 幼豚、(e) 人魚、(f) 架空のもの、(g) 野良犬、(h) この分類に含まれるもの、(i) 狂ったように震えているもの、(j) 無数のもの、(k) 立派な駱駝の刷子をひきずっているもの、(l) その他のもの、(m) 壷を割ったばかりのもの、(n) 遠くから見ると蝿に似ているもの。
DSM分類は、まさしくこの「中国の百科事典」そのままの様相を呈しているのである。そこでは状態像分類や原因分類、経過分類がいりまじり、しかもそれに、「これらの条件のうちn件以上を満たすもの」というような付随的な要件がくっついていたりする。その人がどのような症状であるかすら問わないような診断だって可能なのだ。形だけの診断をしなければならないとき、とりわけ役所に出す書類を書くときには実に役立つので、私もそういうときには最大限活用させてもらっている。要は、責任をとりたくない立場から医療にかかわるには最適な診断体系なのである。
適応する側の問題も、その環境側の問題も問わず、とにかく適応過程でのトラブルなのだというその控えめな診断のおかげで、いったい具体的に何が問題なのだろうという下々の当て推量の数々はひとまず回避できたようなので、医師団におかれては本格的な治療プロセスを推し進めていっていただきたいものだ。とりわけ、そもそも「適応」しないといけないものかという判断だけは、ぜひ示していただきたいと思う。( 2004/07/31)
(注:31日の夜酔っ払って書いたので、実に不敬な表現が数多く混じってしまい、本日周到な削除をした上でアップするのだが、おかげで何を言いたいのかサッパシ分からん文章になってしまいました、とさ。8月1日記)
夏休みが終わっても、結局そう変わらぬ生活で、グダグダとオリンピックなんかを見ている。6時間の時差というのは微妙で、どうもリアルで見られる競技に偏りが出るような気がする。ここのところ、もっぱら見ているのは柔道なのだが、これはこれでなかなか面白い。カラー柔道着が導入されて、見分けのつかん毛唐同士の対戦でもわかりやすくてよろしい。カンフー映画なんかでは、たいがい色つき道着を着ているほうが悪者なので、どうも応援にバイアスが入ってしまうのが難点だけど。
私は高校生のとき、正課で柔道を習わされた。大規模高校だったので、体育授業はなるべく狭いところでやれる種目で済まそうということだったのであろう。オリンピックの試合を見ていても、道場の独特なむっとした湿気とか、万年床みたいな臭いがフラッシュバックしてくるのが不思議である。真面目にこの競技をやっていた人なら、もっと奥深く楽しめるのだろうなと思う。
精神科医という仕事を選んで、今まで数回ぐらい、肉体的脅威にさらされたことがあるが、その際一番役に立ったのがこの柔道の技であった。精神疾患の患者さんたちというのは、まず自分から積極的に暴力に走るような人はいないが、境界領域というか、シャブ中のヤーさんとか、ある種の意識障害に陥っている人は、自分の置かれている状況を適切に判断できず、Fright & Flightを必死になってやろうとする結果、えらく暴力的になってしまうこともある。
こういう状態に対して、柔道の押さえ込みや関節技というのは実に有効で、相手に傷害を与えることなく無理のない制圧が出来るからありがたい(相手が凶器を持ってると別)。なにせ向こうは病人なので、多勢に無勢、一時的制圧さえすれば十分なのである。もちろん、そういうハードな方法というのはやむをえずせまられた場合の最後の手段で、相手がどんなに不隠で暴力的になっていても、あくまで穏健な説得を使うのが王道であるのは当然。こういう時の対応指示をするときは、ほとんど気分は佐々淳行。どこか警備会社の顧問にでも雇ってくれんかしら。
それはさておき、高校のときの柔道教官は、オリンピック強化対象に選ばれたこともある(代表までにはならなかった)人なのだが、この人がまた困った人で、教えてくれることは裏技ばかりなのだった。試合の時には相手のズボンというか、下のステテコみたいなモノを締めているヒモが蝶々結びかどうかをまず見据えよ、なんていうのである。蝶々結びなら、組みに行くときそれをほどいて、ずり落ちるズボンにあわてる相手を攻撃せよ、なんてことばっかり教えてくれた。
その人が教えてくれた「技」のなかで、いまだにその合法性が疑わしいというか、冗談だったかどうかも定かでないことがある。それは、「寝技の際、自然にほどけた帯なら、それを使って相手を縛るのも許される」というものである。寝技では「縛り技」というのがあるというのだが、これは本当なのだろうか。オリンピックの試合では、そういうのを今のところ見たことがないんだけど。エキスパートの意見を聞きたいとも思うが、それ以上に見事な縛り技一本で金メダルを取る選手を、自分の目で確認したい気持ちのほうが大きい今日この頃なのである。(2004/08/16)
近代言語学の基礎をつくったソシュールは、言葉を形成する音素の連なりと、それが示す概念との間には本来何の関係もないということを「発見」したのだそうである。「いぬ」という言葉と、あのキャンキャンいう動物との間には必然的な結びつきなどなく、音素の集合がつくる体系と意味される側の物事の対応関係があるだけなのだと。
素人にすればそんなものかと思いつつ、なんとなく腑に落ちない感じは付きまとう。ましてや言霊の力などを信ずる人には受け入れにくい話であろう。かの吉本隆明も、そういう素人の一人であったらしく、これに関して「言語にとって美とは何か」という、かっては自称インテリ必読とされていたトンデモ本を書いている。
私も昔読んだ覚えはあるのだが、言語以前の内発的な感動を示す歓声とか吐息が言語として発展していくことだってありうる、というようなことが書いてあったような、そうでないような。初めて海を見た人間が、その広大さを目にして「うっ」と息を呑む、それが「ウミ」という言葉につながった、なんて書いてあったんじゃなかったかな。当時、感想代わりにつくった川柳が、「クロマニヨン 海見て ムムっと腰抜かし」。
それはともかく、発せられる言葉そのものが記号としてではなく、それ自体何らかの意味を持つという考えは人の心をとらえて放さないものらしい。密教真言なんて、まさにそれを突き詰めたものといえるだろう。知覚科学をやっている人にも、そういう方向での研究というのは魅力的な物らしく、今月11日、NewScientist.comが伝えるMITの脳知覚科学部門の言語学者、Amy Perforsの研究もそれを追及したものといえる。
彼女たちはhotornot.comという一種の出会いサイトに、24人の男女の顔写真を間をおいて投稿した。写真には、母音や子音の種類、ジェンダー親和性などを考慮した名前が書きこまれていて、閲覧者が発信する10段階の評価を統計的に比較検討するというのが実験内容である。(同じ写真にランダムに別の名前をつけて投稿したのか、という点が記事を見ても元レジュメ(PDF)をみてもよくわからんののだが、そうしないとこの実験は成り立たないはず。)
その結果、男性においては前舌母音(日本語とは多少違うが、あえていえば「あ」「い」「え」)の名前の持ち主が、後舌母音(同様に「う」「お」)の持ち主よりも、有意に高い評価をえた。例えば、ポールよりはマットのほうが好まれた。そして女性の場合は、男性の場合ほどではないものの、やはり有意にその逆の結果が得られた。ベスよりはスージーのほうが評価が高かったのである。
子音でも、閉鎖子音(p音やb音なのかねぇ)と共鳴子音(たぶんl音だとおもう)で、男性の場合前者が好まれ、女性の場合はその逆という結果が得られたが、母音の場合ほどはっきりしたものではない。著者たちはこの実験をもって、ソシュール言語学の基本的な主張、意味するものと意味されるものとの恣意性という前提に、限定的ながら実証的に反論したとする。
名前なんかはやりすたりがあるしね。芸能人とかの連想もあるだろうから、母音と子音の部分だけは考慮した、ランダムな名前でもつくって実験しないと意味がないのでは、と思ってしまう。例えば日本人の名前を使うぐらいの工夫しないとマズイのではないかな、というようなツッコミは容易であるものの、言霊の力に魅せられ、それを究明したい人はどこにもいるのだと感心させられる研究であろう。
そういえば、私の戸籍名は完全に後舌母音だけで構成されておりますわ。改名したほうがいいかもしれないと、前舌母音だけの名前を考えてみたら、いいのがありました。当サイトお勧めの魅力たっぷりの男性用究極前舌母音名前は、「袈裟吉」、これですよ。(2004/08/17)
「最上のWebサイト」、8月27日の記述が面白い。ご本人は理論物理出身の認知神経科学研究者なのだが、ニューロンの興奮を、それが運ぶ情報という観点から見なければいけないことを正しく指摘しておられる。私の知る限り、こういう視点で神経科学をやっている人はほとんどいないと思う。
ニューロンというものは興奮するかしないかのどちらかで、それだけなら1ビットの情報しか運ばない。それが何らかのまとまった情報を担うためには、単位時間内での発火頻度のパターンか、他のニューロンの発火との組み合わせパターンがコードになっているはずである。現在の脳科学では、そういったところはあいまいに無視されていて、個々のニューロン発火と、それが次に伝達されるのをアナログ的に検討している場合がほとんどである。
精神医学のレベルにまで降りてくる理論になるとそれは顕著で、例えば向精神薬はシナプスでの興奮伝達の閾値にかかわると説明されるのだが、まるで神経伝達物質そのものが情報であるかのような扱いをされている。SSRIのんでセロトニンがまったりと増えてくれば、気分爽快、生きてく意欲が出てくるなんて説明では、ニューロンというのは単なる内分泌器官であるということになってしまう(もちろん、そういう側面はあるけど)。
ニューロンの活動を情報量の観点から検討するというのは、絶対に脳科学に新しい知見をもたらすに違いないと信じているんですがね。自分でもそういう方向からの検討というのは必要だという直感はあったんだけど(アリバイを示すなら、こことか)、頭のつくりが粗雑でやりぬけまへんでした。ぜひ最上氏にはそのあたりの先駆者として、活躍してもらいたいものだと思う。できれば、スカスカ頭にも理解できるように噛み砕いた説明を早めに日記に書いてね。 (2004/08/28)