昨日、TVで久しぶりに「ナニワのモーツアルト」、キダ・タロー氏をみることが出来た。関西圏なら毎日のようにみられるのかもしれないが、関東圏では珍しい。しかも懐かしい「パンチでデート」の主題歌というか、オープニングのジングルまで聞くことができ、氏の天才ぶりを再確認したものであった。

「パンチでデート」という番組を思い出すたび、私は精神科面接技法の研修過程と、そのカルテ記載一般の問題を必然的に連想するのである。関係者以外には、まずこの関連はわからないであろうから(関係者だってわからんだろう)、詳しく説明してみたい。

「パンチでデート」は、関東で放映されていなかったかもしれないので説明すると、これは一種のお見合いTVショーなのである。素人の男女が出てきて、司会の桂三枝と西川きよしに適当にいじられながら、カーテン越しに理想の異性像などを語るわけである。そして時至り、「ごたいめーん!」という掛け声とともにカーテンがあき、多少のおぼつかない会話をかわしたあと、相手が気に入ったかどうかのボタンを押し、両方OKならでっかいハートマークが点灯するという、いま思い出しながら書いていてもバカバカしさがつのってくるような番組であった。でも楽しみにして毎週見ていたのだけれど。

この番組でカーテンがあいたあと、気まずく会話するときの内容が、精神科病棟実習の医学生や、卒業直後の研修医が患者と交わす面接内容と酷似しているのである。何を話したらいいのかよく判らない、いや、実際は判ってはいるのだが、どう切り出していいかわからず、関係ない話題の周囲をぐるぐる回る会話である。「パンチで…」のほうなら、本音は「あっちの関係もOK?」だろうし、患者面接なら、「幻聴なんかあるわけ?」というところか。

典型的な「パンチでデート」会話はこういうものだ。

「あの…、ドライブなんかおすきですか?」

「はい…」

「休みの日なんか、なにしてはりますの?」

「音楽聴いたり、映画見に行ったり…」

「やっぱり、友達と一緒にいかはるの?」

「はい」

「友達なんかたくさんいはる?」

「普通やとおもいますけど…」

といった感じの、どうでもいい会話である。そして、これとまさしく同じようなものが精神科カルテには実にいっぱい、記載されているのである。私の職場でも、卒業1〜2年目のバイト医が診療に加わるようになって、この手の記事がやたらに多くなった。どこの大学でも、研修医の頃は、なるべく対話をそのまま記録するように教えられるのが普通だから、私が「パンチでデート」記載と呼ぶものが、かなりのスペースを占めることになる。例えばこういうものだ。

「変わりありませんか」

「別に」

「毎日どうしているの」

「別に」

「外出なんかすることあります?」

「するからここに来ているんです」

不思議なもので、こうしたビギナー記載でも目の付け所がいいと思えるものと、全く見当はずれで、いったいどこを見て面接しているんだ、と思えるものにきれいに分かれる。そして、それは時とともに次第に習熟してくるとか、鋭くなってくるということはあまりなく、どうも個々人の天与の才能によるものらしいと思われるのである。鋭かろうが鈍かろうが、一般の人から見れば、何と無意味なことをしているのか、と思うかも知れないけれど、ある種の疾患を抱えている人にとっては、どうでもいいことを儀礼的に形式的会話をするというのも大変なのだ。彼らの脆弱性、言葉の切れ端や、ちょっとした態度などに容易に傷つけられてしまうもろさを、うまく回避するためには、とおりいっぺんの会話を大真面目にやる、というのも結構有効な治療的訓練になるのである。

治療者側がそれに自覚的であればいいのだが、ビギナーの場合はそうもいかず、何か聞き出してやろうという態度が出すぎてしまい、相手を混乱させてしまうこともある。ところが、世の中うまくしたもので、ビギナーたちの面接技量のなさのおかげで、たいがいの百戦錬磨の患者たちには出し抜かれるのである。相手を傷つけることなく、情報をうまく得て、しかも面接を信頼関係を深める契機にするようなテクニックというのは、残念なことになかなか人に指導しにくいものだ。間違うと一言一句の揚げ足取りになるし、大まかな指針のようなものを掲げるようにしても、禅坊主の警句みたいになってしまって、結局ビギナー治療者には何も伝わらない。

自分が駆け出しだったころのことを思い出してみても、指導医たちは、そういうことは自分で見出すしかないもの、と達観していたように思う。「こいつがそこそこ格好つくようになるまでには、患者側が多少の迷惑こうむるのも仕方がない」と、割り切っていたようでもある。多少は勘所をえているな、と積極的評価をしてくれていたのだろうか。他人の欠点はいくらでも目に付くのだが、自分がどこまでやれているか、というのはなかなかわからない。

さて、話題はがらりと変わるが、新聞記者として真価が問われるのが、相撲取りのコメントをとるときだという。なにせ寡黙で、決まりきったことしか言わないとされる相手である。

「横綱に始めて挑戦して、緊張のなか初勝利、いかがでしたか?」

「…うれしっす」

「この喜びをどなたにまず伝えたいですか?」

「…」

「故郷で応援してくれたお母さんでしょうか?」

「…そうっすね」

「ここでその声を届けてあげてください」

「…ごっちゃんです」

これが実際の記事では「横綱とは初めて当たるので緊張したが、勝ちを拾えてうれしい。故郷で応援してくれている母に、まず喜びの声を届けたい」というコメントにまとめられるわけである。全然言っていないことが発言になるわけだが、これがまったくのデッチ上げだと非難する人はいないだろう。インタビューする側もされる側も、期待の最大公約数とでも言える内容だからである。そして、精神科カルテ記載の多くは、これとまったく同じことをやっているのである。

私は、ビギナー段階を「パンチでデート記載」と名づけたが、こうしたそこそこ専門家段階の記載を「大相撲勝利者インタビュー記載」と呼ぶことを提唱したい。これで、途中で例示した引きこもりがちの人の記載をすればこうなる。

「毎日おなじようなもの。特に何もしていない。たまには外出もする。通院もしないといけないし」

これだけなら「パンチでデート記載」にあった茶目っ気が充分再現されないきらいがあるので、これに「そっけないながらも、程ほどに感情面の豊かさも垣間見せる対応がみられる」などと、一言コメントを入れるようにすれば、もはや記述テクに関しては、精神科医としては中堅クラス。治療はまた別の話だが。

キダ・タロー氏に触発されて、精神科面接の記述論を展開してみたりした休日の午後である。()2002/07/14)

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先日、ミステリ作家の殊能将之オフィシャルサイトで、サッカーのフランス代表監督選考にからんで、ルネ・ジラールが監督になればいいのに、という記述があった。「フラット3に対抗して『欲望の三角形』というのはどうか」と提案されているのだが、本当にルネ・ジラールという人が候補にいたんですな。それも前監督のアシスタント・コーチだったらしい。単に殊能流の考えオチなんだと思っていた。

社会学者であるほうのルネ・ジラールがいっている(らしい)「欲望の三角形」というのは、簡単に言うとこういうことだ(と思う)。人が何らかの対象物を欲するのは、主体が欲望する他者がその対象物を欲するからなのであって、対象物への欲望それ自体は存在しえない。欲望は必ず他者に向けられていて、この主体 - 他者の関係を対象物が媒介している。こうして成立した主体 - 対象(物) - 他者という「欲望の三角形」を介して、人は社会関係を取り結ぶのだ、という理屈。

ふつう、この手の屁理屈系学術書なんぞ読んでも、眠気と戦うのが精一杯で、何か啓示を得たりすることなんかまずないのだけれど、私はこれを読んだ(といっても、アンチョコで読んだだけ)とき、あ、やられたと思わず声をあげたものだった。というのも、ジラールのこの理屈は、フロイト理論の嫉妬の三角形をうまくパクっていると思われたからである。

フロイトは、主体が他者に嫉妬を感じるのは、その他者が関係をもっている対象(この場合は人間)を、その主体が欲しているからだ、と唱えた。例えば、自分の配偶者が別の男性と何らかの関係があるように感じられ、それに激しい嫉妬を体験するということは、自分自身がその男性に対して同性愛的欲求をもっていて、しかもそれを抑圧しているからだとした。

フロイトの嫉妬の三角形理論は、煎じ詰めるとエディプスコンプレックスなんかも全部その範疇に入れてしまえるわけで、その理論の骨子といってもいいわけなんだが、さすがに性欲への一元化がちょっときつく、それも同性愛を普遍化しなければならないあたりで、一般理論化には少々難がある。

その点、ジラールは「欲望」とあいまい化したうえ、対象を人とも物とも取れるような言い方でぼかし、フロイトの三角形構造だけをうまくパクったわけ。ジラールの本を隅々までひっくり返して読めば、フロイトからいただいたことがどっかに書いてあるのかもしれないが、私の知る限りそういう記述はないように思う。

ジラールは、社会関係というものの基礎が、相互に渦巻く他者への欲望であるので、それを安定化させるために「供犠」が行われるのだとする(たぶん、それとは逆ベクトルの『祭り上げ』もおなじ機能を持っているとされるのではないかな)。欲望エネルギー論に無理に当てはめるなら、一種の熱力学的熱死状態を、外部系を利用してエントロピー低下させようというわけですな。

どこかで書いたけれど、私はフロイトの欲望エネルギー経済理論をより一般化して、熱力学的モデルで定義しなおすような噴飯理論を目論んでいたことがあり、たまたまそういうときにジラールにふれたものだから、世の中には目の付け所がいい奴がすでにいるもんだ、とかなり脱力してしまったのだった。あっちのほうが圧倒的にかっちょいいものね。

ところで、このジラール=Webmaster理論は(なんだそれは)、単に屁理屈だけが目的なのではなく、ちゃんと治療への展望も持っているのだ。簡単にいえば、人は願望充足が出来ないから危機に陥るわけではなく、願望や欲望が飽和してしまって、量的質的インフレを図るしかなくなってしまって破綻するのだから、治療者のやることは、欲望が差異化していって飽和しなくなるような経路を見出すことだ、というのがその理屈。

具体的にはどうすんだよ、と言われるかもしれないが、それは様々に創意工夫を、としか言いようがない。他人にやさしく、自分の体にもやさしいやり方で、今までの生活理念をそこそこ維持し、それを土台にして、うまいこと新しい価値観に乗り換えていく方法を考えようということになりますか。少なくとも、功なり名遂げて、何の不満があるの?という態度ではけっして了解できない種類の危機がある、ということを強調するだけでも、それなりの意味があるかな、と考えたりする。(2002/07/20)

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「TVの医学ドラマでは、心肺停止患者の救命率が、実際の2倍から6倍は高く描かれていて、患者家族に誤った期待を抱かせる原因となっている。無益な希望を持たせないように、医師は家族と現実的な話し合いをすべきである」という内容の論文が、British Medical Journal最新号に載っている。

著者は、カナダのエドモントンにある三つの研修医療機関で、97年から99年の間におこった成人の心肺停止例247例を検討し、その予後と、TVドラマでの描かれ方を比較している。著者によると、それらの症例の半数はいったん救命されたものの、24時間生き延びたのは3分の1で、4人にひとりは退院にまでこぎつけたが、実際に家に帰って生活できたのは5人にひとりだったという。

著者は96年にNew England journal of Medicineにのった「テレビにおける心肺蘇生:奇跡と誤報」という論文を引いて、自分の調べた蘇生率と比較している。NEMJの論文は、ERとシカゴ・ホープ、レスキュー911の94年から95年のエピソードを検証し、そこでは心肺蘇生されて退院にいたる率が67%という高率であったとし、患者家族にこのような現実と乖離した期待を持たさないようにするべきだ、という主張がされている。しかし、実際にはどのぐらい助かるのか、という肝腎のことが書かれていないため、BMJの著者が、自分たちのデータと比較したようだ。

おそらく、これを書くためのデータ収集に2時間以上はかけていないだろうと思われる色物系論文なのだが、「医療に大層な期待をかけられても困る」という、正直かつ勇気ある意図に貫かれている。看護者の夜勤帯に発作をおこすと、まず助からないなんてことは、業界人なら皆知っているが、ちょっと公式にはいいにくい事だ。日本ではドラマでどうこうという以前に、たまにやられる何とか病棟24時、などという特集番組で、えらくラッキーかつハッピーな症例をおおげさに紹介して幻想を振りまくような行為がまかり通っていて(例えば某大学病院の「低体温療法」とかね)、地道な医療を阻害することすらあるのに批判すらされない。そうしてでっち上げられた幻想が、まわりまわって結局は医療への信頼を裏切る原因になっているとおもうのだが。

ところで、上の二つの論文の関連論文をPubMedで調べていたら、病院モノTVドラマの内容に突っ込みを入れるようなものがやたらにあるのを発見した。どこの国の医療関係者も、おんなじようなことをしているもんだなという感想がまず一点。それをちゃんと論文に仕上げる根性にちょっと脱帽。 (2002/08/27)

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複数の方から、精神神経学会が決定した精神分裂病の名称変更についてどう思うのか、という質問が来る。正直言ってアホかいな、と思うだけである。医師の学術団体のなかで、戦後民主主義ボケをもっとも強く体現し、いわゆる朝日新聞好みのオールドタイプ進歩的文化人気取りがあふれる精神神経学会が決めそうなことだな、というのが二番目。学術語のはしくれとはいえ、「分裂病」という名称も言語の一種なので、意味するものと意味されるものの関係は恣意的でしかなく、言い方を変えたからといって、意味される側の本質が変わるわけではない。私はもう20年近く前にこの学会から除名されているので(理由は単に会費の不払い)、そこが何をしようと文句はないが、同業者の端くれとしてはちょっと恥ずかしい。

それは、今までの言葉に染み付いてしまった差別的ニュアンスとか、勝手な意味連想から一時的に自由になることはあるかもしれない。でもそんなもの、用法が定着すればまた同じことである。学会がこんなしょうもない決定をするなら、伊勢神宮の遷宮のときに一緒にまた名称変更しようとか、いや諏訪大社の御柱祭の周期で変えるべきだ、というような論議もついでにするべきだった。ギャグがらみでもないと、とてもまともに取り上げられない。

私自身は分裂病という単一疾患の存在を強く疑う立場にいるので、その名前を変えて悪しきイメージを払拭しようなどという発想は、単一疾患であるという仮定をいつの間にか検証されている事実であるかのように言いくるめる陰謀の一種としか受け取れない。そもそも、E・クレペリンが今で言う分裂病群を、「早発性痴呆」という名で雑多な精神疾患から取り出したとき、そこにあった「不治にして宿命的に荒廃状態に至る呪われた病」というイメージを打破しようとしたのが、ブロイラーによる「精神分裂病」という診断規定だった、という経緯があるのだ。それはある一時点で観察される症状のまとまりをもって、指し当たってそう呼んでおこうではないか、という取り決めなのであって、なにも精神がちりじりバラバラになった病気、と決め付けているのではない。まとまりがよくないように見える状態、といってるだけなのである。だからブロイラーのSchizophreniaという命名は、当初は精神乖離症などと訳されたこともあり、彼の意図にも沿ったものであったのだが、結局漢字のゴロからか、分裂病という呼び名が定着し、その意味連関が本質を表しているかのごとき誤解まで生まれてくる。

そういう過程を今回の決定は踏まえているのだろうか。とてもそうとは思えない。Schizophreniaと診断される非常に治療が困難な一群の人々がいる事実(などといいつつ、現在の薬物療法でほぼ7割近くの人は、そこそこの社会生活をおくれるようにはなりますが)を、その呼称の問題だとすりかえるのは、まるでおまじないの発想である。病者たちがしばしば見せる魔術的思考への耽溺に、専門家たちがいつの間にか感染しているのである。情けない話だ。

私の提案。分裂病という呼び方がそれほどまずいものなら、もう使うのをよせばいい。経過や症状に応じた呼び名はいまさら検討してこっぱずかしい名称を考えるまでもなく、すでに山ほどあるのだ。思春期発病なら破瓜病、軽症例には思春期妄想症、30代の発症なら30代精神病(ホントにあるのだ)、病状をメインにするなら、興奮中心の緊張病、妄想が主なら妄想病でいいではないか。フランス学派みたいに、急性期を急性精神病、慢性化すれば慢性精神病という分け方をしてもいい。まれに見られる、あらゆる治療努力に抗して、どんどん荒廃に向かって進行するかに見えるようなタイプだけに分裂病をつかうとか、なんなら早発性痴呆を復活させるのもいいだろう。こうすれば専門家なら何がしかは感じる、疾患の単一性への疑問もかなり解消されるし、こういう風に一度概念も解体したところからこれらの疾患群を眺めれば、おもわぬ連関と本質性が見えてくるかもしれないと思う。

まあ実際は単なる符丁なのだから、統合失調症であろうが屁家模根病であろうが、使えといわれればなんだって使いますがね。保険病名としてとおるのかどうかははっきりさせておいてほしい。精神神経学会は伝統的に、そこらのツメが異様に甘いもので。(2002/08/28)

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  • DSM−Vに「気」の障害が加わる?

9月1日づけのワシントンポスト紙によれば、「精神疾患の診断・統計マニュアル第4版」(DSM-IV)を改訂作業中の米国精神医学会(APA)の作業部会は、今までとは全く違う概念にもとづく疾患分類を今度のDSM-Vに加えることを検討しているという。新聞記事で読んだだけで、肝腎のAPAの発表とか公表されている議論の中で確認していないのだけれど、内容はこういうことらしい。

新しい診断分類カテゴリィは「関係性障害」(Relational Disorders)と呼ばれ、疾患というものが伝統的にある個人に帰属するものであったのに対して、この診断は家族などの、ある一定の人間集団に下されるというのが根本的に違う。いうならば、古代漢方概念にある、天地人間(じんかん)にある、「気」とでも言うものの障害を、精神疾患の中に含めようと言うのである。記事によれば、個人としては全く精神的健康に問題がないのに、ある人間関係、夫婦とか親子の間では、精神状態が不安定になる人々が以前から問題になっており、それに対応するものだという。私はそんな例に遭遇したことはないけどね。個人的な問題を抱えているから、関係の中で問題が起こるという常識的な例ばかり。

現在のDSM-IVでも、Vコード分類枠というのがあって、そこに「対人関係の問題」(Relational Problems)というのが入れられている。疾患としては扱わないが、医学的関与の対象になることはあるという認識で、このジャンルにはほかに、虐待だとかいじめとか、反社会的行動や学業成績の問題などが含まれている。たぶんDSM-Vでは、このRelational Problemsを疾患に格上げするつもりなのだろう。そうすることによって、より体系的な研究や、薬物治療への保険適応がすすむことを期待しているらしい。

個人の問題と人間関係の問題は切り離せないものだと、誰でも思うし、実際そうであることは間違いない。身体疾患だって家族関係のまずいところでは、療養するのもきついだろうし、寝込んでいる人を抱えた家族にはそれなりの屈折が出てくるだろう。医療者の理解と援助が必要になるのは当然だといえ、ことさらに障害された関係そのものを疾患とみなすことに、何のメリットがあるのかちょっと理解しがたい。元の新聞記事も、もっぱら辛らつな批判を多く取り上げることで、DSMの当てはめ主義をからかうニュアンスが、かなり含まれているように読める。

明示的ではないものの、DSMの狙いの主なものに、診断を統一化することで、それの原因となっている身体的問題、主要には遺伝子パターンとの統計的関連性を見出そうというのがある。遺伝子パターンの特定をいくらやっても、肝腎のDSM診断基準のほうが、ここまで羅列的で便宜的なのだから、双方の特異的関連性などまず見つからないだろうと私は思うし、まして関係性障害なんてあいまいな規定を持ち込んでも、ボケた医者が、人間関係のよしあしまで遺伝子で決定されている、などと思い込むのがせいぜいだろう。たしかに「気」のあわない奴というのはいますがねぇ。だからといって、どうしようもないわけで。(2002/09/06)

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  • 市民講座講師大激怒の謎

パニック障害で私の外来に通院している女性が、不安なく電車に乗れるようになったので、もっと積極的に活動したいといって、都心でやっている芸術療法の講習会に通い始めた。この人は10年来電車に乗るのはもちろん、家族と車で出かけるのも困難だったのだ。

こちらとしては、そこまで張り切らず、家族と一緒に遊びに行くとか、自分の楽しみを広げるようにすればいいのではないか、と思わないでもないが、やりたいことやるのに文句つけることもない。講習会というのは、ある大学がやっている市民講座で、例えばサイコドラマとか、絵画療法、音楽療法などを選択して、一般的な知識と一緒に習うようなものらしい。ちゃんとした教科書が準備され、講師もそこそこ知られた専門家ばかりである。

ある精神科医が担当している講義のフリートーク時間に、この女性が、知り合いの家族が悩んでいる引きこもり事例についてたずねた。「どんな風にこういう人たちに接してあげればいいのでしょうか」と、当たり障りなく聞いたつもりだったのが、思わぬ反応が帰ってきたという。講師は烈火のごとく怒りはじめ、自分を何様だと思っている、そういう不遜な態度の人間を養成するためにこの講座があるのではない、あんたには修了認定証なんて出させないからな、と一方的に怒鳴り散らしたかと思うと、かなりの時間をのこして帰ってしまったという。

幸い、その講師の授業はそのときが最後で、レポート提出などもすでに終わっていたので、修了認定をもらうのには影響がなかったのだが、その女性にとってはまるきり訳のわからない体験だった。そりゃそうだろう。優等生的態度のつもりでいたら、口を極めて罵倒されたのだから。「精神科の先生っていうのはああいう人が多いんですか?大体、なんであんなに怒ったんでしょう」と尋ねられたので、ちょっと返答に詰まった。その女性から聞いただけなので、事情はよくわからないのだが、よっぽど機嫌の悪いところに、何か専門家として許しがたいようなものを、その質問と態度に感じたとしか思えない。そう感じたなら、専門家としての自分の理念を示すいいチャンスなのだから、ちゃんと説明すればよいことだ。怒鳴り散らすだけというのは、まともな対応とはいいがたい。

誤解を恐れずに言うと、精神科関連の臨床家が、クライアントに接する動機のほとんどは、「相手に尽くしたい」とか「救いたい」などという崇高なものではなく、純粋な「好奇心」なのである。抜き差しならない状況の、いろんな要素を客観的に眺め、自分なりに把握したいという欲求である。パズルとか、ゲームに取り掛かる感覚に近いものがあるかもしれない。もちろん、奉仕や献身という動機は立派なことである。しかし、それよりも大事なのがこの好奇心であると、少なくとも私は思うし、たいがいの専門家もそう思っている(筈だ)。これがないところで、妙な使命感を振り回しても、まず適切な対応ができるとは思えない。

何が問題なのかを把握しないことには、治療的介入はできないし、そもそも、治療といったってやれることがそうあるわけではない。正直いって、精神医学が提供できるもので実質的意味があるものは薬物療法だけだろう。家族調整だの、カウンセリングだの、そんなもの自分の場合にひきつけてみたって、はたからごちゃごちゃ何かいわれて、トラブルが解決することなんぞあるわけがない。それはもちろん、ある疾患の性質を関係者一同で理解し、先の見通しをつけることで、現在の混乱を整理していくことのきっかけにはなるだろう。治療者がリーダーシップを提供し、関係者のコミュニケーションを回復させるだけで、混乱状況にはかなりの安定が得られるものだし、そういう一時的安定をうまく保つことで、「時が解決する」という効果を引き出せることもある。しょぼいとはいえ一種の権威に身を任せてもらうことで、無駄な努力を重ねさせず、事態がさらに悪化しないようにするわけだ。そうしているうちに、大概のことは、なんとかなるようになるものである。

そこであまり役に立たないのは、善意とか、何らかの道徳的バイアスのかかったおせっかいであって、ましてや知り合いとか友人からの介入というのはまず百害あって一利ない。これが金とか労力なら、提供してもらうのは実にありがたいのだけれども。私たちの場合も、家族とか親戚、友人、利害関係者の系譜につながる患者を自分で見るのは、絶対やってはいけないことになっていて、実際、同僚の家族ぐらいでもまずうまくいかない。私も何度か苦い経験がある。

これは知り合いに精神疾患関連問題で困っている人がいたら、知らん振りをすればいいといってるのではなく、何らかの専門性を発揮するのはやめたほうがいい、ということなのでお間違えなきよう。あくまで友人の立場で、相手を支えてあげるのはいくらでもやればいい。おそらく、先の市民講座講師はそういうところで自己撞着を起こしているのだとおもう。私の考えからすれば、芸術療法というのは、差し当たって手詰まりの状況で、関係者が視点を転じるための一手段であって、決してそれが精神疾患の一部に著効のある、絶対的治療手段であるわけではない。自己表現を極めることで精神疾患が治るなら、中途半端な素人が関わったって仕方がないではないか。ちゃんとした芸術家のもとで、正統的指導を受けるのが一番いいことになる。もちろん、芸術的手段を介して精神的危機を切り抜けた、という人はいっぱいいるわけだが、芸術療法が転機になってそうしたという人は、まず極少数だとおもう。

例の講師は、医師としては何度か素人の見当はずれ介入に腹ふくるる体験があり、一方では建前としての善意による治療共同社会の理念に無批判に乗っかっているのだと思う。そうでなければ、こんな講座の講師なんか引き受けないだろう。そこそこの知識を持って、ボランティアでもやって自分たちの商売を助けてください、でも、図に乗って治療者ヅラまでしちゃ、ちょっと怒ってしまうからね、というのが正直なところだろう。普通なら私のクライアントの質問にも、にっこり笑って「知り合いに助力されたい気持ちは立派ですが、ある種の危険を伴うので、相手の心の支えになることに専念されるべきです」ぐらいのところで誤魔化しておくものだ。自己コントロールも出来ずに怒鳴り散らしてしまうというところで、この人の治療理念というのが、旧態依然たる支配イデオロギーという本音と、民主的助け合いという建前が整理できない混乱したものである、というのがバレてしまうのだ。

くだんの女性には、もうすこし単純化した意見をいったのだが、「医者というのは、素人に口を差し挟まれるのを嫌がるものだ」という、かなり同業者擁護的な一般論として受け取られたようだ。私としては、精神衛生の啓蒙においては、知識以前に、他人の精神的危機に首を突っ込むことの、いささか出歯亀的動機のもつリスクと、そのリスクをあえて犯すことへの責任の自覚を呼び覚ますことを優先すべきではないか、といいたかったのである。(2002/09/15)

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行政から病院に、「トリアージ研修会」なる集まりの連絡が来た。大規模災害に備える救急医療体制づくりに欠かせない研修内容なので、ぜひ万障繰り合わせて参加されたい、とある。なんとなくフランス語っぽい語感だが、その場に居合わせた同僚たちに意味がわかる人間はいなかった。もちろん私を含めて。そこでこっそりトリアージを検索する。その結果、こういうことであるのが判明。

普通、病院というところは、よっぽど気の利いた受付係がいれば別だが、到着した患者はシリアルに処理されるので、放っておいていいような傷病処置のために、重症者の治療があとまわし、なんてことが起こりがちだ。夜中に救急病院を探した経験のある人なら、「当直医が手術中だ」ということわり文句を聞いたことがあるかもしれない。実際、外科医が当直してもいないのに、連日夕方から朝まで手術しっぱなし、という理由で時間外救急患者をことわるけしからぬ病院もある(と聞く)。

もちろん、ほとんどの場合は緊急事態への対応で、新たな事例まで手が回らないという、やむにやまれぬ理由で断っているのである(と思う)。たとえ軽症例であっても、一度はじめた処置を途中でやめるわけにはいかない。たまたま、後からきた事例のほうが圧倒的に重症であっても、そんなことまでは事前に予知できない。

その点、大規模災害の時は話が違う。傷病者は同時に発生するので、そこで治療の優先順位をきちんとつけないと、医療資源を有効に使うことが出来ない。そんなことは当たり前の話なのだが、普段シリアル処理になれている医療従事者には、ことさらに「トリアージ」などという聞きなれない言葉で、この優先順位決定というプロセスを強調する必要があるのだと思われる。「優先順位決定」というわかりやすい言葉を使わないのは、医療はすべての人にまんべんなく施されるべき、という建前と微妙にずれるからだろう。ちょっと聞きなれない言葉で、機会均等の幻想を守ろうというわけだ。

トリアージのプロトコールには四種類があり、一番目が生命に危機的状態が迫っていて、直ちに治療開始が必要なもので、あと二番目、三番目と緊急性が薄れる。問題は最後の四番目で、上のサイトでは「死亡群」とされ、死んでいるか、明らかに即死状態で蘇生可能性がない、と断定的に書いてあるのだが、実際には一番目と区別するのは難しそうだ。英語サイトをみれば、ここの定義は"Dead or very severely injured and not expected to survive "(死亡、もしくは傷害が重篤で生存が期待できない状態)とされている。蘇生できないというより、もっと主観的なのである。一番目の差し迫った状態と、この状態はほぼ隣り合わせで、それを主観で分ける作業は、かなり厳しい決断力が迫られるものだろう。災害の程度と、医療手段の残存率などを勘案すれば、普通なら真っ先に救急対応すべき人に、四段階目の黒タグをつけなければならない、なんてこともあるかもしれない。

自分の首に黒いタグがかかっているのを想像するのもいやだが、判断する側になるのもかなわない。私ならノー天気にどんどんヘリを呼んで、治療可能な人の分を奪ってしまうか、どうせダメだぜ、と黒タグつけまくるような気もする。結局その場のノリでやるしかなさそうなので、せっかくのご招待なのだが、研修会には行かないことに決定。(2002/09/20)

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/.jpで仕入れたネタなんだけれど、ノーベル賞のパロディとして知られる(私は知らなんだけどね)イグ・ノーベル賞の2002年度受賞者が先の10月3日に発表され、タカラの「バウ・リンガル」が堂々の平和賞を獲得したという。これからの日本が科学技術分野で進むべき道を、強く示唆してくれる快事でありましょう。

このイグノーベル賞の受賞対象をみてみれば、ここでも以前取り上げたものなどもあり、まことに興味深いものばかりだ。パロディとはいえ、対象になるのはちゃんとした学術誌に載った大真面目な論文が中心で、平和賞だけは本格お笑いを追求しているように思える。まあ、これは本家ノーベル賞も同じことですが。ここでは、医学・生物学を受賞したものを中心に少し紹介してみたい。

今年の同賞医学賞は、76年にNature誌に発表された解剖学(?)レポートである。古典時代や、ルネッサンス期の男性裸体彫像107体を観察し、その睾丸の左右不対称性について論じたもの。「昔の芸術家は、右の睾丸が高い位置にあることを正しく観察しているが、左側を大きく描くという間違いをおかしている」という。これには「下にさがっているのは大きくて重いから」と単純に考えたからであろう、という考察がなされている。すばらしい洞察というべきであろう。

2001年医学賞は、84年の外傷学雑誌に掲載された論文に与えられた。表題は「落下椰子の実による外傷」というもの。パプア・ニューギニアの一地方病院で、4年のあいだに、落ちてきた椰子の実に直撃されて怪我をした症例について考察したもの。この病院では入院患者の2.5%が、これによるものだったという。論文では、即死例2例、開頭手術を要した2例について詳述しているらしい。

椰子の実が当たって深刻な怪我をしたり、命を失った人には申し訳ないのだが、このほのぼのとしたテイストは、医学は何より素朴な実践であるべきだという原点に立ち返らせてくれるような気がする。今後の続報が待たれるものだ。

おなじく2001年の生物学賞は、ある身体ケア製品にあたえられた。"Under-Ease"という名のその製品は、特殊な気密性加工を施した下着で、肛門部にあたるところには消臭フィルターが備え付けられている。過敏性大腸などの腸疾患で、頻回のオナラに悩まされている人のためにつくられたすぐれものだ。女性用、男性用とも24ドル95セントという、お手ごろ価格もうれしい。いまならお得な交換用フィルターセットに、高枝切り鋏もついてくる、ということはない。

ただ、そのサイトをいくら読んでも、音のほうはどうなるのかとか(なんか、気密性素材が災いして、共鳴現象が起こるような)、ちびってしまった時の対応について書かれていないのが、ちょっと気になるところ。

このぐらいにしておこうと思ったが、93年の医学賞受賞論文の内容を知るに及び、ここで広く世に知らしめるのが、医療業界の端くれにいる人間としての責務であると思うにいたる。

その論文は、90年に救急医学雑誌に掲載された、「ジッパーにはさまったペニスの応急処置」というもの。Pubmedでは抜粋しか読めないので、関連記事を検索したところ、この論文と、その後に発表された論文をまとめた、家庭医学記事を発見した。ここでその具体的内容をまとめてみたい。

ここでやってはいけないことは、あせって衣服を切り裂くこと。ジッパー部分だけを丁寧に切り取れば、また直して着られる。それと、食い込んだ皮膚を切開するのもダメ。余計な傷害を与えるだけ。もっともな意見です。

この論文は、ごく常識的としか思えぬ内容を記した短いものであったが、いわゆるインパクト・ファクターは驚くべき高値を示したらしい。男性としての受苦体験の原型にふれたという画期性があったんでしょうな。有用性の意味でも、本家側のどんな受賞者の貢献をも、おおきく上回るものだといえよう。(2002/10/10)

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先日の当直時のこと。例によって心身統一し、病院周辺に念力で結界を張り、おもむろに晩飯を食おうとしていたら、警察からの電話。なんでも、「覚せい剤事件の被疑者を勾留しているが、こいつが覚せい剤検査されまいと尿を出さない。もう一昼夜も排尿をこらえている。尿の強制採取にかんする令状をとったので、連れて行くから導尿してくれ」というもの。

犯罪捜査に協力するという、市民的義務を果たすのはやぶさかではないのだが、なんとなく引っかかる話である。医療行為というのはあくまで患者の利益のために行われることで、法執行の一環としてやられるとするなら、それはあくまで裁判所が、何らかの法的根拠を示して個々の医師に直接命令するべきであろう。警察官に尿を強制採取することを認めたからといって、なにもこちらがリスクをしょってそうした行為を代行しなければならないいわれはない。

後のほうの意見は直接にはいわず、ヒポクラテスの誓いやら、「ヘルシンキ宣言」やら(これは人体実験の倫理綱領だからちょっと違う)、75年世界医師会東京宣言(これは拷問に医師がかかわってはならないというもの)などを並べて、あまり納得できないので協力するのは控えさせていただくと告げる。警察官は憮然とした口調で、そんな難しい話ではないのだけれどね、ま、院長に直接掛け合ってみる、と捨て台詞。

こちらとしては、本音を言えばまずサボりたい一心なので、自分の主張が法的に正当なものかどうかにはあまり自信がない。でも、病人でもない人に対して、意思を無視した強制的な医療処置をすることに、かなり敏感であるべきなのは、この業界で何度も思い知ってきたことなのだ。

電話での応対のあと検索してみて、同じような強制採尿事例で訴訟手続き違反を訴えて上告した被告に対する判例があるのを発見した。そこでは警察側がとった令状が適当でなかったことを指摘しながら、結局不当な手続きで得た証拠を採用するという、ちょっとどうかと思う判断で被告が敗訴している。不当捜査すれば、どんな証拠があろうと無意味ってのは日本の裁判では原則になっていないらしい。裁判官に「ダーティ・ハリー」なんぞを、無理にでもみせにゃいかんな、ホント。

しかも日本の司法制度では、医療倫理なんか問題にもされないみたいで、判決文には医師が警官業務を全面支援するのは当然で、むしろ医者がやるだけましだろうととれる書きかたがされている。さっきのオマワリサンが医師の社会責任だのなんだのと、本気でごねたら少々まずい立場になりそう。まあこちらは純粋に、晩飯前にシャブ中ヤーさんのチンポコなんぞを拝みたくなかっただけのことですが。(202/10/27)

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先月、2001年のイグ・ノーベル医学賞を受賞した「落下椰子の実による外傷」という論文についてふれ、「雑感」の方にも移動したばかりなのだが、どうもこれはそのほのぼのテイストにもかかわらず、「ガセ」ということが受賞の根拠になった論文であるようなのだ。

シカゴ・リーダーという週刊誌の有名コラムに、"The Straight Dope"(「はっきり言うと」とでも訳しますかねぇ*)というのがあり、疑似科学とか、通説化したデマなどに対し、正攻法でそれを検証するというスタイルで人気を呼んでいる。ほとんど雑誌が創刊されたころから続いていて、ウェブ化もされていて、私も何度かこっそりネタ元にしたことがある。

*掲示板で教えていただいたのだが、このコラム集は日本でもシリーズになって出版されていて、その際、題名は「こんなこと誰に聞いたらいいの?」というものだったそうだ。「私が教えてあげよう」というようなニュアンスなのかも。

今までのアーカイブを流し読みしていたら、今年の7月に件の論文にふれている記事を見つけた。もっとも、この論文自体を取り上げたのではなく、別の文脈からである。それは、サメの保護論者がしばしばつかうレトリック、「サメに喰われて死ぬ人よりも、落ちてきた椰子の実があたって死ぬ人のほうが10倍以上多い」という言い方についての検証なのだ。

それによると、フロリダ自然博物館でサメ研究をしているジョージ・バージェス氏はこう主張している。世界中で年間150人が椰子の実に直撃されて死んでおり、これはサメの被害者の15倍にあたる。氏はその統計をイギリスの旅行保険会社「クラブ・ダイレクト」から得ているという。クラブ・ダイレクトは椰子の木が自生している地域に旅行する人に対して、椰子の実による傷害を全面保障しているのだという。

オーストラリア・クイーンズランドでは、この保険会社の情報から、住民が怪我をして訴訟を起こされることを恐れた地方議会によって、椰子の木が全部引き抜かれたそうな。そして、この保険会社が論拠にするもののひとつに、かのイグ・ノーベル受賞論文があるのだという。

しかも、論文の抜粋だけ読んでいてはわからなかったのだが、元論文に記されている死亡例というのは、どうもちゃんと検証されたものではないらしい。2001年に、オーストラリア・ニュージーランド外科雑誌に報告された「太平洋諸島におけるココ椰子関連の外傷について」という論文が紹介されていて、そこでは、島で暮らす人々は椰子の木に生活のかなりの部分を依拠しているので、関連の傷害を根絶するのは困難と前置きし、94年からの5年間の観察がなされているが、死亡例は一例も報告されていない。

100例あまりの受傷者の80%以上は、椰子の木から落下した人で、倒れてきた椰子の木の下敷きになったというような少数以外の、10数%の人が椰子の実の直撃を喰らっていて、その場合被害者は子供が多く(多分高いところに上れないので、下で実を拾う係をするのであろう)、頭蓋骨骨折、上肢の骨折などの重症例はあるものの、生命に危険が及ぶものではなかったと、先行する例の論文の死亡例報告に疑問を投げかけた上で、椰子の実拾いにおいては、充分な安全策がとられるべきだと主張している。

ストレイト・ドープの筆者はイグ・ノーベル賞受賞元論文を読んだ上で、いまはパプア・ニューギニアからアラブ首長国連邦の大学に職場を移している著者に直接取材したようだ。「椰子の実があたって、そのまま村で死んだと伝えられている例がある」ということであって、きちんと経過をおって確かめたものではないと、論文著者に認めさせている。

イグ・ノーベル賞のサイトをもう一度読み直してみると、この論文が選ばれたのはその牧歌的雰囲気のためではなく、あくまで「ガセ」だというニュアンスであったのだとわかる。そこらをいい加減に読み飛ばしていたのを恥じいる次第だ。確かに、30m近くの高さから、2kg以上の重さのものが落ちてくるといわれれば、そりゃ大変とは思うが、表面は硬くても中は繊維質なのだし、石の塊があたるのとは違いますわな。

なお、ストレイト・ドープの筆者セシル・アダムス(実在の人物かどうかわからないのだが)は、このコラムを、イグ・ノーベル医学賞受賞者ピーター・バース博士がパプア・ニューギニア時代に行った、さまざまなエキゾチック傷害報告への賛辞で締めくくっている。

「彼が取り上げたのはパプアニューギニアの豚による外傷にはじまり、トゲウオによる刺傷、サバ中毒、腰蓑による火傷、アカエイ毒による壊死創、南洋はぜ豆の吸引傷害など多岐にわたる。彼は今、ナツメヤシが茂るオアシスに囲まれる砂漠の街で教鞭をとっているのだが、その変わり身を非難することなんか出来ない。ナツメヤシでノックアウトされたりはしないだろうからね」(2002/11/01)

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9月9日付けで紹介した、「天才と分裂病の進化論」に書いてあった、イワシやサバに豊富に含まれるオメガ3系必須脂肪酸、エイコサペンタエン酸(EPA)を分裂病類縁疾患につかうというのを、保険医療で許される範囲内でやってきて、すでに二ヶ月以上。せめてあと一ヶ月程度の観察期間が必要とは思うものの、大体の効果イメージはつかめてきたようにおもう。

先に紹介した本の著者、デビット・ホロビンはせんじつめると、「分裂病類縁疾患はオメガ3系必須脂肪酸不足によるもの」という仮説を主張している。それも、分裂病素因を持っている人は、より高度な脳機能をもつ人が多く、それだけ必須脂肪酸が多量に必要で、そこで充分補充されるとむしろある種天才的な能力をしめすという、「と」の香りすらあるあやしい裏主張までしているのだ。

オメガ3系必須脂肪酸の合成*を指令する遺伝子はすでに特定されており、分裂病者ではそれがうまく機能していないのではないかという視点からの研究もすでに行われているが、今のところは否定的結果しか出ていないようだ。ホロビンのビジョンでは、分裂病素因者には、普通以上にそれが必要な脳機能の高度化があるというのだから、この方向ではちょっと検証出来ないだろう。EPAやDHEが分裂病素因を持つ人によい効果を与える、ということが事実だとしたら、かなり大規模なランダム化試験をやってそれを確認することが第一だと思われる。

*必須脂肪酸というが、人間の体内でも一応αリノレン酸からEPAやDHAは合成される経路はある。ただ極めて反応が遅いため、直接食物から取るほうが効率がいいらしい。だから、ここの経路がどうこうだというのはあまり意味がないわけ。

私のささやかな試みは、今の保険医療では高脂血症と閉塞性動脈硬化症にだけ適応のあるEPA製剤を、ごく普通の薬物療法をやっている人に対して添加する、というだけのことである。私は昔から、コレステロールや中性脂肪が基準値をちょっと上回ったら大騒ぎしてスタチン系高脂血症治療薬を投与することに疑問を持っていて(何しろ、ある年代をこえたらコレステロール値は高ければ高いほど寿命が長い、という統計まであるのだ)、自分の受け持ちの患者さんにはまずこの手の薬を使わない。1割や2割の基準値オーバーは「運動でもしましょうね」で済ましてきた。一方無為にゴロゴロしていることが多い慢性分裂病者が、高めの脂質値を持っているのはこれまたよくあることなので、実に受け持ちの7割ぐらいの人には、保険医療ガイドに反することなく、堂々とEPA製剤を投与することが可能なのである。

ただ、この薬はイワシ油から精製された液状EPAを透明カプセルに封入したもので、一見ジェリービーンズみたいな結構大き目のもの(もう一つビーズ状のマイクロカプセルもあるが、いずれにせよちょっと飲みにくい)なので、しかも一回2カプセルを一日3回も飲まねばならず、服用に抵抗を感じる人もいて、病棟、外来とおしてトータルで50名ほどの被験者を得るのがやっとだった。半分の人にはちゃんと添加する目的を説明し、残り半分は「高脂血症のため」という欺瞞的説明になったのはちょっと残念。でも本当に高脂血症なんだけど。

さて、今のところ(11月中旬)の結果である。大雑把な数だけでいえば、6割の人にはポジティブな効果がえられ、残りにはさしたる変化は見られない。おもに慢性分裂病患者が中心の入院例においては、目に見えた効果で最たるものは、精神症状にたいするものではなく、いわゆる「遅発性ジスキネジア」にたいするものである。かなり強くこれが現われている人の7割近くは、これの消失、そこまで行かなくともかなり目立たなくなる効果が得られた。ほかの効果で目立つものは、向精神病薬副作用が強く現われるようになることで、実に40%近くの人が「眠い」「よだれが出るようになった」などの訴えをしたため、結果として向精神病薬の減量をする必要がでた。もちろんそれで精神症状の悪化が見られることはなく、むしろ全体に行動が活発になり、いわゆる分裂病の陰性症状といわれる意欲減退、感情抑制が改善された。

比較的発病から日の浅い例が多い外来群においては、もっと効果は顕著だった。分裂病群では入院例と同じように眠気、流涎などの向精神病薬の副作用が増強した例が多く、一般向精神病薬の減量が必要になった。家族内での暴力問題を抱えている例で、「急に穏やかになったのでビックリしている」という家族からの評価が得られた例もある(もちろんすべてではない)。とくに、向精神病薬で強い副作用が出るため、大量の抗パーキンソン剤を併用してもなお少量投与しかできず、幻覚妄想が遷延している例で、幻覚症状の消失と意欲の著名な改善がEPAの添加だけで得られたのは少々こちらも驚いた。ほとんど向精神病薬も中止して、なお程々の安定を得ているのをみていると、どうも診断を誤っていたのではないか、と思ってしまうのがこの業界歴の長い人間の悲しさである。

そのほか、うつ病、そううつ病群、および老人性痴呆群に対しては残念ながらほとんど目立った効果は確認できなかった。むしろ、躁状態が幾分かあおられたのではないかと思われる例があったが、中止しなければならないほどではなかった。ただし、遅発性ジスキネジア出現例に対しては、分裂病群と同じ程度の効果はみられ、かなり感謝される結果となった。昔から、これに対してビタミンEニコチン酸複合体(ユベラね)を使うというのはあったので、似たようなものといえないこともない。

なお、少数の躁状態例での行動の部分的活発化をのぞけば、不利な副作用は見当たらなかった。本来の効能である、コレステロール値、中性脂肪値の低下と言うのが「副作用」といえないこともないのだが。

以上から、保険診療の枠組みなんてけち臭いこといわずに、大規模な治験を行って効果を確認すべきだと強く思う。たとえ一割足らずの確率であっても、症状がほぼ消失した例もある。副作用と付き合うことが運命であった分裂病の薬物治療において、せいぜいイワシ臭いゲップがでるぐらいが気になる点、というような治療が可能になれば、もっと被治療者側の受け入れもよくなるだろう。もうちょっと観察期間をおいて、若手の名前でも借りて適当な学会の地方会に出すぐらいのことはするかもしれないが、こういうところで公表したほうが実際の影響は大きいかもしれませんな。

それともう一つ、この薬には特筆すべき効果があり、これは精神科薬物医療の枠を大きく踏み出すものだ。それは何かといえば、かなり大まかに言うなら、「肥満体の人には減量効果がえられ、痩せが目立つ人には増量効果がある」というえらく都合のいいものだ。分裂病群の人は、病状が安定するとデブになってしまう人が多いのだが、そういう人はこの2ヶ月だけで1〜2Kgの減量がえられ、ガリガリ系の人は逆に同じ程度の増量が見られたのである。計量そのものがかなりいい加減なので、もっと期間をおかないとちゃんとしたことはいえないけれども。

もちろん私はこちらのほうの結果にいたく感じ入り、さっそく被治験者の一員になったのは言うまでもない。一度大酒飲み会のあとに検診をうけたら、中性脂肪がちょっと高かったので、保険診療の上でも文句は出ないだろう。今のところさっぱり体重は減らないが、これを飲むようになってえらく身体がホカホカするようになり、布団の上掛けがいらなくなったというのは事実。(2002/11/20)

*これについては、もう少し期間をおいて改善率などをちゃんと示し、学会地方会の元原稿になる程度のものをアップするつもり。

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なんだかんだと言いつつ、もう12月である。馬齢を重ねる、という言葉があるが、あれほど私なんかの中年後期群の日常をうまく言い表している表現はないような気がする。あまり的確すぎて、馬に失礼ですらある。

身体はあちこちガタがきはじめ、乏しい知力はさらに衰えるばかり。コンピュータに責任転嫁できるからまだいいものの、漢字がまるきり書けなくなってきて、本当に参っている。外来の診察の時などは、電子カルテシステムになっているわけでもないのに、目の前にノートパソコンを開いて、グーグルで忘れた薬の名前を検索していたのだが、最近はもっぱら忘れた漢字の表示用である。この前、土屋賢二氏の本を読んでいたら、「ぬ」というひらかなの書き方を忘れた話が書かれていて、土屋氏の意図したギャグとしてではなく、同じような自分の体験を思い出して身の毛がよだった。

痴呆性疾患の発病因子についてはいろいろ語られる。身体的な指標については、酒とかタバコ(もっともこれにはボケ予防になるという意見もある)、栄養障害などという、一般的健康に関するものと同じようなものである。それ以外の、病前性格やら生活パターンについては、感情を内閉化して外に出さない傾向があるとか、感情をおもむくままに表現する人が多いとか、行動が活発で積極的だとか、何に対しても及び腰で、消極的だとか言われる。要は全然意見の一致はない。痴呆初期には、もともとの性格傾向が先鋭化して現われるようになるので、病像を彩る元来の性格がなんとなく発病要因の一つのように誤解されてしまうのだろう。

したがって、痴呆疾患の病前性格や生活スタイルに特徴的なものはない、というのが私の意見。当然、「ボケ予防」に有効な対策もないと思っている。ツッコミの人であろうが、天才的頭脳の持ち主であろうが、知的障害がはじめからあろうが、ボケる人は呆け、ボケない人は呆けない。

ただですね、こんなことを私の立場でいうと怒られるかもしれないが、私はいろいろな痴呆性疾患の持ち主に、共通している一点があるように思われるのだ。それは何だというと、徹底的なまでに今現在の「我」へこだわることである。そうだったからボケたのか、ボケたからそうなったのかは別として。(もっとも私らは、家族や介護者を困らせるという事例性がないところでは痴呆疾患をみないわけで、こう思うのは、現代医療システムという、バイアスのかかった視点でしかないのかもしれないけれど)

彼らの圧倒的な「我」の奔出を見ていると、あれで正常な知力が維持されていたらもっと悲惨だろう、と思わざるをえない。死ぬときにも前のめりになって死にたい、というのは誰やら有名な人の言葉らしいが、それは死という運命を対象化できているからこそなので、その覚悟が難しいところでじたばたするというのは、知力があろうがかなり困った事態を引き起こすのではないか。痴呆疾患にみられる行動異常のほとんどは、そういう機序として理解できるとおもう。少なくとも、その葛藤を持続する意識の上で体験する苦痛からは免れている(らしい)ところが、痴呆性疾患のある意味での福音であろう。

ほとんどの痴呆疾患の持ち主は、長い人生から見ればそう長期ともいえぬ時間を経ればその行動は落ち着き、穏やかな晩年をむかえるようになるものだ。介護に疲れた家族たちも、この時期にはおおらかに見守りと看取りをする余裕を取り戻す。医療が提供すべきものは、予防や治癒へのはかない幻想などではなく、適切な環境とマンパワーの配備によって、本人が穏やかな最期を迎えるにいたる道筋を用意することと、永遠にいたるつながりを家族が取り戻すことの手伝いであろう。

なんかえらく悟ったような結論になってしまったが、元の意図は、このまま覚悟のない人生をダラダラ過ごしていたら、ボケることは間違いないだろうという、私自身の危機感であったのだ。(2002/12/01)

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昨日のトヨタカップを見ていた人で、「レアル・マドリッド」(Real Madrid )の「レアル」とは何の意味なのか知っている人はどのくらいいるだろうか。英語のrealと同じ意味にとって、「真実のマドリッド」だと思っている人が身近に何人かいたが、サッカーに詳しい人なら常識であるように、あれは英語なら"Royal"という意味なのだ。王様のチームというわけ。はじめは単純にマドリッド・フットボールクラブだったらしいが、1920年だかに、当時の王様から直々その名を戴いたそうな。サッカーの熱心なファンでもない私が、この意味を知っているのには、ちょっとした経緯がある。

さっき泥縄で調べたことをひけらかすと、レアルの語源はラテン語の"regere"(支配する)で、英語ではそれがroyalになって、スペイン語ではrealになったらしい。英語のrealもたぶん同語源だろうが、なんで真実という意味を獲得したのかは知らない。ただ一つの原則に支配されることが真実ということかな?スペイン語でも英語と同じ意味で使われることはあるが、ふつうはレアルというと王室関係の意味が優勢で、外国語といえば英語のことだと思っている日本人にはややこしい。

何年か前にマドリッドにいった時のこと。真夜中に空港につき、レンタカーを借りてホテルに向かおうとしていた。長時間のフライトから解放された安堵感で、ほとんど頭が空っぽのままである。そして、市内に向かう道路を走りだして気がついた。マドリッドなんて初めてだし、スペイン語も出来ない。それなのにホテルの名前と、ガイドブックでそれが王宮の隣あたりにある、ということしか知らないのだ。レンタカー事務所で地図はもらったのだが、やたらに詳しすぎて、どこにどうつながっているのかがわからない。

地元の人に聞けば王宮ぐらいは知っているだろう、いくらスペイン人とはいっても、カタコト英語ぐらいは話すだろう、と思っていたのだがこれが大間違い。そもそも、夜中の0時ごろだったので、空港のあるような周辺部には、人っ子一人いないのである。街の中心部は西のほうだ、というのだけはわかっていたので、海外旅行の時にはかならず持っていく磁石(本当なんです)で確かめ、とにかく西に向かう。

道端にコンビニのような店があったので、そこで車をとめて聞くことにする。店にいたのはいかにもラテン系のデブオヤジで、この人がまた全然英語が通じない。ホテルの名前と地名をかいた紙を見せても、知らんなあといってる様子。仕方ないので、王宮にはどう行くのだと聞くことにする。パレスぐらいは通じるだろうと思ったが、きょとんとした顔をされるばかり。「キング、クイーン、スリーピング ゼア」などとジェスチャー混じりで言ってみたり、パラチオとかパラシオなどと、スペイン語っぽくなりそうな言い方をすると、向こうの返事の中に、「レアル」というのが聞き取れる。

不動産屋にでもいって聞け、といっているのかと思ったが、それにしては態度が親切げ。困惑して立ち尽くしていたこのとき、「レアル・マドリッド」というサッカーチーム名が、まるで啓示のように私の頭に浮かんだのである。もちろんその時、チーム名の意味など知らなかったが、その状況からレアル≒ロイヤル≒王宮という連関がたちどころに出来上がったのである。それはまさしく、意味の発見という喜びに満ちた体験であった。

私はオヤジの腕をとって小躍りし、レアル、レアルと連呼したあと、地図を書いてもらい、そのあと多少の困難はあったものの、約30分後には何とか王宮を発見し、その隣のホテルに行き着くことが出来た。異国で真夜中に道もわからずウロウロして、追いはぎにもあわず、親切な人にめぐり合うというのはラッキーそのものであったが、それ以上に、「レアル」の意味を体感できたときのうれしさは、つい昨日のことのように思い出すのである。

レアル・マドリッドよありがとう。その名のおかげで、見知らぬ土地で野宿しないですんだ日本人がここにいるのだ。金の力で有力選手を独占するそのやりかたは、どこやらの野球チームを連想させるのがいけないが、いつまでも忠実なサポーターでいることを約束するからね。(2002/12/04)

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最近アクセスが減るばかりで、けったくそが悪くて見てもいなかったアクセス解析を久しぶりにみれば、見慣れぬところから結構まとまったアクセスがあるのに気づく。

おそらく文科系研究者か、学問業界内存在と思われる人がここのサイトを取り上げて、えらく精緻で濃い考察というか、ある種の決意性表明までしておられ、こんなに鋭い日記を書く方もいるのだな、とちょっと脱帽である。ただ、ちょっと学問と言うものと、システムとしての医療の関係を誤解しておられるのではないか、という記述が目立つのも事実である。それと、こういったら実も蓋もないが、分裂病というものをやはり「ロマン」で見ておられる面がある。

しかしその指摘内容はあまりにも高度なので、私にはとてもまとめられない。といって、部分的に引用するだけでは揚げ足取りといわれてしまうかもしれない。最低限私にも理解できて、自分の立場を明確化しておいたほうがいいと思われるところだけを取り上げておきたい。

たとえばここ。「このひと、日本の医学業界の大勢にむかい斜に構えてみせるのはいいんだがしょせん業界の人としてとどまるほかないんだろうな」

なにしろ、業界人としてそつなく控えめに暮らしていく、というのを究極の目的にしている私なのである。何のためにもならない学問的目標とか、マイナーな栄達を得るために頑張るということがめんどくさいだけで、「大勢にむかい斜に構え」た覚えはないのだ。いつもそういっている筈なので、それを「しょせん」といわれると、あれあれと思うしかない。

続いて「とりわけ気になるのが『ラカンなんか全然分からん』とか『難解ぶる著作には付いて行けない』とかの自虐的とも取れる発言で、本人の意図が奈辺にあるやら判然としないが、こうした発言は少しも挑発的ではないし、面白可笑しくもない」とのご指摘。私はべつに挑発的ギャグをかまそうと思ったわけでなく、日常的診療にはラカンもフロイト理論もいらず、現に読んでもわからないという事実を言ったまで。

本心を言えば、まるで須弥山のかなたに鎮座する有難い仏様のようにラカンなどを持ち上げ、私の理解からしても見当はずれな引用をしたりする一部の学者様にイヤミをいいたい気分はあるのだが、残念なことに、そういう連中の自閉思考に正面から切り込むレトリックなど持ち合わせていない。啓して遠ざかるより道はない。

ただフロイトに関しては、患者に対する共感力と、問題点を引き出す直観力には感服している。転移だの逆転移だのといってしまうとバカみたいなのだが、二者関係が揺れ動きつつ互いに共有されるものが生まれ出てくる過程を、さらに外から覚めた目で見続けていたフロイトの息遣いは、今その著書を読んでも感じることが出来るものだ。フロイトを読む意味は、おそらくそこにしかない。

ラカンついては一度書き始めたことがあるが、フロイトのような直観力の鋭さはまるきり感じす、結局古典的精神病理学をモダンに(ポストモダンなのかよう知らんけど)言い換えようとしただけ、としか感じない。ほっといてもいい人だと思うのですけどね。顔が横山ホットブラザースの亡くなった東六さんに似ているという興味深い点もあるので、引退でもしたら続きを読んでみてもいい。あの幻惑文体の目的は、絶対にどこかで「おじゃましました」で落とそうとしているからに違いないと思うからだ。

次にこれ、「なるほど、薬物治療により患者の容体に一定の安定は得られるだろうし、それはむろん大事なことだが、その結果、精神病理の意味それ自体は正面から問われることなく目前の患者と一緒にたちまち忘れ去られてしまう。とりあえず治せばいいんだ、という姿勢では、症例にたいする原理的な理解が深まらないのである。こちとら忙しいんだ!と言われても困る」。これはまことに真摯な呼びかけなのだが、私に言わせればもっとも紋切り型勘違いの代表なのだ。私自身何度同じことを先輩医師たちに向かっていい、歳食ってからは逆に言われたかわからないほど。(注意しておくと、これは分裂病治療の話である)

ほとんどの人は病的混沌に何らかの意味を見出せると思うらしい(現に私がそうだった)。しかし、病者の存在を脅かし、自己解体への恐怖のあまり、それと同一化することで逃避を図ろうとすることさえある未知の病的プロセスの跳梁自体には、おそらく何の意味もないのである(物質的実体はあるかもしれないけれど)。意味があるのは、おびえながらも何とかしてそれから逃れようとする病者の戦いである。勝ち目のうすい彼らに後方支援をするのが我々の仕事で、今のところ病的プロセスのほうを攻める道具がないものだから、薬物という盾を用意したり、孤立をすこしは和らげる様々な掩体を提供するのが我々のメインの仕事である。放っておけばほとんどの人が手ひどい負けを喫するのはわかっていることで、彼らが力及ばずして敗退するさまを、いまさら何ぼ観察していても仕方ないのである。

繰り返しになるかもしれないが、言語(批評子のいわれるような『人格』とか理性をふくんでもいいかも)は混沌には届かない。語りえぬものについては沈黙するしかない、なんて言うとまた話がおかしくなるが、この点では絶対的真理である。「経験」という奴は既得権に居座る言い訳に使われる場合がほとんどなのだが、少なくとも精神科医としての経験で自信を持てるのは、この一点をおいてほかはない。大概のことはゆずってしまう無原則な私だが、この点だけは譲れないのである。

それと細かなことを言えば、理論というものはなるほど大事なのだが、それは自分の便利のためにあるので、自分が患者を理解できて、彼らの戦いを少しでも有利に持ち込む助けをする役に立てばそれでいいわけだ。フロイトの資質をもってしても、今に残る意味が対象にむかう姿勢だけであることを思えば、つたない言葉遊びにおわる理論志向に何の意味があるだろう。絶望的な戦いのなかであえぐ病者たちに、有効な援護射撃ができたと実感できれば、業界人としてこれに勝る満足はないのである。ただしそれは絶えざるフィードバックによって理論化されていくようなものでなく、ベイトソンのいうキャリブレーション*みたいな過程を踏むしかないものだとおもう。

だらだら書いてきて、案の定脈絡が失われてきているのでここらで終了。いずれにせよ、ちゃんと批評してもらえるというのはうれしいものだ、というのが正直な感想である。でも、「病院広報の埋め草のレベルで終わってしまう」って言われても、もともとそれで始まったのだから仕方ないんですけど。(2002/12/06)

*G・ベイトソンはしょっちゅうそのダブル・バインド理論なるもので持ち上げられるのだが、あんなもの、言ってることと態度がちがうなんて、大概のコミュニケーションで見られることを大層に持ち上げるスカ理論としか思えんのですがね。彼は人が経験を自己に取り入れる二つのやり方(フィードバックとキャリブレーション)の対比によって評価されるべきだと思うのに、誰もそれを言わないのが不思議。

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けったいな医学論文では定評のあるBritish Medical Journalは、いつも年末にそのパワー全開になるのだが、今年もその期待を充分かなえてくれている。正月休みにゆっくり記事にしようと思っていたが、昨日のTVニュースでそのネタの一部が報道されてしまったので、あせって取り上げる次第。ここでは四篇を取り上げたが、あと一篇、全文訳の価値があるのはおって紹介するつもり。そちらは「都市伝説」のほうに書くほうがふさわしいかも。

まずその一、TVニュースにも流れたのは、「ミイラの呪い:歴史的比較分析研究」というもの。(1)

1923年、ルクソールの谷でツタンカーメンの墓が発見されたとき、そこに居合わせた探検隊メンバーのほとんどがミイラの呪いで死んだという伝説に対して、コホート研究手法で検証した歴史的大論文である。

探検隊は44人のメンバーからなり、封印されたツタンカーメンの墓所に直接入ったのは25人であったらしい。論文の著者たちは、この25人と残り19人のその後をしらべ、両者の平均死亡年齢、平均余命に何の統計的有意な違いもないことを示している(勿論、一般的寿命との間にも違いはない)。たしかに、探検隊の資金提供を担当したジョージ・ハーバート卿は発掘直後の1923年、蚊に刺されたことが原因になって敗血症で死亡している。ほかの主要メンバーのうち2名も、10年ちょっとの間に持病で死んではいる。でも、名誉職をやっているような高齢者だし、別にミイラの呪いを持ち出すことはないのだが、当時の新聞が面白おかしく取り上げて、一種の都市伝説化したというのが実情らしい。

論文のほうは医学的立場の節度を守り、ツタンカーメンの玄室にある種未知な毒素なり、感染性寄生体となるものがあったのではないか、という仮説を検証するという構造になっているが、昔のホラー映画(?)の広告図版までつかったその意図は、「手のかかったジョーク」であるのは明らかである。著者はオーストラリア人だが、その英国式韜晦ユーモアの発露をじっくり鑑賞して、楽しむべき一篇であろうと思われる。(2002/12/24)

BMJ年末論文第二篇。

アイスクリーム頭痛の研究:早食い対慎重食いのランダム化比較試験」(2)

どなたにも経験があると思われる、冷たいものを食べたときの頭痛に関して、急いで食べる時と、ゆっくり食べる場合に差は出るか、という研究。

いままでのアイスクリーム頭痛に関する見解は、気温が暖かいときだけにあれが起こるとされているらしく、その知識ギャップを埋めるためにこの研究が計画されたというのだが、なんで早食いと遅食いを比べればその点が明らかになるのか、いまいちよく意図がわからない。

被検者はカナダの中学校に在籍する、平均年齢12,7歳の男女生徒たち145名。彼らをランダムに2群にわけ、片方にはアイスクリーム100ccを5秒以内で平らげるように指示し(ほとんど早食い選手権である)、もう片方には同じ量を30秒以上かけて食べるように指示し(これだってえらく早いぞ)、双方のアイスクリーム頭痛の発現率をみた。なお、実験は2001年12月から、2002年1月にかけて行われた。

その結果、早食い群では27%の生徒が頭痛を訴えたのに対し、遅食い群では13%であった。冷たいものはママのいうとおり、ゆっくり食べようね、という結果で終わりかと思えば、寒い季節にゆっくり食べても、この頭痛が起こるということが示された、というよくわからない強調がされているのが不思議。

もっと不思議なのは、いわゆるアイスクリーム頭痛がおこる機序についてあっさりとしか触れていない点で、あれは確か三叉神経第二枝の上顎神経が低温刺激され、逆行性に三叉神経領域に痛覚として知覚されるということではなかったのか(虫歯があると余計痛みが激しいのはそのせいだと、もっともらしく教えられた記憶があるのだけど)。「口蓋の低温刺激が痛みを生む」という程度の書き方しかしていないのは、私の習った知識がもう通用しなくなっているということなのかも。

この論文へのコメントがいくつかあって、「チョコ味とバニラでの違いを知りたい」なんてのが一番初めに来ているのをみると、完全に冗談記事として読まれている様子。(2002/12/25)

(どうも大学の家庭医学講座にいる旦那が、中学校の教師をしている嫁さんに因果を含めて協力させた研究みたいですな*)

*などと書いていたのだが、主著者のJanusz Kaczorowskiと併記されているMaya Kaczorowskiの肩書きには、ミドルスクール8年生と書いてあるので、どうも娘さんであるようだ。娘さんが中学校でやった実験調査を、親父が論文の形にまとめてやったわけですな。こんなのもありってのが、なかなかよろしい。メールで指摘していただいた方には感謝申し上げたい。(2003/04/17)

BMJ年末論文第三篇。

素敵なピンナップ?身体指標変化の傾向分析」(3)

「女性の肥満指数(BMI:体重/身長の二乗)とウエスト/ヒップ比は、本来その多産性や内分泌機能、疾病リスクや寿命というものに関連している。健康的とされるBMI値とウエスト/ヒップ比は、同時に男性に対する性的魅力としても機能する。進化論的な見解では、種としての生き残りに最適なこうした魅力感覚は、一時的なはやりすたりとは無関係だということにされている」というのが、この論文の出だし。つまり男には生得的に、丈夫で子供をたくさん産んでくれそうな女性に魅力を感じるような本能が仕込まれている、ということ。

ところがここ何十年かの変化は、こうした仮定にはあまり沿わないのではないか、というのがこの論文の著者たちの意見で、それを実証するために彼らが持ち出したのは、「プレイボーイ」誌のピンナップガールたちの身体指標の変遷である。

彼らは「プレイボーイ」の真ん中にある折込ピンナップの、1953年12月から2001年12月までの577枚を対象にし、その身体指標を測定した。彼らが取り上げたのは、身長、体重、BMI、ウエスト/ヒップ比、ウエスト/バスト比、バスト/ヒップ比、そして彼ら独自の指標である「同性化指数」(androgyny index :ウエストをヒップとバストの相乗平均で割ったもの)である。写真からどうやって体重がわかるのかかなり疑問なのだが、詳しいことは書かれていない。プレイボーイ社に問い合わせても、まずわからんだろうし。

彼らが指摘する変化は、まずモデルの体重の一定性、身長増、バストとヒップサイズの減少、ウエスト/ヒップ比の増加である。当然、BMIは減少し、彼らのいう同性化指数は増加している。つまり、この50年の間に、モデルはどんどんひょろ長く、ズンドウになってきているわけである。

著者たちはこういう変化について、進化論的立場からのコメントはしていないが*、彼らが考察に入れなかったもう一つの変化、それはモデルの年齢が有意に高くなっていること、を考えに入れると、昨今のピンナップガールの性的魅力というものには、もはや多産性などのイメージは求められていないといえるだろう。人類は種として衰退してきているということであろうか。(2002/12/26)

*唯一著者たちのコメントとおぼしきものは、「(こうした中性化傾向は)今なお「ガリガリ昆虫タイプ」より「砂時計シェイプ」が望まれている事実とは反するものだ」という当惑めいた言葉だけなのだが、これは単に彼らの好みの問題らしい。

BMJ年末論文第四篇。

心筋梗塞による入院とサッカーワールドカップ:データベース解析」(4)

1998年のワールドカップフランス大会で、イングランドは予選リーグを2勝1敗で勝ち上がり、決勝トーナメント第一戦でアルゼンチンとあたった。フォークランド紛争やら、マラドーナの神の手ゴールやらの影響で、因縁の戦いと前評判を取り、前半45分で両チームとも2点を取り合う好試合であったが、後半開始早々にあのベッカムが退場処分を受けてからは、イングランドは守り一方の穴熊試合となった。延長戦も両者無得点で、結局PK戦となり、4−3でイングランドは敗退した。

この論文は、この試合当日とその翌日に、イングランドの病院に救急入院した心筋梗塞、脳梗塞、自殺企図、交通事故傷害の総数を調べ、91年から99年にいたる同地方の入院率と比較した結果を分析したものである。なお、比較データは、ワールドカップと同じ季節の同じような天候の日で、かつ同じ曜日を選んで条件を揃えている。

その結果、ただ心筋梗塞入院のみがアルゼンチン戦の日と翌日に、約25%の増加を示していた(男女比では男性がやや多いが有意ではない)。ほかの疾患や傷害の場合には差は見られなかった。なお、予選リーグの試合日とも比較しているが、こちらは1敗した日でもこのような差は見られていない。

この論文の意図は、ワールドカップでの敗戦は体に悪い、ということの実証ではなく、心理的ストレスは心筋梗塞発症の引き金となるという説の検証であるようだ。同じテーマでも、戦争や災害時についての真面目な研究が数多い中、あえてサッカーを取り上げるのが英国流というところか。

日本でも阪神淡路大震災後の心筋梗塞死亡増加を取り上げたものが沢山出版されているが、要因が多くなりすぎてかえって関連が不明確になってしまうきらいがある。ジョークのようでいて、案外こういう角度からのアプローチのほうが条件コントロールが精密になって、目的により迫れるのかも。(2002/12/27)

Reference:

(1)Mark R Nelson,Department of Epidemiology and Preventive Medicine, Monash University, Alfred Hospital, Prahran 3181, Australia
"The mummy's curse: historical cohort study" ;BMJ 2002;325:1482-1484 ( 21 December )

(2)Maya Kaczorowski,(Dalewood Middle School, Hamilton, ON, Canada), Janusz Kaczorowski, (Department of Family Medicine, McMaster University, Hamilton, ON, Canada )
"Ice cream evoked headaches (ICE-H) study: randomised trial of accelerated versus cautious ice cream eating regimen"; BMJ 2002;325:1445-1446 ( 21 December )

(3)Martin Voracek, research resident(Department of Psychoanalysis and Psychotherapy, Statistics and Documentation Branch, University of Vienna Medical School) , Maryanne L Fisher, PhD candidate(Department of Psychology, York Universit).
"Shapely centrefolds? Temporal change in body measures: trend analysis "BMJ 2002;325:1447-1448 ( 21 December )

(4)Douglas Carroll, Shah Ebrahim, Kate Tilling, John Macleod,George Davey Smith
"Admissions for myocardial infarction and World Cup football: database survey" BMJ 2002;325:1439-1442 ( 21 December )