この業界では、月初めはやたらに書類書きが多い。保険組合に医療費を請求する「レセプト」提出というものがあるからだ。もちろん、最近は医事コンピュータに記憶されている医療行為が自動的に打ち出され、単純集計とミスチェックは終わっているので、作業は格段に楽になった。

我々がやる仕事はまず、病名の追加と削除という作業である。病気というのは一つの状態がベタでずっと続くものではなく、様々に変化するわけで、時には完全に矛盾するような病状を呈することもある。当然、対応も逆のことをすることだってある。そのままだと、例えば下痢と便秘が同時にきて、下痢止めと下剤を一度に飲ませていたとする奇妙な請求書になったりする。量しか書かないので、時間的な経過までわからないのだ。

ちょっと前なら105円ルールというのがあって、タダ同然の薬の投与については病名を書く必要がなかったが、投与した薬に関しては、すべてを書くことになったため、適応疾患のつじつま合わせに苦労することが多くなった。重箱の隅つつきすると公正になると思ったバカがどこかにいるわけ。

そのあと、高額医療費の場合に(額については県により差がある。月100万を基準にするところもあれば、70万超ぐらいのところもある)、「病状詳記」という釈明文書を書くという作業がある。なんで高額の治療を行わないといけなかったかを、お役人に納得させる文書を書くわけだ。単なるお品書きだけだといちゃもんを付けられやすいので、ナラティブなストーリーを付加するわけである。長期入院の精神疾患ばっかり見ているとまず書くことはないが、合併症を見る機会の多い私は結構書かされる。

これはなるべく畳み掛けるような調子で、とにかくこれらをやらねばたちどころにして取り返しのつかぬ事態になったのだと書き連ねるのがコツである。もっとも私の場合はテンプレート文書を何種類か用意してあって、しかも前月の文書に書き足す形でやるので、あまり時間はかからない。しかし、言ってみれば相手をどう誤魔化すかという無内容な文書を書きつづけるのはそう楽しいことではなく、文体も必然的に役所式になってくるので、虚しくなるばかりである。

というわけで、少し前からあえて文体をパロディにして楽しもうと、裁判官の判決文のように書くことにした。判決文というのは基本的に述語がダラダラと読点で継がれていく、独自の文体であるのはご存知だろう。

「本患者はかねて慢性精神分裂病にて長期入院していたものであるが、○月○日午後3時ごろ、入院中の自室において突然の意識消失発作を来たし、応急処置にて経過観察していたところ、なお意識改善が得られぬため、頭部CTを施行してみたところ、右中大脳動脈領域に広範な脳梗塞発作の所見が得られ、即座に輸液、脳圧降下剤の投与をはじめたものであるが、高度の意識障害のため吐瀉物誤嚥を併発し、重篤な誤嚥性肺炎となっていたため、酸素吸入と抗生物質の併用をおこない経過を観察していたところ、(どっと中略)、よってリハビリ過程に至り、○月末日段階にて、左半身不全麻痺および構音障害をを残しつつも小康が得られたものである」

無内容なことを息をつかさせずに読ませるという目的にはかなり役立つし、言葉の繰り返しが多くなるので簡単に文章を膨らませる。この文体(と言えるほどのものではないが)を使い出してから一度も返戻がないので、結構効果はあるように思う。同業者のかたは使って見られてはいかがだろう。多少遊びはこめられるとはいえ、やはりバカバカしいのは同じことではあるものの。(2004/03/01)

トップに戻る



どこの会社の製品なのか知らないのだが、最近TVで「生烏龍」なる飲料水のCMをやっている。おちゃらけた新入社員みたいなのが2〜3人、エレベーターの前で、居合わせた社長とその秘書をネタにして騒ぎ、社長に怒鳴られ「生カミナリ怖ぇ〜」と、そう怖がる様子もなくざわめきあうというものだ。

その後場面が変わって、懲りた風でもないその連中が、生烏龍がどうのこうのと言っているところでCMは終わるのだが、あれを見るたびなんとなく考え込んでしまう。あれは最近の企業の従業員モラルを、ある程度反映しているものなのだろうか。

ふつう、ああいう具合にトップをからかって喜んでいるような若造社員がいれば、かなり厳しい処分というか、少なくとも始末書ぐらいは出すハメになるのではないかと思うのだが、違うのだろうか。もしかしたら、連中は経営陣非主流派のルートで入り込み、ああいう風に社内で挑発活動をやる任務でもあって、解雇でも言い渡されたらそれを口実に社内の不安定化を図るつもりなのだろうか、それにしてはコンジョなさそうなヘナチョコ連中だ。

あくまでイカレ若造社員を出すのなら、そのイカレ具合がトップの権威に、どういうレベルでもいいから拮抗もしくは圧倒しているような、それなりの安定した構図がほしいなと私なんかは思ってしまうのだが、そういうセンスは古いのかもな。

いかにも無能そうなおちゃらけ若造たちが、ごく普通の企業の中で、単なるおちゃらけとしてだけ存在しているという違和感が製作者の狙いで、21世紀はそういうセンスこそが若者たちに商品購買意欲を掻き立てるのかもしれない、と思い込もうとしてみたりするが、なんぼなんでもという感じである。

どうでもいいようなCMが気になったのは、実は別の理由からである。とある大手ブログを読んでいたらこんなことが書いてあったのである。リンクは示さないでおく。論争をふっかけているのではないので。

「専門家やプロが個人として専門分野について言及することを、私は望まない。大半の専門家が口を重くしている現在でさえ、注意力を欠いた発言が多過ぎる。個人レベルでの発言なんてのはじつにまったく期待するに値しないので、公式情報の充実を強く強く求めたい。後付けでいいから、組織のお墨付きを得てくれ、ということだ」。

この人の言っているのは、Webデザイン業界のことがメインで、そこで働いている人がド素人であることを包み隠しもせずに自分の個人サイトでおちゃらけたコトを書いているということにいきどおっているらしいのだが、自論の展開のたたき台として、「組織の中の研究者・技術者」一般に関して論じている人の意見を引用しているので、だいたいすべての専門家に対しての意見と思ってよさそうだ。私なんか、一番先に叱られそう。

この人はこうも言う。「どんな業界だって、多くの人は大して物を知っているわけじゃないでしょう。何でこの人がこの仕事をしているのか? みたいな事例は多いでしょう。建前でなく本当にスペシャリスト集団の会社なんて、ないと思った方がいい。けれども、そういった現実を包み隠さず消費者に見せてしまうのは間違いだと思う」。

クライアントからすればプロとしてすがるしかない人が、まったくのパースケというのは確かに困るのだが、だからといってそのプロ幻想は守られなければならないものか?パースケがパースケであることを自己暴露してくれているようなサイトは、クライアントにとってその手の組織企業との契約の際には、実にありがたい資料であると私には思えるんだけどなぁ。

それがこの人の意見では、企業内の恥ずかしい話はすべて隠し、建前の公式的意見だけ言って、企業の利害を守るのが従業員の義務だという。つまり社畜に徹しろよという意見だと私は受け取るのだが、それ以外の読みかたはある?

私が「生烏龍」のCMを見て違和感を感じるにとどまらず、「従業員にとっての正しい作法」を訓ずる若い人もいるのだ。なるほど、あのCMはそうした社畜指向が現在の底流になりつつあることを見越した上で、それを批評するものとして提示されていたのか。自らの時代を見る目の欠除に恥じ入る次第である。(2004/03/02)

トップに戻る



私は自分の臨床スタイルを身につける過程で、実にたくさんの師に恵まれたと思っている。特にリスペクトすべきだと思っている数人の中で、特別の位置を占めるのが、大学で神経内科を教わったT教授である。

人にものを教える立場にある方のスタイルというのは、大体4っほどに分類できるようで、神がかり的カリスマタイプ、雷親父タイプ、近代的合理主義派、素朴人情派というところだと思う。このT教授の場合は、すべてのタイプをあわせ持ち、おまけに常に豹変し続けて回りを混乱させると言う、いわばトリックスター的教官とでもいうべき存在だった。

川端康成と澁澤龍彦にバートランド・ラッセルをつき混ぜたような風貌で、常に不機嫌そうに額にはしわが刻まれていて、実際、いつも不機嫌なのであった。講義は決してわかりやすいとはいいがたく、質問なども気安く出来ない雰囲気があった。何よりも、順番に回ってくるプラクチカントと呼ばれる臨床講義当番が学生たちの恐怖を呼んでいた。

その当番にあたると、学生は臨床講義で供覧される症例の病歴をまとめ、診察をして所見をとり、その疾患一般についてもそこそこの教材になる程度のまとめを作ってレポートしなければならない。学生のやることであるから的外れになるのは致し方なく、他科の講義では教官はそういうつたないレポートを苦笑しながら聞いて、そのあといかに我々が無知であるかをじんわりと説いてくれるのが普通だ。しかし、T教授の場合はそうはいかなかった。

講義の三日前ぐらいにはレポートをもってお伺いを立てに行くのだが、これがまず一度でOKになることはない。前日の夜中まで、迷惑顔の患者さんに頭を下げて、所見とりをさせてもらうこともまれではないのだった。準備万端と思えたら、急に「患者さんの都合で、別の症例にする」などと、直前に変更されてあせってやり直しを迫られることもあったりする。そうして出したレポートは、講義ではほとんど無視され、たたき台にすらされないのであった。

外来実習のときはひどかった。教授が診察室に入ってくるなり、「何をそんなところに突っ立っているんだ!」である。あわててイスを取り出して座ると、「誰が座っていいといった!」、あせって立ち上がろうとしていると、「バタバタしてるんじゃないよ!ホコリがたつ!」と怒鳴られるのである。こんな風に書くと、当時も今も、人のいう通りにはしないことをモットーにしている私が切れてしまわなかったのが不思議ともいえる。

他の学生には目茶苦茶評判の悪いT教授であったが、その理不尽ともいえる無理難題には、なんというか一種の様式美とでもいえるものがあった。是と答えれば杖で打ち、否と答えれば杖で打つ、さていかにせん、というような禅問答のごときユーモアが、そこに感じられないでもなかったのである。外来での一件など、ほとんどクレージー・キャッツのコントを手本にしたとしか思えない。

意識的にやっていたのか、無意識だったのかはしらないが、目先の出来事でパニックにならず、常に本質を見すえよというメッセージが、そこにはあったのだろうなと私はおもう。実際、その後似たような状況におかれたとき、一番役に立ったのがT教授から与えられた無理難題の記憶なのである。

T教授はその後、中央の大学に教授として戻られた。「あいつは所詮、田舎にきたのがいやで当り散らしていただけなんだよ」と当時の同級生たちは言う。確かに不本意さはあったかもしれないが、おかげで特異なその学識に触れられたことは私にとっては幸運だった。彼が戻った大学教室のサイトを調べると、そこでは彼の赴任後、「一時の混乱」があったと記されていた。中央に戻られても、あの無理難題禅問答系教育スタイルを続けておられたのかな、それをちゃんと受け止められない連中がいたのかな、などと想像するのである。

ついでにそのお名前で検索をかけてみると、でてきたのはなんと「2ちゃんねる」の医師板での雑談だった。私の世代の神経内科医には、オールマイティに内科医としてできる医師が多くいて、出身大学もバラバラなのだが、みなT教授の門下生だという、本音の感想が書き込まれていたのである。

なるほど、あのスタイルはやはり本物なのだ。願わくば、そのよき教えの何分の一かでも、私が受け継ぐことが出来ていればいいのだが。(2004/03/04)

トップに戻る


  • 「覚悟」遺伝子


動物の本能行動の変化にウイルスが関与しているらしきことを示唆する論文が出版され、報道でも大きく取り上げられて話題になっている。2月後半に出たばかりの「ウィルス学雑誌」に発表された、東大大学院細胞生理科学研究室久保教授らのグループ(主著者はどうも藤幸知子さんという、大学院生(?)のよう)による、「攻撃的働き蜂の脳内に同定された新しいピコルナ類似ウイルスについて」という論文。(アブストラクトはこちら

ミツバチの働き蜂は、ふつうスズメバチからは逃げるが、巣の入り口にいる門番蜂達は逃げることなく、自分の死をも恐れず敢然とスズメバチを攻撃するのだそうだ。研究グループは、こういう攻撃的蜂の「利他的」行動を説明するのに、その脳内に特別な遺伝子があるのではないかと探していたところ、ピコルナウイルスと呼ばれるRNAウイルスに類似したRNAを発見したというもの。もちろんこれは普通の働き蜂には見つからないそうだ。

グループはこのRNAに「覚悟」RNAと命名し(もっとも英語論文でKakugoと書いてあるので、ホントに「覚悟」かどうかは不明だが)、本能行動の変化にウイルスの媒介があるのではないかと示唆している。簡単に言えば、ウイルスの形で外部から遺伝情報を仕込まれて、固有行動が変化するということだ。この発想は、今西錦司あたりから来ているのかねぇ。

ミツバチのようにその社会構造があって、任務分担がはっきりしている種の行動変異がウイルスによってなされるとすれば、全体としてそれを調整しているのはどういうメカニズムなのかという疑問が次にでてくるし、最低限そのウイルスの動態というか、どうやって一定の割合で感染を維持しているのかという問題があるが、アブストラクトだけではそこまでわからない。

ドロナワでミツバチの行動について調べてみると、働き蜂ははじめのうち巣の中で働く内役蜂なのだが、やがて外役蜂に移行するそうである。このとき、20%が1日か2日の間、門番としての勤務体制につくという。こいつらが攻撃蜂ということになるが、その攻撃性が死ぬまで固定されているのかどうかが、ドロナワ検索ではちょっとわからないのが辛いところ。

元論文には抽出した覚悟RNAを普通の働き蜂の脳内に注入したところ、著明な覚悟RNAの増加が見られたという記述はあるのだが、肝腎の行動パターンに変化があったかどうかということまでは確かめられていないようだ。

常識的に推論すれば、ウイルスという形で攻撃遺伝子を受け継ぐ、栄えある戦士グループがいて、何らかの手段でそれを次の世代に感染させる行動がコードされているのか、あるいは他の生物種をウイルスの保存維持に利用しているということになると思うのだが、そのへんは遺伝子研究だけで解明できることではないのは自明。

結局、こういう先端的な所見というものも、ミツバチ社会を地道に観察して、その集団行動を綿密に調べるという行為が一方になければ、なんだか「と」じみた妄想が刺激されるばかりになってしまう。そんなわけで、私みたいな尖端科学と無関係な人間が、しょぼしょぼとカルテ記載を続けることにも、脳科学の赫々たる成果を別の面から支えるという、それなりの意味があるのだなと一人確認するのであった。 (2004/03/08)

トップに戻る


  • 余は如何にしてダイエット教徒となりしか(1)


私の人生というのは、実に肥満との戦いに明け暮れた人生といってもいい。母親が言うには、私が生まれた戦後数年の頃は、多少の経済的余裕が出来始めたためか、保健所や関係機関は育児について、「とにかく太らせろ」と指導していたという。各地で「赤ちゃんコンテスト」なるものが行われ、それで何を競ったかといえば、ただその肥満度なのであった。そして、私はそこで生まれながらにして、常勝チャンピオンであったのだそうだ。

ほんの少し前まで、国民の多数が飢えて死ぬのでないかという不安があった時代なのである。何とか持ち直してきたとはいえ、いつまた危機が来るとも知れない。食べられる時にはとにかく食べさせろ、脂肪をためこませて危機に備えろ、という国家方針がそのバックにあったらしい。

「団塊の世代」という、最近はまことに評判の悪い世代があって、狭義には「1947年(S22)〜1949年(S24)生まれ」を指すらしく、広義にはその前後3年ほどのプレ、ポストも含めるらしいので、私なども晴れてポスト団塊世代にはいるわけだ。

この連中を生まれ年以外の基準で定義するなら、「食える時に食っておかないと不安になる」世代とまとめることが可能だと私は思っている。「ご飯を残すとお百姓さんに叱られるよ」なんてしつけの言葉は、おそらく昭和30年代には消失していたはずだ。我々は、まさにそういう価値観の中で育ち、出されたものは全部食うことを美徳としている。その割には、卑しくみえるのがいかんけど。

その中でも、ポスト団塊の世代は、実際に栄養状況も改善してきた時代に生まれたこともあり、とにかく脂肪細胞を増殖させられた。これが中年以降の肥満傾向に関して、決定的なハンディになるのである。脂肪細胞というのは、一度身体についたものは決してその数が減ることはない。個々の細胞が蓄えている脂肪の量が変わるだけで、絶対的備蓄能というのは、当然細胞数が多いほうが高い。

そんなわけで子供の頃から、やせ型とはお世辞にもいえなかった私の体重は、30台を過ぎた頃から爆発的に増え始めた。食うことも好きだし、食い物を作ることも好き、珍しい食い物を見つけたり、食い歩くことも好きで、酒も飲めばお菓子も食べ、アンコロ餅とテキーラがあうなんてことを見つけて喜ぶ人間が、適正体重を維持できるはずがないのである。ここで何もせずに放置していたら、今頃は糖尿病にでもなって、かなり不自由な生活を強いられていたであろう。もしかしたら脳梗塞でも起こしていたかもしれない。(下に続く)(2004/03/23)

トップに戻る


30台半ばにして、私はかなり健康状態に不安を持つようになった。階段を上がったり、ちょっと長い距離を歩くだけで息が切れるのである。何より、持っていた服が次々に入らなくなる。デパートに行けば、隅っこのほうにあるキングサイズコーナーに連れて行かれ、えらくダサいものしかないところでの選択を強いられる。

真剣に減量を考えるようになり、はじめたことはもっともオーソドックスな、「運動」であった。まず、昔多少やっていた水泳をはじめる。初回は市民プールで3回ほど往復しただけで、帰り道、車のハンドルを切るのに往生するザマであったが、何べんかやっているうちに、すぐに慣れてしまった。

それでも週に二日ほど2〜3km泳ぐようになっただけで、3ヶ月ほどで5kg近く減量できた。普通なら大成功である。でも、フォームの基本がすでにそれなりに出来ているので、普通に泳いでいるのではそれ以上の負荷にならないのである。減量傾向はすぐに頭打ちになり、さらなる対策を強いられる。

職場の同僚たちがジョギングを始めるというので、それにも参加することにした。これもはじめのうちは泳ぐ距離ほどにも走れないが、すぐに結構走り続けられるようになる。もっとも、きわめてゆっくり、いわゆるLSD(long, Slow, & Distance)という走りである。1時間で10km走ればハイペース、というものだ。プロのマラソン選手の半分以下のスピードだ。

これを加えることで、半年で10kg減量することが出来た。ベルトなんか、ゲソゲソと穴が縮まるのだ。まさに快感である。このあたりで週のうち4日はジョギングし、2日ほどはプールにいくという健康生活になっていた。もう精神病理学や構造主義の辛気臭い勉強なんぞやってられるか、80年代中期は肉体の時代だぞ、という気分である。実際、思考の枠組みさえ変わるような気がしていたのである。

食事のほうは全くいじらず、運動をするようになって、その量はさらに増えた。というより、いつも食い続けでないと持たないのである。スナック菓子などをいつもボリボリ食べながら日々をすごしているのに、体重は減ったまま何とか維持できていた。

でも、こういうトレーニングを続けるには、それなりの目標が必要である。健康のため、やせるためというのでは続けられないのだ。手近な市民マラソンに次々にでることで、動機付けをしていたのだが、病膏肓にいたるというか、次第に嗜癖の段階に達してきて、さらに極端に走ることになるのである。それが与えてくれた甘き至福の生活はいまも夢に見るほどなのだが、残念ながらそう長くは続かなかった。(下に続く))(2004/03/24)

トップに戻る



そんなわけで健全スポーツオヤジと化していた私であるが、もともと運動能力が乏しいため、タイムを競うというレベルには全く達しない。そこで種目を増やして変化を楽しもうと、ロードレーサーを買い込んで、自転車競技まではじめる。

ただ、日本のアマチュア自転車ロードレース界は少々オタク系の雰囲気が強く、レーステクニックを素人同士が広く共有して底辺を広げていこうという姿勢があまりない。市民レースは古参のコア連中が、レースの作法も知らない素人を邪魔にするばかりで、あまり楽しくないのである。ロードレースの難しいテクニックを捨象した自転車パートを持つ、トライアスロンのほうに素人が押し寄せたのも当然である。

私も自分で可能な種目だけで成り立つトライアスロンにのめりこみ、今までの健康目的という運動から、レース出場のための運動という風に、完全に目的と手段がひっくり返ることになる。トライアスロンでは、そこそこのところで完走を目的にする程度なら、スピードよりもとにかく持久力が大事なので、インターバル練習なんか絶対やらない私の練習法でも十分楽しく参加できる。

といいつつも、いささか常軌を逸した距離(私は、水泳3.8km、自転車180km、そしてフルマラソンというロングタイプだけを目的にしていた)をこなさねばならない競技なので、並みの練習をしていたのでは完走どころか、生還すらも難しい。スポーツクラブで普段練習する時でも、負荷をかなりあげたエアロバイクを一時間こいで、その後トレッドミルで10km走り、それから2kmは泳ぐという、ショートレース程度の無茶な練習を週4回以上やっていた。休みの日には、雨でもなければ200kmほどロード練習をする。

このおかげで、ふだんの時間管理はとても上手になった。というより、レースに関係しないことは、ほとんど通り一遍ですますだけという生活だった。このころはトレーニングだけで一日2000カロリー近い消費をしてしまうので、気を付けていないと体重が減ってしまう。ランニングなら有利だが、水泳では浮力が少なくなってしまうし、自転車でも多少体重があるほうが、少なくとも下りは有利で安全性にも役立つ。そのために、炭水化物を中心にいつも食い放題という食生活を続けたわけだが、本来の好みともあって実に満足だった。

このころ、日本国内だけでなく、海外のレースをいれたら全部で30レース近くは出場しまくり、いつも後半3分の2あたりの順位というところでフィニッシュできていたが、その成績よりも何よりも、レースを軸にした生活は実に楽しいものだった。今までの人生を通じて、あの頃ほど充実していたことはなかったといえる。

ところが人間は歳をとるもので、そんな無茶な生活もいつまでもやっていられなくなる。疲れがなかなか取れなくなり、トレーニングをすればするだけ調子が落ちるようになってくる。トレーニングの質の問題かと、筋トレを取り入れたりするが、やることすべて裏目に出て来ると言う感じである。練習量も減らさざるをえなくなり、その一方で食生活は相変わらずの食い放題メニューなので、体重もじわじわ増え始め、ますます疲れやすさがひどくなるという悪循環である。(下に続く)(2004/03/25)

トップに戻る



さて、だらだらと面白くもないスポーツ狂いの話を書いてきて、結局帰着するところは「運命というのは変えられないらしい」というもの。自分がやりたいことだけをやって、それが健康にも役立つなんてこともないようだ。体重を減らそうとヒーヒーいいながら泳いだり走ったりしていた段階から、それが快楽になってしまったところで健康というものとは無関係になってしまったわけ。

少なくとも、約20年間のスポーツ三昧は、私に時間管理を常に意識する生活スタイル(といえば聞こえはいいが、要はいやなことは極力やらずに済ますということ)と、スポーツ医学や栄養学の知識をたっぷり与えてくれた。他人の例ではなく、自分の問題にどう対処するのかせまられると、学習効率というのは飛躍的に高くなるのである。もちろん他人にも適用可能なので、思いがけず商売の助けになったのは言うまでもない。

しかし激しい運動をしていた頃、食事ということに関しては、私のやってきたことは結局食べたいように食べるということだけであった。そんなわけで、運動量を減らさざるを得なくなってから、体重が元の黙阿弥になるのもまあ当然であろう。これではいかんと、オーソドックスなモノからトンデモ系にいたるまで、いろんな食事プランに挑戦したが効果が出るまで続けられたものはなかった。ちょっと前までは、やりたいことだけをやって減量できていたのに、なんでそんなクソ面白くもないことをしないといけないのか、と思ってしまうのである。

そんなわけで、自分の商売の関係でも、人に減量をすすめる言葉にはあまり力が入らない。バランスよく食事をとって、適度な運動を、ってなことで減量できるわけがないのは知り抜いているのである。といって、やせようと思ってプールに通っているんです、というオバサンに、アップ500m、バタ足500mのあと、1分30秒もちで100mインターバルを20本、というような「処方」するわけにもいかない。

身体のつくりを運動で変えようとおもえば、その程度の量をやらないと無理なのである。ジョギングならまだ誰にでも出来るが、それでも一日10kmは走らないとはっきりした効果はでないだろうし、それが出来るようなら、すでに健康志向とは別の世界に入り込んでいるということだ。それが出来る人はやればいいと思うし、それはかなり素晴らしい体験をもたらしてくれることを保障してもいいが、やはり「健康のため」とは少し違うことを知っておくべきであろう。

書き始めた時は、ダイエットの理論的考察を意図していたのだけれど(題名、全然中身とちゃうやないかい)、いつの間にやらスポーツオヤジの挫折物語になってしまった。このバックグラウンドを踏まえた上で、なぜ一般的にダイエットは成功しないのかという話をそのうち展開するということで、尻すぼみに文章を終えさせていただく。

なお、現在は「余丁町散人」氏の影響で、いわゆる「アトキンスダイエット」に挑戦中なので、これを掉尾を飾る成功例として報告できればとおもう。トンデモ系ダイエット(失礼)挫折例が一つ増えるだけかも知れないけれど。(2004/03/26)

トップに戻る



上でダラダラ書いたように、私はいわゆる正統的ダイエットというには少々逸脱した側面のある、バランスのいい普通の食事と相当過激な運動という組み合わせで、かなりの減量を成功させてきた。しかし、あちこちに故障ができ、過激な運動ができなくなると、少しバランスを考えた程度の食事では、ジリジリというよりはドンドン体重が増えるのである。

かなり極端な低脂肪食とか、ほとんど居直りに近いブックスダイエットなども手がけてみたが、まるっきり成功しない。大体、人間というのは我慢に我慢を重ねるようなことには向いていないし、楽にできるようなことなら目的が実現できるはずもない。ブックスダイエットなんぞ、もっともらしいことすらその理屈にはなく、そもそも相撲取りと同じような食パターンでやせようなんて、はじめから無理に決まっているわけだ。

というわけで、最後の砦がアトキンスダイエットである。健康ということさえ無視すれば、これでやせられるのは自明なのである。というのは、我々はこれと同じ原理で、短期間にげそげそ痩せていく人をいつも見ているからである。それは何かといえば、コントロール不良の糖尿病だ。

糖尿病では、、I型II型の違いはあれ、組織に糖を取り入れるインシュリンが働かなくなるので、血中に糖がいくらあふれていようと、その糖はほとんど利用できず、組織は脂肪(部分的には蛋白質)の分解のみによってエネルギーを得なければならない。アトキンスダイエットで炭水化物を極端に制限した状態と同じになるわけだ。

精神科疾患を持つ患者さんには、なぜか糖尿病を合併している人が多く、我々も結構この疾患の管理に頭を悩まされる。普通の内科医に治療を依頼しても、治療合理的に協力するのが患者というものだと信じきっているので、自己破壊的なことを平気でするような患者の面倒までは見られない場合が多い。大体、スラムみたいなところでカツカツで暮らしているような人に対して、のんきな「食事指導」をしてことたれりとするような想像力欠如を見ていると、ああ、こいつに頼むだけ無駄だったと思い知る。

私たちが見ているような精神疾患合併例では、一切食事療法を守れない人もいて、130kgもあった体重が半年の間に半分になったような人も見たことがある。アウトになればそのときと、ほとんどヤケクソで見ていたら、その減量のおかげでインシュリン感受性を取り戻すのか、ほとんど耐糖能が正常化してしまう場合もある。

そういう場合はかなりの負担を体に強いているので、やせたというのはむしろ症状といっていいのだが、中にはそれでけろりと問題が消失するような例があるのが面白い(と言っては何だが)。長期的にはまたいろいろと、ややこしい事がは出てくるものの。純粋に体重を減らすという目的なら、この減量メカニズムを使わない手はなく、事実それが効果があるとして、否定的評価にもかかわらず利用されているわけだ。

私はその否定的評価も認めつつ、これなら体重は減るに違いないとも思っている。では、低炭水化物高脂肪高たんぱく食でなぜ体重がへるのか、その理論的な側面のおさらいを次回に述べてみたい。(2003/03/29)

トップに戻る


  • アトキンスダイエット(2)


前回、アトキンスダイエットというのは、いわば糖尿病のときのエネルギー代謝と同じような状態を作り出すものだと述べた。もちろん糖尿病では血中にブドウ糖がみちあふれている状態なのに、インシュリンが働かないために組織が糖を利用できない状態であり、アトキンスダイエットでは糖に分解される炭水化物の摂取量をへらして、低血糖状態を作り出している点が違う。

しかし、身体の側はエネルギーを確保しないといけないので、両者とも、脂肪やたんぱく質を分解してエネルギーに変えているという状態は同じだ。いわゆる絶食や超低カロリー食では、たんぱく質分解も結構進むので、筋肉組織などもやせ細り、結果として代謝量の減少をまねき、リバウンドの原因になる。アトキンス系では蛋白と脂肪はたっぷり取るため、この点は回避される(らしい)。

高校の生物で習うので覚えておられる方もおられるだろうが、炭水化物とたんぱく質のエネルギーは1gあたり4Kcalで、脂肪のそれはほぼ10Kcalである。脂肪はエネルギーに富む物質で、飢えに苦しむ危険を幾多となく迎えた動物種は、大多数がこの脂肪をいざという時のために蓄えるように設計されていて、人間は特にその点が念入りなのである。

糖の利用ができないとき、主要なエネルギー元は脂肪に切り替わる。そのメカニズムはいろいろあるらしい。関与する局所ホルモンがいっぱいあって、中には抗肥満薬として使われる可能性がある物質もあるようだ。アミノ酸も1部は糖に変換されてエネルギーに動員されるが、そう効率がいいものではない。脂肪は糖に変換される部分と、遊離脂肪酸として直接TCAサイクルに入ってエネルギーになる部分があり、後者のほうが割合は大きい。

ただ、そのためには糖由来のオキザロ酢酸という物質が必要で、この量には限界があって、余った遊離脂肪酸経由の物質(アセチルCoAという名前、どこかで聞かれた事があるだろう)は縮合してケトン体になる。このケトン体はそれ自身エネルギー源になり、とりわけ脂肪酸が超えられない脳血流関門も越えて、脳細胞のエネルギー源にもなる。また、ケトン体は満腹中枢を刺激して、空腹感を抑制する作用もある。

ただ、これらは酸性物質なので、体の酸塩基平衡をみだす事がある。腎機能低下があるような場合、ケトアシドーシスという命にかかわる病的状態を呈する可能性もないではない。このダイエットの注意として、水分摂取を増やして酸塩基平衡を正常に保つようなどといわれるが、このへんはちょっと注意が必要なところであろう。

いくら炭水化物を取らないからといって、脂肪とタンパクとり放題というのでは、あまった部分はまた脂肪として溜め込まれるのではないか、と思ってしまうのだが、脂肪細胞への脂肪酸取り込みはインシュリンが関与しており、炭水化物を抑えるこのダイエットでは、インシュリン分泌量が少ないため、取り込みも少なくなる。また、脂肪酸から脂肪を合成するときには、糖由来の物質が必要で、やはり脂肪合成は抑制される方向に向かう。

てなわけで、このダイエット法はこと減量ということに関して、表面的な合理性を貫壁に保っているのである。自分で納得するためにいろいろ資料を集めてみたが、普通の臨床レベルの生化学常識からは、ツッコミするのは難しい。気になるのは、使われなかった脂肪酸はどこに行くのだろうと調べても、はっきりしたことがわからなかった点。腸から排泄されるなんて、怪しいダイエットサイトには書いてあるのだが、そんなことあるかねぇ。どんな形であれ、食ったものはエネルギーとして使い残せば身体にたまるはずなので、その辺が今ひとつ説得力不足である。

このダイエット法に対する正統的な栄養学や医学の批判というのも、結局はそこに集中している。レビューもいくつかあるが、短期的には成功するが、長い時間をとればあまり成功していないという言うものが多い。まあ、たしかに私なんか毎日フライドチキンとベーコンエッグばっかり食ってるので、鮭茶漬けとタラコおにぎりの夢見るようになってますものなぁ。たいがい、こっそり炭水化物食うようになりますぜ。

でも、たった10日ほど過ぎただけなのに、なんとなく減量できてきたような気もしないではないので、せめて1月ぐらいは真面目にがんばってみますか。結果は追って報告ということで。(2004/03/30)

さて、一ヶ月間のあいだこのアトキンス・ダイエットを実践して来たわけだが、その結果はどうかといえば、約4kg程度の減量に成功というところである。一応大成功の部類には入るとおもうが、残念なことにさらに今後も続けようという気力は尽きてしまった。私は心から炭水化物を愛しておるのですなぁ。(2003/04/30追加)

トップに戻る


  • 筋弛緩剤事件判決


いささか遅ればせながら、先ごろ一審判決が下った「仙台筋弛緩剤事件」について触れたい。これについては、この事件の実情をあまり知らないまま、欧米でよく起こるこの手の事件とほとんど同一視して、いささか決め付け気味にヒンシュク文章を書いていたこともあり、何らかの意見を追加したいと思う。

あんまり真面目にニュースを追っていないのに、こんな事いうのも何なのだが、検察側はこの事件を単なる「サイコ野郎による愉快犯的行為」として立件したようである。訴状にある「危機管理のゲームだった」という言葉が端的にそれをあらわしている。待遇や副院長の医療姿勢への不満というのもあげられていたようだが、それが関係ない人を殺してもよいとする理由につながるとはいえず、こいつは訳わからんことする奴なのだ、で済ましているように思えるのだ。

それに対して弁護側は、「事件そのものがなかった」と主張した。突発的急変は全部自然過程や、それにうまく対応できなかった医療ミスが原因だというもの。この主張は、必然性なき殺人という検察の立てた構図に対しては、それなりのインパクトをもつものだと思うが、ほとんど検討されなかったようだ。自白の任意性とか、薬物が検出されたとする鑑定の怪しさなどについては、裁判官というものは警察−検察の言うことを丸呑みしてしまい、あまり自分で考えることなどしないようだ。

正直言って、報道される被告人の態度にも不可思議なところが多い。かなり過酷な取調べがあったようだが、だからといって「やっていない」ことを「やった」と自白する必要はないのではないか。小林多喜二の時代ではあるまいし、違法な取調べに対抗する手段はいくらでもある。ましてかかっている嫌疑は殺人である。警官がどんな甘言を弄しようと、高圧的に出てこようと、ないことを認めてしまえば身の破滅なのである。

これは全くの想像なのだが、被告が患者たちを恣意的に殺傷する観念を、おぼろげながらにも持っていたのは事実なのではないかと思う。そう根拠は無いのだけれど、取調べ状況で記憶の再現なり捏造がいったんは成り立ったという経過が、そう判断する理由である。もちろん、実際にそれを実行に移すために超えなければいけない溝はかなり深いわけで、そこにはやはり説得力のある説明がいると思うが、検察の立証や判決の中にはそれは無い。

生殺与奪権の夢想で代償されている屈折した有能感覚というのは、実は結構この業界で目にするものなのである。もちろん、普通は「オレがいるからここの救急患者は死なずにすむ」というような方向で示されるもので、その気になればみんな原因不明で死なせることだって出来るなんて意識する人はいないのだが、基本的にはそれらは同じようなものだ。

医療現場の片隅にいる有能な職人という自己評価が、人の生死を支配できる万能感につながることはありえることで、時にはそれを本当に実行に移す人が出てくるのもまた事実(ここなど参照のこと)。ただ、実行に移すには、それなりの必然性をもったストーリー、もしくは別要因があるはずで、こいつがやったに違いないという決め付けを前提にして、状況証拠を積み重ねればよしとするのは、少なくとも私が考えるような人間理解の態度ではない。裁判とはそういうものなのかもしれないが。(2004/04/02)

トップに戻る


  • 大発見……?


最近、もしかしたら医学上のパラダイムシフトにつながる大発見の糸口をつかんだのではないか、という気になりかけている。というのは、私の職場には老人痴呆病棟があるのだが、そこでちょっと前から、「動物療法」の名目で猫を飼うようにしているのである。もっとも「動物療法」というのはほとんど理由付けで、病院にやたらに捨てられる猫のうち、多少愛想がいいのだけでも養ってやろうという目論見である。

愛想がいいように見えても、野良猫暮らしが身に付いた猫はなかなか病棟に居つこうとせず、一代目、二代目の猫は無断離院を繰り返した挙句、適当な相方を見つけて逐電してしまった。不妊手術やら予防注射やらに結構物入りだったが、そういう理屈は通じないのが猫の猫たるところである。

三代目はほんの仔猫のときに捨てられていたので、病棟の中だけを生活圏にするのが刷り込まれたらしく、ちゃんと職員の休息所の片隅に定めたトイレの場所も守り、看護詰め所のカウンターで看板猫の機能を立派に果たすようになった。職員にも可愛がられ、福利厚生にはまことに役立っているようである。回診のときなど、さっそうと先頭を歩いていくので、「財前教授」と呼ぼうと提案したが、すでに「タマ」というベタな名前がついていたので却下されてしまった。

ところがである。患者さんたちはほとんどこの猫に興味をはらわないし、露骨に嫌う人が多いのである。痴呆にもその病像に色々あるが、多幸性が目立つような人から、攻撃性が前面に出ている人まで、猫が近づくと嫌がる人がほとんどなのである。もちろん中には可愛がってくれる人もいるが、かなり例外的で、その比率は1:9というところである。

残念ながら猫好きの人の統計的比率はしらないが(ネットで調べたがわからなかった。犬好きよりは少数派らしいが)、10人に1人しか猫好きがいないということはないだろう。現に、面会に来た家族たちは、カウンターで寝そべっている猫をみても嫌悪感を示すようなことはなく、「ペットまでいるんですね」と喜んでくれるのである。

これは面白いと思って、外来で経過を見ている痴呆疾患の人たちにもこの点を確かめるようにしているのだが、やはりほとんど猫好きはいないのである。ある老婦人の場合など、旦那が猫好きで家をほとんど猫屋敷にしているが、自分は猫が近づいてくるだけで身震いするほどで、離れに避難して家庭内別居を何年にもわたってやっていたという例もあった。

犬の場合はどうなのだというのも気になるが、こちらはあまりハッキリしない。家では飼っているという場合は結構あるが、それでもあまり中心になって世話をしていたという場合は少ないような印象はある。

もっと多数の例を取り出し、無作為抽出したコントロールと比較しないと確かなことはいえないが、少なくとも検証すべき、「痴呆性疾患の人には猫嫌いが多い」という仮説をたてるには充分な印象は得られるようにおもう。もちろんこれは仮説であって、それが統計的に成り立つかどうかは別の話。ましてやその仮説を裏返して、「猫が好きな人はボケない」とまで主張しているのではないので御注意を。(2004/04/21)

トップに戻る


  • ペットと痴呆性疾患


一昨日、かなり部分的な経験に基く「印象」から、無責任な想像を書き散らしたら、予想外の反応があって少々あわてている。大概の「臨床的知見」と称するものは狭い経験をもっともらしく言い立てているものがほとんどなので、オレはこう思うぞということでかまいはしないのだけれど、文献的な裏づけが形だけでも出来れば説得力が増すかと、仕事もさぼって文献検索の一日である。

結論として、特定のペットへの態度と何らかの疾患への結びつきを示唆するような学説を見つけることは出来なかった。1998年にシドニー大学で行われた「動物、公衆衛生、公共政策シンポジウム」での基調報告が、動物と健康のかかわりという研究に対する総合的レビューとしてよくまとまっていたので、以下の概説はそれを利用させてもらっている。

それによると、高齢者の生活全般に関するクオリティ・オブ・ライフ(QOL)の問題として、ペットの有用性を調べるような研究はほどほどに存在する。その多くの主張は、ペットと一緒に暮らしている高齢者は、社会とのつながりが緊密で、他の家族メンバーとの関係もよく、そもそも、社会的階層もより高いとする。まあ、当たり前といえば当たり前。

身体疾患に関しても、同様の肯定的結果を掲げるものが多い。心疾患の際、その救命率を調べると、ペットオーナーのほうが高いのだそうだ。精神疾患に関しては、入院患者や施設入所者にたいするペット療法の効果という形での検証が中心になる。これは普通の高齢者施設でのペットの導入がかなり有用であるのと比べ、今ひとつ明確な効果は示せないものが多いようだ。それらの施設で働く人に対しては、はっきりとしたストレス対策となるらしいのだけれど。

繰り返すようだが、これらの研究では「ペット」でひとくくりされていて、その種類についてはあまり区別されていない。どうも犬の場合が多いらしいが。いわゆるコントロール群を作ることを意図したらしい研究で、一般の高齢者施設に観賞魚の水槽を導入した場合と、そのビデオ映像を流す場合との比較というのがあったが、傑作なことに、ビデオ映像のほうが圧倒的な好影響を入所者に残したそうである。観賞魚ってのは、ペットというより、映像として機能しているんですな。

というわけで、「痴呆性疾患の人には猫嫌いが多い」という、私の大胆な決め付けを文献的に支持するものは得られなかった。もちろん、高齢者一般への健康に対するペットの有用性が示される一方で、痴呆性疾患への効果がイマイチはっきりしないということから勘ぐれば、かなり牽強付会とはいえ、ある程度は私の印象も正しい部分があるのかな、とは思える。

あとは個別例について地道にデータを集めるのと、何らかの統計的調査を行う機会をうかがうということだろう。それにしても、うちの病棟の介護猫は最近色気づいてしまって、職務を放棄して外に飛び出してはメス猫追いかけるばかりである。ちゃんと去勢手術受けさせたのにな。患者さんが関心持たないというより、あいつが患者さんに関心持ってないだけかも知れん。(2004/04/23)

トップに戻る


  • ヘアーサロン脳卒中の恐怖??


ときどき、ネタパクりに利用させていただいているX51.orgの4月25日の記事に、BBCの記事を引用する形で、「美容室脳卒中症候群」というものについて触れられていた。なんでも、美容室でシャンプーされるとき、首を後ろにそらせるため、「頸動脈が無理に延ばされ、最悪の場合、それらは裂けてしま」い、結果として脳卒中をおこすというのである。

X51.orgの記事はかなり意訳されているが、この部分に対応するBBCの記述は、"If your neck is stretched and it kinks for a long time - as happens during hairwashing - you stretch the arteries and if you are unlucky you can tear them." であろうとおもわれ、確かに「動脈が裂ける」という危険を指摘しているように読める。

でも、動脈がまともに裂ければ脳卒中だの何のいう前に、かなりヤバい事態だけどねぇ。おそらく、動脈硬化が進行した人の場合、内頚動脈の辺りに血管の狭窄が来ていることがよくあるので、首の位置によっては完全閉塞したり、肥厚した血管壁の一部がはがれて、脳血管を詰まらせてしまうような危険性を指摘しているのだろうが、それを一般的なことであるかのように書くのは、無用の不安をひきおこすだけのように思われる。

ちょっとした首の伸展ぐらいで循環障害を起こしたり、塞栓を起こしたりするほど硬化が進んでいる血管なら、別に美容室に行かなくても発作は起こりうるだろう。天気はどうかなと、空を見上げただけでもその可能性はある。確かに日常生活で首の後方過伸展を長時間続けるようなことは、美容室でのシャンプーぐらいしか思いつかないが、実際そんなにその状況ばかりで、やたらに発作を起こすものだろうか。

BBCの記事には97年に、ランセットではじめて「美容室脳卒中」が報告されているとあったが、残念なことに抜粋もない小ネタ論文で、同じような症例報告も数例あるものの、やはり内容までは確認できない。向こうの美容院業界は、この「症候群」についてかなり警戒しているようすで、発作を防ぐため、シンクに仰向けに首を突っ込まなくても髪の毛が洗えるようなケープまで売り出されている。

でも、何度もいうようだが、シャンプーで首をそらすぐらいのことで脳卒中発作を起こすリスクが高いような人なら、すでに医学的管理の対象なのであって、姑息なことしてもしかたないとおもいますがなぁ。動脈硬化があふれる毛唐の場合は、こうでもしないといけないのかもしれないが。

そのうち日本でも、美容室でしつこく動脈硬化の有無を調べるような問診をされるようになるかもしれない。シャンプーの前に、CTや頚部の超音波診断うけないといけないといわれたりして。うーん、これは例外的症例をネタにして、美容院業界を脅して医療需要を作り出そうとする、医療業界の陰謀ではないかという気がしてきたな。(2004/04/27)

トップに戻る


  • めまい


朝目覚めて起きだそうとしたら、強い回転性めまいを感じてひっくり返りそうになる。フトンのうえで半座りになったとき、首をぐるりと回したのが引き金になった。数年ぐらい前から、時々こういうめまいが出て、いつの間にか治ってしまうので、そう気にもせずほっぽっているのだが、ひっくり返りそうになる程ではなかった。

めまいの訴えというのは、プライマリィケアの場面でしばしばお目にかかるものだ。症状が激しいときはまるきり身動きもできなくなるし、パニック発作と同じような不安喚起性も強いため、夜中に救急車で受診する例も数多い。ごく稀ではあるもの、脳血管発作やら脳腫瘍というような命にかかわる疾患であることもあって、CTやらMRIやらを大騒ぎでとったりするが、めまいだけを訴える場合、滅多にそういうもので異常が見つかるような重症例に出食わすことはない。

めまいを起こす病気には、有名なメニエール病というのがあるが、定型的な耳鳴や難聴をともなう例はそうあるわけではない。仮にそう診断を受けたとしても、その治療は結局対症療法に終始するしかなく(私の知らない先端医療もあるかもしれないが)、さまざまな治療的工夫がなされている割には、患者側の顧客満足度は低い場合が多い。

大概の場合、患者さんがめまい発作で転がり込んでくると、メイロンという7%重曹水を点滴し(不思議なことに、これが診断などと関係なく、その場限りながらよく効くのである)、2〜3種類ある抗めまい剤を処方し、「専門医に相談してくださいね」といって紹介書つきでお帰りいただくという対応になる。しばらくしてしてまた発作をおこしてやってくるので、専門医はどういっていたのかとたずねると、同じ薬を出されただけだったので通うのをやめた、というような返事だったりする。

もちろん、以前から中耳や前庭機能にハッキリとした異常がある場合などは、専門医に任せるしかないのだが、そんな場合は患者さんのほうがすでにエキスパートになっているから、われわれのようなプライマリィケア側が対症療法漬けにしてしまい、正統治療を受ける機会を奪うようなことはまず起こらない(と思う)。

私の場合、プライマリィケアの場面でめまいに接するだけでなく、結局定型的な症状や所見を示さないため、通り一遍な対応ばかりされて患者側がブチ切れてしまったり、身体科医のほうが匙を投げたような例をよく診させられる。身体に悪いところがないのだから、アタマのほうの問題だろう、というのである。これは心身相関ということに対する完全な勘違いであるのだが、そこそこ仕事しているフリしておかないといけない立場では文句もいえず、おとなしく診させていただく。

というのは、定型的なメニエールとか、エプレイ法というかなり効果のある治療手技が一般化してきた良性頭位性めまいのような、ちゃんと身体的な理屈がつけられるものではないタイプのめまい症状は、いくつかの点をチェックして臨めば、かなり簡単に治療(というか、症状のコントロールだけど)できるのである。

いくつかの点というのは、「これは身体だけの問題ではないようだから、精神科なり心療内科で診てもらいましょう」という身体科医の説得を受け入れる、というのがひとつ。困り抜いて藁をもつかむ気分になっているか、自分でも身体的レベル以外の困難があることを自覚している場合である。

その次は、実際にめまいがきっかけであれ、そうでないにせよ、不眠とか食思不振が強く、なにより、めまい発作そのものというより、それが起こるのではないかという不安がメインの問題であることだ。いわゆるうつ症状の合併があればどんぴしゃであるが、必ずしもその必要はない。

大概の場合は身体科医がすでに抗不安剤を処方しているが、それだけではまず改善しない。気の利いた人の場合、SSRIを処方していることもあるが、これもまず効かない。むしろ、飲みはじめに出ることの多い消化器症状のため、余計に訴えが複雑化していたりする。

もったいぶる事も無いのでばらしてしまうと、身体的所見を欠きながら遷延するめまい感に対して著効するのは少量のスルピリド(ドグマチール?、アビリット?)である。50mgから150mgまでの使用量で充分で、少量の抗不安剤、もしくは抗ヒスタミン剤との併用が効果を高めることが多い。一般的な抗めまい剤との併用でも問題ない。

もともと吐き気止めの効果が強い薬で、なんらかの中枢性の効めまい作用があるのだろう。スルピリドはほかにも、車酔いといった動揺病にも著効を示すが、あまりそういう目的でも積極的に使う人を見たことがないのが不思議である。トラベルミンだのなんだのより、こちらのほうが圧倒的に効くんだけどな。

スルピリドという薬は、私が研修医になった年に日本で認可されたので、なんとなく親近感がある。胃潰瘍、胃炎からうつ病、分裂病という適応疾患を持つ不思議な薬で、私は自分の診ている患者さんの6割ぐらいにこれを処方しているような気がする。この薬には猛烈な食欲促進作用があり、体重が増えるほかにも、乳汁分泌とか生理がとまるとか、結構副作用があるのが欠点であるが、そう深刻なものは少ないので、実に使いやすい。

私が使っているように、精神科薬物治療のメイン薬剤となってもいいと思うのだが、そういうのは少数派なのが不思議である。まるっきり鎮静作用がないのと、単味での使用では今ひとつ標的症状がはっきりしないのがいかんのだろうな。でも、寡症状の慢性分裂病で、微妙な脅かし体験だけが続いているような人なんか、絶好の投薬対象なんですけどね。

それは兎も角、精神症状というほどのこともない遷延性めまい感に対するこの薬の効果はかなりのもので、そもそも海外では「抗めまい剤」として使われているのに、国内では適応疾患にはないし(しかたなく「うつ状態」の診断名を追加する)、そもそもそういう報告をみないのが面妖である。

なぜか添付文書の副作用欄に「めまいがでることがある」なんて書いてあるので、めまい患者にこれを処方しているのをみた他科のDr.が、親切にも「これは飲むな」なんて助言してくれることもある。このスルピリドに対する無理解は、精神科、身体科を問わず、日本医療業界七不思議のひとつであろう。あとの六つは今ちょっと思い出さないが……、あれ、このフレーズどこかでつかったような。

ところで私自身のめまいはいわゆる良性頭位性めまいの範疇に入るようで、朝からヨガの行者のごとく、エプレイ法のポーズを何度も繰り返したら治ってしまった。スルピリド服用で、例のアトキンス・ダイエットのささやかな成果を、台無しにすることもなさそうで一安心。 (2004/05/09)

めまいに関するまとまった解説というのは案外少ないもので、ここ(PDF)なんかは比較的まし。専門家向けだが、一般的にもわかりやすい(かも)。エプレイ(Epley)法に関してはこちらを参照のこと。覚えておいて損はありません。

トップに戻る


  • MRIで双極性障害治療?


理化学研究所脳科学総合研究センター研究員の最上氏の日記より。

最近では、ちょっと大きい病院ならおいてあるMRI装置によって行うことの出来る、「エコープラーナー磁気共鳴分光画像法(EP-MRSI) 検査」をうけた双極性障害(躁うつ病といったほうが通りがいいかも)の人たちに、かなりの割合で気分改善が見られたという論文の紹介である。

抜粋を読む限りでは、30例中23例の双極性障害の人に気分改善効果があったとしている。ただし健康な人との比較とか、ランダム化を意識した双極性障害を持っていて偽のEP-MRSI検査を受けた人との比較はとりつつも、双極性障害というのだから躁状態かうつ状態のどちらかであったと思われるのに、その点への言及がないのがちょっと残念。派手な躁状態のときに、MRIみたいなうっとおしい検査を素直に受けてくれるは思えないので、うつ状態だと考えていいんでしょうかね。

いわゆるECT(電気けいれん療法)にかわるものとして注目されている、 rTMS (repetitive transcranial magnetic stimulation) (連続経頭蓋磁気刺激法)とほとんど同じ効果がそれで得られるというのだが、大体、「エコープラーナー磁気共鳴分光画像法(EP-MRSI) 検査」というのがようわからん。何かの原子動態を画像化する方法なんでしょうかね。私なんかは全体の形態をみるT1強調像と、細かな壊死巣を見るためのFLAIRぐらいしかオーダーしないので、そんな検査の名前すらしらなんだし、当然それで回復傾向が得られたというようなラッキーにめぐり合った事もない。

ただですね。長年重症うつの極にあったような人がMRI検査を希望するというような事があれば、それ自体回復サインのひとつだとも思えるので、ホントにMRIによって改善が得られたのかというのには、かなりの懐疑を覚えてしまうのは確か。MRIというのはいうならば強力な磁場で原子の位置を一定の方向にそろえ、それがウニャウニャと元に戻っていくときに出す電磁波の解析から組織内の位置情報を得る装置なのだから、ついでに脳内の化学物質のリセットもやってくれるのではないかと期待させないでもないが。でも、原子と脳内物質分子では全然オーダーが違うけど。

遷延しがちの重症うつ病をみていると、教科書なんかには書いてない奇妙な現象に出会って当惑することがよくある。たとえば、回復期にてんかん発作を起こすようなことは結構見られるが、普通は「抗うつ剤の副作用」で済まされてしまう。ずっと同じ薬を使っていても起こることがあるので、副作用だけで済ませるとはとても思えない。

私はこの現象について、機能を回復しつつあるニューロン群が、「せーの」とばかりに同期した神経インパルス発射してしまい、それが全般化するのではないかという「と」系の仮説を打ち立てている。そうして患者さんにも協力してもらい、不用意な薬物変更や安易な抗てんかん薬加薬を避けて様子を見るようにしているのだが、同じ発作がまた起こることは滅多になく、明らかにそういう事態を経た場合の回復率は高いように感じている。

私の怪しげな経験は別にしても、まだまだ一般的な臨床の場面(ちょっと高度先端系ではあるが)でも新しい発見をする可能性はあるのだと思わせるという点で、件の論文はなかなかに面白い報告であろう。これがより豊かな治療指針につながることを望みたいものだ。(2004/05/10)

トップに戻る


  • 頻回


この前、「しばしば」という意味で「頻回」という言葉を日記の記述に不用意に使ってしまったことがあった。これは本来特殊医療業界用語なので、日常的日本語とはいえぬらしく、普通の文脈では使わないほうが賢明だといわれていたのだった。それを知ったのはちょっと前に来た医療関係の宣伝用MLで、業界系ウンチク紹介という囲み記事だったのだけれど、30年以上普通の漢語だと思って使っていた私には、ちょっと目からウロコであった。

実際、「頻回」の意味を普通の辞書、例えば手近にある「広辞苑」「岩波国語辞典」で引いても載っていない。あちこちのオンライン辞書を引いてみると、三省堂のディリー国語辞典を使っているオンライン辞書ではダメ。ただ、gooのオンライン国語辞書は同じ三省堂の「大辞林」だそうで、そこでは意味が引ける(インフォシークでも同じ辞書を使っている)。しかし、その文例はやはり医療業界用例のようである。

Googleで「頻回」を検索すると、889件のページが表示されるが、数例の中国語ページを別にすれば、すべてが医療関係のページであった。一つだけ、「信号待ちでの消灯はやめよう!」というところが出てきて、「頻回な消灯・点灯はバルブの寿命を縮める」という車のヘッドランプの取り扱い説明書内容が説明されているのだが、このサイトもよく見れば、「交通安全と医学」という、病理医によってつくられたものであった。おそらく「何度もつけたり消したりすると……」という記述を、「頻回な消灯・点灯」という医療業界用語風に翻訳したのでは、と想像してしまう。

中国語サイトに出てくるぐらいだから、本来はちゃんとした漢語なのかもしれないが、「頻りに」という副詞がつくのだから、「回」は動詞であるべきであろう。あわせて「頻回に」と副詞として使うのは少々おかしいと思われる。Googleには戦前の医学博士論文にこの言葉が使われている例がでてくるので、かなり昔から医療業界用語として使われている言葉のようではあるが。

薬屋さんの宣伝MLで教えられるまで、これが普通の日本語ではないということに気づかなかった自分にも驚くのだが、そこまで昔から一部業界で使われていた言葉なのに、一般化しなかったというのも少々不思議である。やはり、閉鎖的な世間だった、ということなんでしょうね。(2004/05/18)

トップに戻る


  • コメ支援


デマなのか単なる噂なのか、それとも情報リークで免疫をあらかじめ作っておこうという官邸の深慮遠謀なのか、コイズミさんが再訪朝する際に、あちらに約束したのが25万トンのコメ支援だという報道を見たような気がする。そもそもそれ自体が私の妄追想かもしれないけれど。

コイズミさんのいいところは、政策の破綻をつまらない屁理屈で言いくるめようとする歴代政権のマネをしないことで、現状がワヤであっても、「これでいいのだ」というバカボンのパパ的肯定的態度を崩さないところにある。ごまかしと責任逃れということでは同じことであるが、そもそも、責任っていったって、どうすりゃいいのよ、ねぇ。政治なんて行き当たりばったりなんだという正しい認識を拡めたという、すごい貢献をした人だと後世に評価されると信じているんだが。

そんなことはどうでもよく、ここで問題にしたいのは、25万トンのコメ支援というのは、実際にはどういう実体的な意味をかの国にもたらすのか、という点である。こちらのサイトを参考にすれば、2000年のわが国での1人当たりのコメ消費量は約65kgである。これは戦後最高であった(たぶん史上最高でもあろう)、1962年の約半分であり、戦前戦後の食糧事情が悪いときよりも消費量は低いのである。

ちなみに62年のコメからの1日当たり摂取カロリーを計算すると約1300Cal、2000年のそれは約700Calである。1日の必要カロリーを1800Calとすれば、現在はコメから40%弱をとっているだけなのである。その理由を簡単に言えば、コメ以外に食うものが山ほどあるわけで、総摂取カロリーは増えているのは当然。別に皆でダイエットに励んでるわけではない。

現在の北朝鮮の状況は、日本の62年当時よりももっともっと厳しいであろうが、そこは何とか最低限の副食などは自力確保していただくとして、コメだけで1日1000Calをとれば何とかなるだろう。そうすると大体国民1人当たり1年に100kgのコメを用意しなければならない。今回の報道にあった25万トンのコメというのは、そこから計算すると250万人が1年間飢え死にしないですむ食料援助ということになり、これはほぼ平壌市の人口に一致する。

逆に言えば、年間25万トン程度の支援をすれば、北朝鮮は自国の首都で餓死者が出るというような、国家の体面を保てなくなるような事態を回避できるのだ。日本のコメ生産量は年間1340万トンなんだそうで、先ほどの消費量からすると半分しか使っていないことになる。もちろん、工業用消費があるから、丸々半分残るという事はないだろうが、多少がんばれば北朝鮮全体の消費をまかなうぐらいのことは出来そうである。休耕田も多いことだし。

食い物のうらみというのはいつまでも残るもので、ここで太っ腹を示しておけば円滑な関係を築くのに重要な役割を果たすのは間違いない。わけのわからんヤミ送金を黙認して軍事装備されるより、コメをたっぷり贈ればいいのではないか。兵糧に使われるといっても、ミサイル揃えられるよりましでしょう。変に備蓄されないように、「サトウのごはん」みたいな、保管期限があるような形で贈れば効果的かも。当然、パッケージには「日本国民からのプレゼント」と派手に書いておく。ちょっと重くなり、輸送しにくいのが欠点だが。

ほんの一世代前まで、梅干と塩昆布ぐらいでバカ飯食って、結構効率的に繁栄を準備してきた我々なのである。隣国の人々に、今は苦しいだろうがこれ食って元気出してくれと支援をすることぐらい、そう無理でもないのだから、もったいぶることはないとおもいますがなぁ。(2004/05/19)

トップに戻る