コカコーラにはコカイン成分が含まれている、というのは有名なデマであるが、日常的な食品の多くから、いわゆる麻薬成分そのものが検出される、というと驚かれるだろうか。
それが入っている可能性がある主な食品を順不同に列挙すると、アンパン、ある種のベーグルやデニッシュ、ある種の蕎麦、豆腐田楽、なす田楽、七味唐辛子、カレーなどなど。洋菓子にも和菓子にも広く含まれ、その成分含有物配合を高らかに宣言しているメーカー品もある。
お気づきのこととおもうが、その含有物とは「芥子の実」である。なにしろアヘンそのものをとりだす植物の実なので、多少の関連物質が混じっているのも当然だろう。そういうと、おいおい、お前は麻薬を作る芥子の実と、普通の食品に使うポピーの実を混同しているだろう、といわれるかも知れない。確かに日本では限られた種類のポピーしか観賞用にも栽培できず、欧米では普通の民家の庭に咲いているような種類まで厳しく規制されている。食品用の芥子の実、つまりポピーシードは日本ではひなげしやおにげしなどの許可された種類から取るしかないだろうが、世界一般的に言えば、日本で禁止されている種類の芥子からも取られているのである。
食品用芥子の実が日本国内で全面自給できるものかどうか知らないが、例えばカレー粉の材料などはほとんど輸入品らしいので、そこに使われる芥子の実はたぶん世界標準品で、日本では作れない種類のものがたっぷり入っているはずだ。(たぶんひなげしの実であっても、下に記すような事情はあんまり変わらないのではないか、と私はおもう)
問題の発端は1990年、セントルイスだった。ある勤務成績優秀な警察官が、抜き打ちのモルヒネ検出尿検査で陽性を示したのである。この警官は休職させられたが無実を訴え、審査でもまったく麻薬使用の事実はないと判断され、減給分も支払われた上で復職した。審査の過程で判明したのは、彼が検査の前日、ポピーシード入りのベーグルを4個食べた、ということだった。
94年にはバルチモアの保健機関が、ある女性の採用を、薬物試験が陽性であることを理由に拒否した。その女性は朝食にポピーシードベーグルのサンドイッチを食べていたからだと主張したが、受け入れられなかった。
97年には、フロリダの金融会社を同じ理由で解雇された女性が訴訟を起こし、約90万ドルを勝ち取っている。
99年、ニュージャージーの刑務官がやはりポピーシードべーグル由来の尿検査陽性で解雇され、7ヶ月目に復帰している。
これは明らかに検査の精度をどのあたりに置くのか、ということをよく考えていないための混乱で、被験者側にはいい迷惑の話なのだが、本物の麻薬中毒者を山ほど抱えるアメリカの刑務所では、問題をさけるため、仮出所する受刑者に対して、ポピーシードの入った食品を食べないことを誓約させている。知り合いに米国の刑務所の仮出所者がいる人は、木村屋のアンパン(あの表面のブツブツは芥子の実である)なんておごってやったらいかんので気を付けるように。(以上出典はこちら)
どうも、この問題が知れわたり、逆に麻薬使用を誤魔化すために、ポピーシード入りの食べ物をバカ食いする連中もいるらしい。それを"poppy seed defence"と称するらしいが、今のところそれに対応するには、疑わしきは罰せずではなく、疑わしきものに近づいてはならん、といういささか強圧的対処しかない様子。
これに関連した医学論文を調べると、次のようなものがみつかる。98年、国際犯罪科学雑誌に掲載されたその論文によると、4人の被験者に0.76gのポピーシードが入ったロールパンを食べさせ、血中尿中のモルヒネとコデイン濃度を調べたところ、1例で陽性所見がえられ(こいつだけパンを2個食ったそうだ。えらくいい加減な実験である)、時間を置いてこんどはポピーシードケーキ(一個に平均4.69g含有)を食べさせたところ、全員が陽性所見を示した。
芥子の実にはテバインというモルヒネ用物質も含まれ、これは精製モルヒネには含まれないことから、薬物摂取と区別する指標になるとされているのだが、これのほうは逆に検出されたりしなかったりで、あまり決め手にはならないようなのである。この論文の結論は、"poppy seed defence"は実際に可能なので、薬物検出検査の結果は慎重に解釈する必要があると言うもの。
ここで気になるのは、そういう陽性所見が出るようなポピーシードに、麻薬としての作用があるのかどうか、という点だろう。日本では覚せい剤ならともかく、麻薬スクリーニングを普通の人が受けることなどまずないから、アメリカで起こっているような問題は当面ないだろうが、調べれば陽性になるような濃度のモルヒネ様物質が血中に存在するなら、何かの作用があるのではないか、という疑問は当然出てくる。
それについて、先の論文の関連リンクにこういう論文が紹介されている。92年、同じ国際犯罪科学雑誌に発表されたものだ。
「ポピーシード摂取:オレゴン州の見解」と題されたその論文によると、7名の被験者に25gのポピーシード入りケーキ(しかしなぜケーキ?量だって一定しないだろうに)を食べさせたところ、全員が尿検査で陽性を示したが、同時に行われた認知能力検査ではどんな異常も認められなかった。
スクリーニング検査だから、痕跡量でっも引っかかってしまうので、何の薬理作用も示さないのは当たり前、とはいえるのだが、実際に麻薬常習とそう区別がつかぬような結果が出るのに、何の影響もないというのはちょっと不思議に思える。単に「効能」という面から調べていないだけではないか、などと考えたりする。
少なくとも鎮痛目的に経口でモルヒネを摂取する限り、一般に考えられているような酩酊感や多幸感が出現することはなく、当然依存症の心配もすくないことはガン性疼痛臨床では常識だ。こちらにガイドライン(個人によるものだが、極めて体系的で幅広い経験に裏打ちされているとおもう)を示したが、そこには「モルヒネを鎮痛目的に使用している限りは依存症にはならない。モルヒネの鎮痛以外の酩酊感、多幸感を求めたとき、それによる精神的依存が起こると考えられている」とかなり大胆に断定されている。
これにはモルヒネによるガン疼痛コントロールをもっと進めて、患者のQOLを高めたいとする願いからくるバイアスが多少かかっていると思われ、どんな目的で使用するかで依存症になるかならないかが決まる、というのは少々乱暴な意見であるように思える。要は目的に応じた適切な使用量を守り、極端な乱用さえ避ければそんなに心配ない、ということでいいのではないだろうか。まして進行ガンの疼痛管理に使う場合、仮に依存症になったって、それがなんだというのだ。
しかし麻薬に対する規制常識はそんなノンキな意見を認めてくれない。麻薬は悪魔の薬で、どんな形であれ、使っていれば人を廃人に導くとされ、そのため余命幾ばくもなくガンの疼痛に苦しんでいる人まで、そんなものを使わずにひたすら耐えるのが正しい療養態度とされていて、いまだにそれが払拭されているとはいえない。ましてや、鎮痛以外の目的、たとえば精神的苦痛の除去に麻薬をつかうなどとんでもないこととされ、実際にそのような適応はない。
私は従来の薬物療法では改善しにくい、ある種の強迫症状や行動障害などにも、麻薬をつかって症状緩和するのは認められるべきだと考えている。最終的に使用の判断をするのは患者本人だろう。鎮痛だけでなく、こういう目的にも広く麻薬が使われるようになれば、医師の側も使用テクニックがあがり、無用の依存を作り出すことも少なくなり、逆に依存症者の治療ノウハウも広く共有されるだろう。
最終的には麻薬は完全合法化されるべきだともおもう。現在、かのアフガンやミャンマーで非合法につくられるアヘンは5000トン以上にのぼる。救荒作物としてやむなく作っている人たちは極貧にくるしみ、巨利をむさぼるのはブツの移動や頒布をしている犯罪組織だけだ。合法的に麻薬使用できるようになれば、生産者は正当な値段で売ることができるし、使用者も法外な末端価格を押し付けられることがない。
今の生産量が合法使用だけではけるのか、と思われるかもしれない。主要先進国で合法的に医療目的で使用されるモルヒネは、95年の統計では人口100万あたりの一日使用量(g)が、最高のイギリスで84.7、アメリカが51.6、日本は8.3とかなりばらつきがある。イギリスで医原性の麻薬依存者が輩出している話など聞いたこともないので、世界的に使用量がそこまで増えても別に問題ないだろう。大雑把な計算をすれば、その場合300トン近い消費が正当に行われることになり、アヘンからの精製目減りを考えれば、今の非合法アヘン生産量はほとんど吸収できる。もし私が言うような使用法まで普及すれば、もっと消費量はふえるだろう。ちゃんとした製薬会社が精製と販売を行い、日本でつけられている薬価水準程度を基準にして生産者から買取りされれば、アフガンやミャンマーはたちまち宝の国になる。まあ別の国でも作り始めるだろうから、程ほどのところで落ち着くだろうけれど。
これは極めて楽観的な見通しで、麻薬利権と言うのはギャングやテロ組織だけでなく、某大国の巨大政府組織がからんでいる、なんて話ももっともらしく語られるぐらいだから、こんなにうまくいく事はないかもしれないのだけど。
そのような観点から先の「芥子の実をたべて麻薬テスト陽性」問題を考え直すと、それは麻薬規制の近代的常識が、精緻な検査手段をえたために、本来は広い意味での伝統的食生活の一部であった素朴な麻薬利用をかぎだしてしまった結果であるといえよう。添加物としてそう独特の風味や香りがあるとは思えぬ芥子の実が、広く食生活に利用されていると言うことは、「麻薬=悪魔の薬」という図式とはちがう効能を人々が利用してきたことの名残ではないかと思う。そうたいした問題になっているわけではないのだが、これが麻薬を日常生活に復権させる契機になってくれればいいと願うものだ。(2002/04/21)
夏休みに車で遠出したとき、いつもはまず聞かないFMを道路情報目当てで聞いていたところ、都内のFM局で、聴取者がファックスで投稿するような番組をやっていた。そのテーマが「アルバイトで経験した面白い話」というもの。
これは絶対あの話が出るに違いないと思って聞いていると、はたして「大学病院で死体処理のバイトを一日一万円でやった」という投稿が読み上げられる。しかも司会者はそれに対して、「面白い話だから」と特別プレゼントまで贈っている。「友人の友人から聞いた話」ではなく、自分の経験談だと投稿するのだから、完全に確信犯で大ボラかましているわけだが、そのバイトが存在するということだけは一応信じているんだろうし、現にFM局のパーソナリティーだって疑わなかったわけだ。いままで二回ほどこの噂話を取り上げたが(こことここを参照のこと)、この話にリアリティを生じさせるメカニズムがいったい何なのか、というのがもうひとつわかっているとはいえない。しかしある事情の観察から、もしかすると今後はさらに確信的に流通するようになるのではないか、と私は予感している。
というのは、先に法事で訪れた某地方は、企業撤退やら地場産業の衰退やらで経済状態は青息吐息で、街並みを見ただけで、あ、こりゃ末期だわ、というような感じなのだが、そういう地域にあっても唯一隆盛をほこっている産業が「葬儀屋」さんなのだ。田舎町で新築したばかりのでかい建物があったら、それは葬祭センターである、といってもいいような状況。なにせ次々に死んでくれる老人たちとその予備軍には事欠かず、田舎で多少金を使う派手なイベントといえば葬式ぐらいのものなのだ。「死」が衰退した地方の有効資源として、最大限に機能している。これはあと2〜30年ちょっと、いわゆる団塊の世代が死に絶えるぐらいまで、全国的に続く傾向ではないだろうか。
「死」がその特権性といささかの神話性を糧にして、地域経済の最後の砦になっているのである。ましてその途中の過程を取り仕切る医療機関では、もっと超絶的な死の操作と経済行為があるに違いないという発想が沸いてきても不思議はない。それがおいしいアルバイトのネタにならないわけがない、と思慮の浅いガキならこのビジョンに飛びつくだろう。あちこちの医大や病院で、それを真に受けたイカレ厨房が妙な事件を起こすのは時間の問題だ、とここで予言しておこう。(2002/08/16)
ネタ参照元である、こちらの掲示板にこんな書き込みがあった。フロリダでは携帯電話の中継アンテナタワーを、周辺の自然に調和させることが奨励されているのだと。そしてその一例として、こんな写真が証拠にあげられていた。変に伸びてしまった木だと見えないこともなく、かえって作りものめいて不自然だともいえる。
掲示板参加者も半信半疑だったようで、「そりゃ、水やるときにバイアグラでも混ぜたんじゃないのか」などと茶々が入っていたのだが、携帯電話会社で働いていたと自称する人が、そういう偽装アンテナタワーの実在を認める書き込みをした。
その人によると、森林地帯では写真のような木が一般的で、ほかには、一見木で出来た水タンク風、崖の上などには岩、牧草地には潅木、市街地では時計塔、野球のネット、そして教会の尖塔に偽装されるのだそうだ。教会はどこも資金難なので、携帯電話会社に改装してもらって使用料までもらえるので、次々にアンテナタワー化しているそうな。そういわれても、これもネタではないかと皆おもらしく、「うちのあたりじゃ、教会の周りだけ圏外なんだけどな」という反応がいっぱい出ていた。
その後、掲示板の成り行きに注目していると、全米各地からの偽装というか、隠密アンテナの画像が紹介されるようになった。どうもガセではないらしい。決定的だったのは、そういうアンテナタワーを専門に作っている会社のサイトの紹介。そこのサイトでは、実例がいろいろと示されていて興味深い。この会社では立地条件にあわせて、各種オリジナルの偽装アンテナをアレンジするらしい。そして例の木に見えるアンテナデザインで、デザイン会議のミレニアムアワードまでもらったのだという。
この会社は英国が本拠地なのだが、世界中でこの技術を展開しているらしく、特にビルのモニュメントをアンテナに仕立てる技術はたいしたものらしい。アサヒビールの本社屋上にあるような、ああいう飾りがアンテナであったりするわけだ。なんでこんな技術が発達するのか、という理由には美的意識もあるのだが、電磁波へのかなり厳しい視線がおもなものであるようだ。日本でもつい最近、国立環境研究所と国立がんセンターが、電磁波(ただし送電線や家電から出る超低周波のほうだが)と小児白血病との因果関係を認める疫学調査の結果を発表したばかりだが、欧米では30年ほどまえからこの研究が繰り返されていて、かなり高い関心がこれに向けられている。たしかエディ・マーフィーが上院議員になる喜劇映画(題名忘れた)でも、このエピソードが使われていたのではなかったかな。向こうにはあらゆる電磁波に対して、ほとんどラッダイト運動のノリで敵対する団体があったりして、一般にもかなり高い危機感が共有されているらしいのである。
アマチュア無線の関係者から聞いたことだが、米国の近郊ベッドタウン建売業者の中には、地区ではどんな電磁波も出させない、ということを売りにしているところがあるそうな。アマチュア無線を趣味にしている人などは、やんわりと入居を拒否されるそうで、頭にきた関係者が「電子レンジも使わせないのか」と逆襲してウップン晴らししたとのこと。そういう地区の対策用なのか、向こうの無線雑誌とか通販カタログには、よく一見煙突風のアンテナとかの宣伝が出ているのを見ることがある。
しかし、なんぼ偽装したからといって、アマチュア無線のような個人の趣味ならごまかせても、携帯電話の基地局をこっそり作るわけにはいかんだろう。電磁波そのものの危険性を危惧する人々の反発は、大して変わらんような気もするのだが。むしろ偽装しなければならないぐらいだから、やっぱり危険なのか、と思われるのではないだろうか。
もっとも、携帯電話の基地局というのは電波出力がそう強くなく、1波あたり(といってもある帯域に分散させたデジタル信号だろうから、どういう計算になるかよく知らないのだけれど)、せいぜい4ワットぐらいと聞く(ただし、次世代携帯電話基地局の出力は、かなり高いらしいけれど)。これは、アマチュア無線家が使う430MHzのハンディ機より弱いものだ。まず常識的には何の影響もないとは思うが、それだけでは通らないのが世の中というもの。そういう意味では人々の気分が一番大切なのだから、偽装にも意味があるのかもしれない。
日本に導入するなら、天守閣とか、五重の塔とか、神社の大鳥居風とかになるのかなぁ。この際、オリエンタル趣味爆裂にして、「ねぶた」風とか、出初式はしごのり人形つきとか、大名行列の先頭で奴さんがもっているまといみたいなのを展開すればいいのでは。自然物件はどんどん利用すべきだろう。富士山なんか、大広域アンテナとして使えるのではないだろうか。屋久島の縄文杉とか、円山公園のしだれ桜なんか、もうとっくに入れ替わってたりして。(2002/08/02初稿)
私らの世代にとっては、「プラウダ」というのはずっとソ連共産党の機関紙で、ソ連崩壊の直前まで尊大倣岸な教条的記事を掲載し続けていたという記憶しかない。もちろん直接読んでいたわけではなく、報道などで引用されるのを見るだけである。もうひとつ、もっぱら報道中心とされたイズベスチャという新聞があり、プラウダにイズベスチャ(報道)なく、イズベスチャにプラウダ(真実)なし、などと揶揄されたものだった。ソ連崩壊とともに、当然あの新聞もなくなっているのだろうなと思っていた。ところがそのプラウダは今も健在で、ロシア第二位の発行部数を誇っているそうだ。
ウェブ版をざっと読んだ限りでは、政党機関紙なのかどうかはっきりせぬものの、いまは亡きソ連邦への郷愁がそこかしこで感じられる紙面づくりがされている。(イズベスチャのほうも健在らしいのだが、英語版がないらしく、少なくとも私には、いまどんな報道姿勢なのかを知ることはできない)
そして、このプラウダはかっての共産党機関紙であった時代よりも、ある意味、全世界で注目を浴びるようになっているのである。それは、"World Weekly News"や「東京スポーツ」がしゃれ含みで果している報道機能をさらに拡大したもの、つまり、トンデモ科学理論、陰謀論、超常現象などを、大真面目に扱うデマ新聞としての機能である。
以前、NASAの月面着陸はウソだった、という記事をかなり真剣に、かつ長期にわたって特集報道したのもここだったし、宇宙人の死体を発見しただの、米軍が捕獲したUFOを隠して秘密実験しているだのという、かなりオールドファッションなトンデモ記事がしばしば載るのである。
11月13日付で、同紙は「ミュンヘン大学の遺伝学者、タボ教授が行った驚天動地の発表」について報じている。その記事によると、教授たちのグループは、遺伝子工学的手法をつかってネアンデルタール人の骨からDNAを取り出し、それを解析することで、「いままで直立猿人との中間存在だと思われていたネアンデルタール人と、現生人類との間には、遺伝的関連性がない」ことを証明したという。この発見によって、人類の起源探求はまた一段と闇に閉ざされたというのだが、はてはて?
そんなこと、かなり前からわかってたのではなかったっけ。進化過程では近縁種であるとはいえ、ネアンデルタール人と我々は十数万年前に分岐して別個に進化したので、直接の先祖と子孫の関係になんかない、というのはNHK特集レベルでも知ることの出来る、一般常識だといっていいと思うのだが。(両者には混血があった、という『新知見』というのも最近はあるらしい)
しかも、プラウダの記事はこれをマクラにして、「95年にモンゴルで発見された、内臓や脳の一部が人工物で置換された『サイボーグミイラ』」なるものの話に移行し、人類は宇宙人による遺伝子操作で作られた、というトンデモ話に移行するのである。何の検証もなく、資料が示されることもなく。
結局、共産党機関紙であった昔から、適当なでっち上げ記事をのせる本質は同じなのだといえばそれまでなのだが、こういう新聞が発行部数第二位だというような社会は、どんなに民主主義的体裁を整えていようと、かなりやばいところに容易に導かれてしまうのでは、と思えてならない。なんて言っていながら、薄っぺらい人情話の表面的ストーリーで世論なるものがあっさり右へ倣えするような、某国マスコミと大衆の関係にあるような情けなさと、どっちがましか、かなり考え込んだりするのだけれど。
いずれにせよ、ウェブ版"World Weekly News"がちょっと前から有料化されていて(かなりいい根性している)、トンデモねたが仕入れにくくなっていたので、思わぬところにロシアからの援軍だと、肯定的にとらえておくのが精神衛生にはいい様で。(2002/11/14)
キョービの中年後期男にありがちなように、私は映画「カサブランカ」が大好きである。これと「第三の男」、おまけとしてゴダールの「勝手にしやがれ」あたりへの思い入れ複合が、この世代の男が感じる「粋」とか「ダンディズム」、さらにはちょっと恥ずかしいながら、友情とか異性観をもかたちづくっているのではないか、と私は思っているのだが違うだろうか。
なんであれ「カサブランカ」である。TVでもよくやられるし、古典作品なのでビデオやDVDも廉価版で買える。何べん見たかわからないほど繰り返して見ているのだが、DVDで見るようになって、ちょっと引っかかっているセリフがあるのだ。繰り返して見ているといっても、私の集中力はかなり散漫なので、ビデオ版やTV放映のときもそうだったのかどうか覚えがない*。それは主人公の酒場経営者リックの履歴をルノー署長が調べてあてこする場面で、ルノーが「君は1935年にはエチオピアに武器を密輸し、36年にはスペイン内戦に王党派として参加している」というところだ。
*これは記憶違いで、DVD字幕ではここはさらっと流されていて、ビデオ版のほうが「王党派」となっているのだった。
この映画はラブロマンスとはいえ、反ナチスの戦時戦意高揚映画でもあったので、反侵略戦争反ファシズムの姿勢は一貫していて(もちろん米国に都合のいい範囲で)、ちょっとシニカルな態度を取っているリックも、「自由と民主主義のために戦う闘士」であるのが前提である。35年の武器密輸というのはリックが単なる密輸屋であったといっているのではなく、イタリアに侵略されていたエチオピアのレジスタンス支援をしていたということだ。それがスペインでは「王党派」というのがわからない。
ご存知のように、30年代のスペイン内戦というのは、ほとんどフロックで成立した左翼人民戦線政府に対して、フランコ将軍をリーダーとする軍部がクーデターを起こしたもので、クーデター派を構成するのは当然アンシャンレジュームを目論む旧勢力である。「王党派」はその名のとおり、国王を中心にすえた体制を理想にしている連中だろうから、リックはスペインでは突然反動派に鞍替えしたことになってしまう。もしかしたら、スペインでは国王派が改革勢力だったという経緯があるのか、あるいは一種の皮肉として、人民戦線側のことを「王党派」とよぶ慣習があるのかもしれない、などと合理化しようとしていたのだ。
ウェブで調べてみると、映画のセリフで英語を勉強しようという趣旨のここでは、"the Royalist's side"とセリフを示し、「王党派側」と訳し、そのまま「スペイン内乱時の反フランコ派」と書いている。自作小説を公開しているここでは混乱はさらに極まっている(もちろん作者にその自覚はない)。その小説の主人公たちは、スペイン内戦が背景になった学園演劇をしていて、それは共和派と王党派として反目する二家族の息子と娘が恋に落ちるという、ロミオとジュリエットの焼き直しなのだが、これが実に妙。「戦局は、共和派がヒトラーの援軍を要請したことから、一気に転換期を迎える」などと書いてある。この作者は完全に「王党派=反フランコ、共和派=ファシスト」というつもりで書いているらしい。小説そのものへの意見は控えるものの、共和派がナチスと組むというのはいかにもおかしい。
ここはもう一度スペイン内戦についておさらいするべきだと、解説サイトを探してみるがなかなか適当なものがない。ならば海外サイトを、と一つ二つあたってみたら思わぬ発見をした。ここの文章のすでに一行目にそれはでてくる。"Then war was fought between Nationalists and Loyalists ."内戦は国家主義者(Nationalists)と(共和制)忠誠者(Loyalists)との間で戦われた、という一文である。どうも反フランコ共和派をLoyalistsと呼ぶのが、慣例として定着しているらしい(例えばこれなど参照)。リックを「王党派」であったというのは、早い話がLoyalistとRoyalistを混同しただけのことなのだ。
何の事はない、日本人が苦手なLとRの区別の問題なのであった。さきの「映画で英語」サイトの管理人さんなどは、英語にはかなり堪能なかたであろうと想像されるが、それでも間違うほどの困難さがあるということらしい。もしかして、脚本の段階から間違っているってことはないかと確認してみたが、元セリフはちゃんと"Loyalist"となっていた。このページをひらいて、"Loyalist"で検索してみれば一目瞭然である。字幕作成者が脚本をいい加減に読み流したか、耳だけで聞いてそう訳したかして、一部にリック=王党派という誤解がつたわり、反ナチのリックが王党派なら、それは反フランコ側なのだろうという、かなり無理のある類推がそれに続いたということのようだ。もうちょっと複雑な事情があるかと思ったが、なんだか腰砕けというしかない。
教訓:日本人はRとLの区別がつかないという人種的欠陥があるので、恥をかかないためには、せめて一般常識を磨くようにしよう。
(2002/12/05)
(私の使っている辞書ソフトであるBabylonも、Loyalistを王党員と訳しているが、これは英米でLoyalistというとき、アメリカ独立戦争の親英派=英王室王党派をいうことが多いためらしい。LとRの区別だけではない歴史的事情があるようだ。)
某日、都内の某大病院に電子カルテシステムを見学に行くことになっていて、現地直行かつ直帰といういい加減な勤務のふりでよいという話だったので、前夜は深夜までくだらん長文を書いたり、大酒飲んだりしていたら、天網恢恢疎にしてもらさずとはよく言ったもの、朝起きてみれば大雪であった。これはいい加減な態度で生きていくことなんか許さん、いつも苦労しながら生きていくしかないのだからな、という天というか神様というか仏様からのメッセージだと素直に受け取り、1時間は早めに家を出て都内に向かうことにする。といって、とっくに出勤ラッシュは終わっているころですが。なんせ起きたの九時半で。
問題はこういうときのスタイルである。さすがによその病院にちゃんとした用事でいくので、ジーンズにTシャツの上にアノラック引っ掛ける、というわけには行かない。妥協できるぎりぎりのところとして、チノパンツとカラーシャツにネクタイ、ジャケットに厚手のレインコートである。ここで困るのが「帽子」なのだ。ちょっとダレているとはいえ、ネクタイを締めるような格好にあう帽子というのが難しい。やたら寒い日に、田舎でも都会でもいいから周りを見回してごらんなさい。ネクタイを締めている人間に、帽子をかぶっている人はまずいないから。
いまの日本では帽子というのは、まず若い世代のフリース帽子とか、毛糸のワッチキャップ(というんでしたかね?)みたいなのか、垢じみたジャンパーを着たおっさんの野球帽スタイルぐらいである(つまり普段の私の格好)。帽子というのがそこそこの正統的ファッションの範疇で使われるのはまことに稀なことなのだ。
何でお前は帽子にこだわるのだ、といわれそうだが、これが一度癖になるとやめられないのですな。ジョギングなんかが趣味の人はわかると思うが、帽子というのはじつに有用性に満ちているものだ。暑くて日差しがきついときには防暑対策になるし、紫外線を防いでもくれる。逆に寒いときには、保温対策としてあれほど役に立つものはない。そこそこの保温素材で作られた帽子なら、多分トレーナーを一枚着るのと同程度の保温作用があると体験的には思う。
「『頭寒足熱』の謎」という文章を昔書いたような気がするが、あれを書いたのは、日本人はあまり頭部の保温を考えないので、ロシアなどでは寒さにやられて、春先にはみんな頭痛もちになるという噂があるのだが本当か、というメールをいただいたことがきっかけになっている。確かに寒いところでも、保温用の帽子をかぶるというので連想するのはせいぜい「北の国から」の田中邦衛ぐらいで、ちょっと気取った男性向けファッションとしての帽子というのはまずこの国には見当たらない。でもそれは実用性とか、健康への配慮ということから考えるなら、まことに妙な態度だ。ちょっと血圧が高いとかコレステロールがどうしたという前に、いつも帽子をかぶるようにするというだけで平均余命はそこそこ伸びると思うのだが。少なくとも「脳ドック」をうけるよりましだとおもう。
アメリカでもこれは同様の傾向があり、というか、アメリカがこの無帽の風習を切り開いたらしい。その際、責を着せられるのが、J・F・ケネディなのだそうだ。彼は大統領任命式の際、それまでの伝統であったシルクハットをかぶらず、無帽のほうがかっこいい、という見方を広めた張本人だと非難されるそうだ。しかしそれは事実ではなく、JFKは任命式のとき、それまでの大統領と同じようにシルクハットをちゃんとかぶっている。大統領になってからかぶらなくなったのは事実のようだが、それはその当時のファッションの流れに従っただけのようだ。
ケネディのせいにすることは出来ないにせよ、60年代のはじめには、プライベート、セミフォーマルな場面をとわず、男が帽子をあまりかぶらなくなるという傾向が始まっていたというのは間違いないらしい。その少し前のマーロウもの(だったと思うけど)なんかで、発見された死体の周りに帽子がないことをもって、被害者は自分からすすんで外出したのではないな、なんて推理がされていたのを思うと、その変遷の理由は今ひとつわからない。面倒だ、というのはたしかにわかるのですが。
どこかで書いたように、私は頭のサイズに関してきわめて不利なハンディを持っていて、普段かぶる野球帽系にはいつも絶大なる関心を抱き、間違って大きめにつくられた製品を買い込む努力を常にしているのだが、ネクタイをしめるような格好にあう帽子までは、それほど収集していないのであった。シャーロック・ホームズがかぶっているようなのでは、芸能人でもない限りキョービ保健所通報の危険があるし、ソフト帽というのも、アランドロンなら似合うだろうが、という感じ。鳥打帽というのは「ハゲ隠し」という過去の負債が重すぎる。ちょっと崩れたレインハットみたいなのが、どんな格好にもあわせられていいのでは、と思うんですがねぇ。
もしアパレル業界のかたがここを見ておられたら、ぜひ男のための帽子の復権というのを、ぜひこの冬にでもやっていただけないだろうか、と願ってやまぬ今日この頃なのであった。差し当たっては仕方ないので、結局昔買ったけどきつすぎたので使っていなかったレインハットを見つけ、それをかぶっていくことに。向こうについて帽子を脱いだら額に孫悟空みたいな印がついていて、なんじゃこいつはと、しげしげ眺められることになりましたけど。でも、レインコートとレインハットがあれば、多少のせこい雨雪程度では傘なんか持たないでいいので、これほど男性に自由を与えてくれる道具はないのですよ、ホント。(2002/12/09)
その後、ネットでこんな店を見つけ、しゃれたのを発注した、というのをご報告までに。
「ゆでガエル」という言葉をご存知の方は数多いであろう。変化していく状況に対応せず、安穏と毎日をルチーンワークの連続ですごしていたら、やがてその組織は取り残され、機能しなくなるというような、ビジネスの分野でよくつかわれる警告のようである。検索してみると「『ゆでガエル現象』が会社を潰す」などという本が出ていたりするし、企業トップがこれを自戒の言葉とされているケースも数多い。ビジネス界ばかりでなく、環境汚染への対応とか、健康対策などにもこの比喩は使われるようだ。
いまひとつ上品とはいいがたいこの言葉がよく使われるのは、「ゆでガエル」という現象が事実であるという信念がまずあるからに違いない。以前似たようなもので、「地獄鍋」伝説をとりあげたことがある。ドジョウを生きたまま鍋にいれ、火にかけると苦しみだすので、そこに豆腐をさっと入れるとドジョウはみなそこにもぐりこみ、そのまま豆腐の中で煮あがってしまうという伝説的料理である。
ここにはふたつの前提がある。まず、ドジョウは温度環境に敏感で、危機を察知して合理的安全確保行動を的確にとるというもの。その次は逆に、いったんその行動をとると(つまり豆腐にもぐりこむと)、外に出ればもっと早く死ぬことになると観念するのか、それ以上の危機回避行動はとらず、おとなしく豆腐の中で死をむかえるというもの。やたらに説明がアド・ホックなところがこの料理の実在性を強く疑う根拠になるし、実際そんなものはないのである。
今度は変温動物というのでは同じカエルで、ゆっくり温度をあげていけばそのままゆであがるというのだ。なるほど、地獄鍋がウソだったのはこういう理由によるのか、と納得してしまいたくなるところだが、こちらもなんとなく疑わしい感じが付きまとう。先ほど例にあげた本の著者や企業関係者にはもうしわけないが、個人的体験としては、この言葉をつかって「状況への即応性」を呼びかける連中にロクな奴を知らないのである。
みな軽薄野郎ばっかりで、ちょっと聞きかじったようなことをもって組織改革などといいたて、手前自身が現に役にも立たないお荷物であることをごまかそうと目論んでいたり、どこかの業者と組んでいりもしない物品やシステムを導入しようとする、マイルド背任志向の持ち主だったりする。経営トップがこれをいいだせば、まず業績が左前になってきている責任を部下に押し付けて、労働強化とリストラを目論んでいるとおもって間違いないのではないか。
この言葉を口に出す奴らが気に食わんからこの言葉自体もウソだ、というのは少々乱暴な理屈だが、実際、「ゆでガエル」現象というのは科学的事実ではないのだ。いくら変温動物とはいえ、カエルは自分の温度環境にはとても敏感で、はじめから熱いところにいれようが、じわじわ熱くしていこうが、危険のあるところからは必死になって逃げようとする、というのは生物学的には自明のことのようだ。専門家からすればバカバカしくて反論する気にもならないので、素人がつかう比喩表現がそのまま一人歩きしているということに過ぎない。
なんていっているのだが、私自身、この比喩表現をいままで胡散臭くは感じていたものの、インチキだと断言できる根拠はもっていなかった。たまたま英語圏都市伝説蒐集サイトであるここの最新更新にこれが取り上げられており、そこで引用されている生物学者の、これがウソだという説明をよんで、やっといままでのどっちつかず感が解消された、というわけ。(2002/12/15)
今月はじめに、初期キリスト教についておちゃらけ記事を書いていたので、神罰でも下るのではないかとびくびくしていたのに、先日某ニュースサイトからたどり着いた雑誌記事に、なんとなく関係ないでもない記述を見つけるにいたる。これもすべて神のお導きというやつであろう。愛と寛容の総本家にまずは感謝の意をあらわしたい。
米国の科学雑誌"Popular Mechanics"(「みんなの技術」とでも訳しますか)の昨年12月号の特集である。「イエスの本当の顔」と題したその記事は、細身で長い金髪の白人というイエス・キリストのイメージを根本的に覆すものだ。あの風貌は信者でもない私でもいつの間にか受け入れているが、ヨーロッパにおいても、教会の十字架像にほぼ同じようなイエスの風貌が用いられるようになったのは、少なくとも中世ごろのことだ。トリノの聖骸布という、イエスの遺体をくるんだためにその姿がうつしとられたと称する聖遺物があるが、そこに示されているのはまさしく我々が慣れ親しんでいるあのイエスの姿である。この聖骸布は13世紀ごろに作られたパチモンであることがすでに判明しているが、少なくともその時代にはイエスはああいう姿をしていたという共通認識が出来ていたということになる。
それに対して今回、自然人類学から分岐した、法人類学という新しい領域の研究者が発表した研究成果は、かなり「聖書原理主義」的な方法論から得られたものだ。これは次のような推論過程を踏んでいる。まず意外なことに、新約聖書にはイエスの風貌についての記載が一切ないらしい。唯一、それに多少でも触れているのは、マタイ伝のなかで、ゲッセマネの園でイエスがピラトの兵に逮捕される場面だけといっていいという。この時イエス逮捕に向かった兵士たちは、肝腎の容疑者本人の顔を知らなかったため、イスカリオテのユダが、こいつがイエスだぞと、わざわざ指し示しさなければならなかったと書かれているのである。つまり、イエスの顔貌は、当時のガラリア地方在住ユダヤ人のなかでは、かなり平均的なものだったということになる。
そこで研究者は考古学資料から、当時のユダヤ人の遺骨を収集し、そこからサイズを平均化して、30代はじめの男性頭蓋骨モデルをまずこしらえた。それをもとに、犯罪捜査で使われる復顔術の技術をつかい、その顔貌を再現したわけである。髪の毛とか目の色に関してはこれではわからないのだが、こちらは中世からルネッサンス絵画の伝統どおりの、黒めの髪の毛とひげ、そして黒い目をセットにして取り入れた。髪の毛の長さに関しては、十二使徒の一人である聖パウロが、「男はさっぱり短髪にしていないとカッコわるいぞ」というような言葉を残しているらしく、まさか尊師にいやみをいったのではないだろうと、短髪だったという解釈を取り入れた。
そして完成したイエスの顔はこれ(リンク切れのときはこちらを)。推定される身長は約1m55cm、体重50kgたらず、というところだったらしい。60年代の米国黒人解放闘争で、イエスは黒人だったというような主張があったことなどを思い起こさせてくれて、なかなか興味を喚起してくれる画像である。近世近代の歴史では、キリスト教は常に帝国主義の尖兵だったという、必ずしも言いがかりだけではない批判やそれをめぐる論争に、一石を投じるのではないかと愚考するしだい。願わくば中東をめぐるきな臭い状況を、キリスト教的西欧近代文化秩序対イスラム、などというような文明の衝突ととらえるような単眼的発想を、相対化する手がかりになればとも。ちょっと前に秋葉原で出会った、割れ物売りつけようとして来たイラン系の人にそっくりというのが純粋個人的感想。(2003/01/30)
2月1日のスペースシャトル「コロンビア」の爆発事故をうけて、早速こんなデマメールが出回っているのだという。
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ノストラダムスは何百年も前に、すべてを予言していた。以下を読まれたし。
青き星の最初の任務において
7つの聖なる土地の子供は滅び行くだろう
神の空から船が下るとき
寂しい星には残骸が降り注ぐ
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「青き星」とは、今回スペースシャトル計画に始めて参加したイスラエル人のことだという。イスラエルの国旗が青いダビデの星だからとか。「寂しい星」"lone star"というのはテキサス州の州旗のことで、テキサス州は"the lone star state"と呼ばれるそうな。もっともらしい四行詩に仕立てられてはいるものの、こんな予言詩をノストラダムスは書いてはいないそうで、全部でっち上げらしい。本物だったらインパクト強いんだけれど。
二日酔いで昼前に起き出し、まずネットを一回りしてこの記事を見つけ出したときには、肝腎のシャトル事故のことをまだ知らなかったので、何のことやらわからないという、ザマの悪さであった。キョービは事実よりも、デマの伝播速度の方が速いということのよう。単に私がけったいなところを見ているというだけのことか。
次もすでにあちこちのニュースサイトで紹介されているので、いまさらと思わないでもないのだけれど。
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イスラエルの新聞「マーリヴ」は2月3日、スペースシャトル・コロンビア号の翼に明らかな亀裂が入っている写真を掲載した。この写真は事故の11日前に、スペースシャトルに初めて搭乗したイスラエル人宇宙飛行士、イラン・ラモン大佐とシャロン首相とのビデオ交信のさいに紹介された、機上カメラから撮られた画像の中にあったものだ。
記事によれば、画像には左主翼にある二つの長い亀裂が写っているという。「もしNASAが発射の際にこの亀裂に気づいたとしても、乗組員を救う手立てはなかったであろう」と記事は結ばれている。
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「マーリブ」サイトは有料なので、写真も記事も閲覧できず、上の記述はその記事を解説する南アフリカの報道サイト。肝腎の写真がないのだが、それはこちらの都市伝説解説サイトに転載されている。その写真を見るとなるほど亀裂のように見えはするが、なんか妙な突起みたいなのも写っていて、とても「主翼の一部」とは思えない。
転載先のサイトによる解説では、これは主翼ではなく、シャトルのカーゴベイ内部なのだとのこと。軌道上では空けておかれる部分で、そこには断熱材が貼り付けられているが、上昇中や大気圏突入の際には閉じられているので、摩擦抵抗には配慮することもないため、断熱材は適当にしわしわに貼り付けられているらしい。「マーリブ」が亀裂だと騒いだのは、そのしわであったということ。
記事内にはもとのビデオ映像へのリンクもあるので、回線に余裕のある方はどうぞ。はじめに写っている部分が「亀裂写真」のもと映像で、パンして船尾部分を写す過程でカーゴベイ内部だとわかる。
「マーリブ」がこの誤報をどう処理したのかわからないが、タダで読める部分には何の釈明もされていない。エラーを恐れていたらファインプレーなんかできない、というのも事実ながら、ちょっと勇み足が過ぎるような。
しばらくしたらまた、「シャトル事故の真相はこれだ!!」なんて調子で、この写真を得々と掲げる連中が出てこないとも限らないので、覚えておいても損はないかもしれない。(2003/02/03,08)
題名ちょっとマンネリ。
あまり巡回サイトというものがない私には珍しく、けっこうまじめに読んでいる(ただしプロレスとネットバトルの話はパス)こちらの日記の2月11日の記述で、山本周五郎のあまりポピュラーでない作品(だと思っているのは私だけかもしれないが)が紹介されている。それは田沼意次を題材にした作品なのだそうだが、そこの日記作者はそれを「歴史定説ひっくり返し小説」と評しておられる。おなじ山本周五郎の「樅の木は残った」で原田甲斐を忠臣としたのと同じで、ここでは田沼意次を正義のがわにすえていると。
まず原田甲斐についていうと、私らの世代、つまり団塊の世代後期にとっては、私みたいに基本教養にかける人間ほど、彼を正義の人と思っている場合が多いとおもう。それはNHKの大河ドラマで1970年に「樅の木は残った」(脚本:早坂暁)が放映され、かなりの視聴率を得たからである。あれを見ていた人間は史実なんか知らぬまま、ドラマの平幹二郎は実に堂々としていたぞという風に理解しているとおもう。
田沼意次の場合は、中学高校の歴史にもその名前が出てきて、しかも「まいない鳥」の絵がついた落首も結構ポピュラーで、賄賂腐敗政治の元凶のように思われていることを承知の上でなお、同じような世代にとっては、彼を単なる悪徳政治家と断罪できない気分になるのである。
こちらの理由は何であろうかと考えてみると、それもやはりTV番組の影響なのであった。71年秋から翌年秋までNHKで放映されたドラマ、「天下御免」がその根拠である。これは山口崇ふんする平賀源内の青春を、田沼意次やら杉田玄白、妙な義賊や市井の人々とのからみでえがく、当時としてはかなり斬新な演出のドラマであった。そこに登場する田沼は、幕政改革にもえる正義漢官僚で、旧守派と戦いながら、平賀源内のテクノロジーなどに手助けされて、さまざまな新政策を展開するのであった。
もちろんドラマなんだから、事実であるはずもないのだけれど、こういうところを読んだりすると、かなりその実像に近いものがあったのではないかと想像したりする。池波正太郎の「剣客商売」シリーズにも田沼意次がでてきて、やはり進歩的改革派という描き方は同じなのである。
もっとも、この「剣客商売」も書かれだしたのは72年ごろで、どこかの文壇バーで山本周五郎と池波正太郎、たまたま御相伴にあずかった早坂暁あたりが一緒に、「こんどはひとつ、歴史上の悪人の見方をひっくりかえすてのを一緒にやって見んかね、うわっはっは」とでっち上げをもくろみた、というようなところが本当なのかもしれない。
でも実際のところ、これらのドラマや小説で理想化された田沼意次というのは、その時代ある種の救世主としてもてはやされた、かの田中角栄の代理像ではなかったか、と私はおもう。戦後民主主義の建前が、その空虚さをついた学生反乱とともに終焉し、むき出しの功利主義が高度成長のバックボーンとして恥も外聞もなくあらわになった時代なのである。行くところまで行ってみるのも、結構面白いのではないかという気分が蔓延していたのだろう。
そしていま、それがもたらした残骸処理に直面させられているわけであるけれど。歴史的評価というのは、短期的価値観などで決定されるものではないというのが、田沼時代の評価すらさだかにできぬ自分への言い訳。(2003/02/13)
こういうサイトをやっていると、やたらにスパムメールが届く。サイトを自動巡回して、表面にさらしてあるメールアドレスを集めるようなスクリプトを使うのだろう。一晩に50通ほどメールが届いたのはいいが、スパムが半分、Klezが半分なんてときもある。そしてそのスパムも実にくだらないものばかりなのだが、中には来るのが楽しみになっているものもある。初めてそれが届いたのは去年の6月ごろだった。
そのメールの主は、昨年一月に暗殺されたカビラ・コンゴ民主共和国大統領の側近であったというエムボマ博士なる人物を名乗っていて、運用を任されていた三千五百万米ドルの秘密資金の保管に困っているので、一時的にそちらの銀行口座を利用させて欲しい、と言う内容であった。スイス銀行などに最終的には移す予定なのだが、複数の移送経路を用意して万全に備えたい。口座を利用させてもらえば、動かした金の25%を提供するとある。
隠し金があるのだが、おおっぴらには使えないので、特別の低金利で運用してもらえないか、というのはM資金詐欺で使い古された手口で、それを振り込み口座を使わせろ、という話に変えただけなのだが、なんと引っかかる奴がいる、とされるのである。これで一億円をだまし取られた(これで『だまされた』というのはちょっと違うような気がするのだが)日本人がいる、とする新聞記事もある。
このメールは発信地をアフリカ南部と名乗ることが多く、しばしばナイジェリアという具体的な地名が出てくることが多いので、ナイジェリアン・スキャム(Naigerian scam)と呼ばれている。かなり荒っぽいこともする詐欺集団が始めたものらしいが、それをまねたメールを出すだけの愉快犯も多いらしく、かなりのバリエーションがネット上を飛び交っているらしい。(こちらのニュースを参照のこと)
そうこうするうち、昨年10月にも同じようなメールがとどく。その時の内容はもっとストレートで、ナイジェリアの石油省副議長なる人物の名前で、裏金を世界各国で運用したいので口座を提供してくれないかというもの。
前回の資金額は3500万ドルだったが、この時は34億ドルであった。似た数字なのに桁が二つ違うのが面白い。口座を貸してくれたら、動かした金の20%を提供するとあるのは同じ。1億ドルだけでも振り込まれたら、労せずして20億円以上が自分のものになるわけだ。前回、黙殺してしまったのを長らく悔やんだので、このときは早速の返信である。
「とても興味ある話なので、詳細を聞きたい。そちらの事情が切迫していることもあるだろうから、口座番号だけは先にお知らせしておこう。印旛沼農協28034568(普)口座名義:濡手泡蔵である。返信をまつ。」(本当にこのとおり英作文して出したのである)
ところがなんの返事も来なかった。せめて事務費用の数千万をまず以下の口座に振り込め、とでもいわれたら退屈な日常がどれだけ潤ったことだろう。
そうしたら先日、こんどは私の個人用アドレスに、こんな英文メールが届いた。「連絡こう」という題名で、冒頭に私の苗字がかいてあり、あとにこんな文面がつづく。
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私はアデウェレ・アダムズ弁護士といいます。私は、ナイジェリアのシェル関連開発会社で働いておられた、貴国籍者のケネス・**(ここは私の苗字になっている)氏の代理人をつとめていました。
1999年の4月21日、依頼人とその夫人、そして3人の子供さんたちは、高速道路での事故に遭われ、全員死亡されました。それ以来、私は貴国の大使館を通じて、依頼人の縁者を探してきましたが、成功しませんでした。そして数回以上におよぶ試みの末、こうしてあなたに連絡を取ったのです。
あなたにお願いしたいのは、依頼人が残した財産を、預けてある銀行に没収もしくは引き出し不能扱いにされる前に、貴国に送り返す手伝いであります。銀行は3100万米ドルに上る預金を、10週日以内に近縁者を示さない限り没収すると通告してきました。
この3年、私は近縁者を見つけることができなかったため、私は同じ苗字の持ち主であるあなたに近縁者を名乗って3100万ドルの預金を相続していただき、しかる後に分配することに同意してもらいたいと思います。あなたには40%を差し上げます。私は手続きに必要な合法的書類の一切を準備します。この取引を成立させるために、あなたはよき協力関係を提供していただくだけでいいのです。
なお、この手続きは完全に合法的なものとしておこなわれるので、なんらかの法的訴追をうけることはないと保証いたします。どうかご連絡ください。すぐさま、この問題についてより詳しい相談をしたいと思います。
敬具 弁護士 アデウェレ・アダムズ
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このメールは発信者と宛名が同一で、両方アデウェレ弁護士と称する人物のアドレスになっている。どんな仕組みなのか知らないが、サーバーが収集したアドレスから推定される苗字をどんどん埋め込んで自動発信しているのだろう。新手のナイジェリアン・スキャムといえる。でもなんでナイジェリアにこだわるんだろう。
いやまてよ、こういうものを単にガセと決め付けるのも面白くない。一種の表現行為としてとらえるべきであろう。受け手も精一杯参加してあげないと。
そういえば、親戚に若いころ出奔したまま、行方知れずになってた奴がいたような気がしてきたなぁ。名前はたしかケンシロウ。英語圏でケネスと名乗っていても不思議はない。同名をたよってあてづっぽで出したというが、本当の縁者かもしれんな。その場合は正当に権利があるはずだから、40%なんてことで我慢することはない。向こうの弁護士には一割ぐらいはくれてやり、晴れて30億円をいただきましょうかね。
さてさて、早速の英作文。「メール、確かに受け取りました。しかし、なんたる偶然でしょう。ケネスはたった一人の私の叔父に相違ありません。貴職に置かれましては、私を近縁者に偽装する必要はなく、正当に相続権をもつ人間として手続きを進めるべく依頼したいと思います。報酬は10%ということで如何でしょうか……」
さて、春はクルーつきの豪華ヨットでも借り切って、派手に地中海クルージングといこう。その際には、ここの読者も無料でご招待するので、お楽しみに。(2002/03/14)
映画「007ゴールドフィンガー」を見たことがある人なら、女性が全身に金粉を塗られて殺されるというシーンがあるのを知っておられるだろう。ゴールドフィンガーが、ボンドの手助けをした女性を殺し、ボンドに宣戦布告するのである。(こちらにボンドが死体を発見するシーンのrmファイルが、またこちらにはボンドが上司に「皮膚呼吸を妨げられて死んだ」と報告するシーンのファイルがある)
子供の頃この映画を見て、全裸の女性死体という衝撃の方にばかり気をとられ、全身の皮膚を異物で覆うと皮膚呼吸が妨げられて死にいたるという「事実」は、えらくすんなり受け入れてしまったような記憶がある。これは人間は皮膚でも呼吸しており、しかもそれは阻害されると窒息死に至るほど重要な役割を果たしているという信念が、かのゴールドフィンガーのエピソードを見る以前から、すでに形成されていたからに相違ない。
今考えてみれば、全身の皮膚を金粉であれメリケン粉であれ、塗りたくろうが何をしようが窒息するわけがない。脊椎動物で多少なりとも皮膚呼吸が生存の役に立っているのは両棲類ぐらいまでで、彼らだって陸に上がって全身に金粉を塗られても窒息死はしないだろう。肺呼吸のほうがよっぽど効率的なのだから。
人間の場合でも厳密に言えば、体表に接した毛細血管では、きわめて微量のガス交換が起こっているとは思う。それは皮膚という器官がそれを可能にさせているのではなく、皮膚があるにもかかわらず、赤血球内のヘモグロビンの作用で起こるといったほうがいい。人間の皮膚は酸素が多量に浸透するような造りになっていない。
肺はきわめて薄い膜をへだてて血液と空気が接するようになっていて、慢性の肺疾患でこの膜構造が肥厚したり繊維化すれば、深刻な呼吸障害がおこる。皮膚みたいな分厚い構造をとおしてガス交換が可能なら、そもそも肺がそんな微細構造を持つ必要などないし、慢性呼吸不全などというものが起こることはなくなる。
中学理科の範囲でもわかりそうなこの事実に対して、映画とはいえ、なんで堂々と殺人手段に使われても疑われないほどの謬見が生じたのであろうか。しかも007だって信じているということからすれば、この間違いはかなりユニバーサルなものなのである。
余談だが、私は昔、いわゆる「暗黒舞踏」の劇団というか舞踊団とちょっと付き合ったことがあり、この連中が東南アジアのツアーにいったときの土産話で、この皮膚呼吸という信念の世界的広まりを確認したことがある。暗黒舞踏というのはご存知のように、ほとんど全裸に近いスタイルで行われる。しかも、全身を白いドーランで塗りたくっているのである。
ある国で、このスタイルがワイセツだとして、警察の取り締まりにあった。全員逮捕だ、警察署に連行するといわれた彼らは、このメイクを2時間以内に落とさないと全員皮膚呼吸が出来なくなって死んでしまうと嘆願し、警察官が認めたその隙にまんまと逃げおおせたとのこと。東南アジア方面にも、この皮膚呼吸伝説が充分通用する証拠であろう。
この皮膚呼吸が堂々といまも主張されているのが、美容関連の製品を売る企業の宣伝広告である。大企業はさすがにはっきりとは言わないが、多少トンデモがかりの「驚異の美容法」とか、「究極の増毛法」などをうたうところは、かなり意識的なデマ学説を主張する。
とある宣伝サイトのひとつからひろった文言はこういうものだ。「(一般の化粧品は)毛穴の奥まで入り込み皮膚呼吸を妨げます。皮膚は皮膚呼吸して若さを保っているのです。皮膚呼吸による酸素が送られないと肌はどんどん老化していきます」。もちろん、この後にはわが社の洗顔フォームを買えとか、怪しげな皮膚呼吸促進グッズを買えという宣伝になるわけだ。
皮膚というのは表面に出ている部分は角化した、ということはすでに細胞としては死んだ部分に覆われているわけで、皮膚表面から酸素補給して若さを保とうというのは無理だ。一方それらを作る生きた細胞は当然血流によって栄養素も酸素も供給されている。いまさら皮膚呼吸の助けなんぞ受ける必要はない。
それは汗腺とか皮脂腺が、化粧品カスとか凝固した脂肪なんかでつまっていればよろしくはないだろうから、適当に清潔にしておいたほうがいいだろう。でもそれは皮膚呼吸を維持するためにやるわけではない。増毛の場合も同じこと。毛根は皮膚表面から酸素を取り入れているのではない。効く場合もけっこうあるミノキシジル(リアップ)は皮膚呼吸を活発にする薬ではなく、血流を増加させる薬なのである。
人間というものは不思議なもので、合理的とか科学的一本で攻めるものにはなかなか納得しないが、部分的に科学の装いをとっていて、どこかに超越的神秘をかすかに感じさせるような理屈には手もなく屈服させられてしまうのである。
この皮膚呼吸説の場合、超越のしるしがどこにあるのかと考えてみた。それはおそらく、太古、陸を目指した両棲類たちを突き動かした、進化をつかさどる大いなる力への憧憬であろう。金粉やコールタールを塗られておこる死の恐怖とは、生きとし生きるものの全一性の確認、生命の大いなる連鎖の実感にほかならないといえるだろう。(2003/04/03)
学術的解説はこちらを参考に。このサイトは褥創処置に対する大胆な提言で医療関係者には有名なのだが、一般的な観点からも実にためになるので、トップからゆっくりご覧になることをお勧めする。私の「誰も入浴してならぬ」で述べたことの数少ない学術的応援のひとつ。
皮膚呼吸についての質問メールを頂いた方には改めて感謝したい。だいぶ前にこのテーマで書き始めていたのを、コロッと忘れていたのである。
最近更新が滞りがちなので、あまり引用しなくなった"Darwin Awards"の昔の記事を訳していた原稿を見つけたので、もったいないからアップ。もしかしたら講談社の「ダーウィン賞!」に訳出されているかもしれないが、手元に見つからないので確認できない。あの本が出たので、ここに載せるのをやめたんだったっけ。
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94年に行われた科学捜査学会の記念ディナーで、会長のドン・ハーパー・ミルズ博士は、法的解釈がきわめて難しいある死亡事件について語り、聴衆を驚愕させた。以下がその内容である。
94年の3月23日、検死官はロナルド・オプスの死体を調べ、彼の死因は頭部を散弾銃で撃たれたことによるものと結論した。オプス氏は10階建てのビルから自殺目的で飛び降りていたのである。彼は遺書めいた文書も残していた。彼が飛び降りて9階付近を落下していくとき、彼の命は窓から放たれた散弾銃の銃弾によって絶たれた。
撃った方も、飛び降りた方も、8階のすぐ下に安全ネットが張られているのに気づいていなかった。ビルの作業員の落下事故や、オプス氏のような自殺志願者の意図を防ぐためである。
「普通は」とミルズ博士は続けた。「自殺を図った人間は、たとえ意図した方法によるものでない形で死亡したとしても、なおかつ自殺したと定義されるものだ」
オプス氏は確実な死への道中のさなかに撃たれたのではなく、安全ネットによって自殺企図が防がれる可能性が高かったという事実は、検死官にこのケースを殺人とみなしたほうがいいとおもわせた。散弾銃が発射された9階の部屋には、老夫婦が住んでいた。そのとき彼らは激しく口論していて、夫は散弾銃で妻を脅していたのである。引き金を引いた時、夫はかなり興奮しており、発射された散弾は妻を外れ、窓を通ってオプス氏を直撃した。
人がA氏を殺そうとして、あやまってB氏を殺したとしても、その人はB氏への殺人の責を問われる。しかし、この場合は老夫婦双方にもそれは適用しがたい。彼らは両方とも、銃には弾が込められていないと思っていたのである。夫には妻を殺そうとする意思はなかった。それゆえ、オプス氏の死は事故ということになる。それは銃に偶然弾が込められていたということだ。
捜査は続き、事件に先立つ6週間前、老夫婦の息子がその銃に弾を込めているところを目撃した人間が現れた。それは老母が息子への経済支援を打ち切ったことから起こった出来事だった。息子は自分の父が散弾銃を脅しに使うことを知っていて、弾を込めておいて、母親が殺されるように目論んだのだった。この事件は、その息子によるロナルド・オプス殺人事件とみなされるようになった。
しかも複雑なことに、さらなる捜査が明らかにしたのは、その息子というのはロナルド・オプス自身であったということだ。彼は母親を殺そうという企みすらうまくいかないのに失望し、10階から飛び降りたのだが、その企みは彼自身が射殺される結果となって終わったのである。息子は確かに自分自身によって殺されたので、検死官はこのケースを自殺と結論付けた。
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掲示板で読者の方から教えていただいたのだが、このエピソードは映画「マグノリア」の冒頭に事実として紹介されているのだそうだ。Googleで、この話の話し手になっている"Don Harper Mills"の名前を検索すると、実にたくさんのサイトがこの話を実話としているのを見ることが出来る。ドン・ハーパー・ミルズ博士は実在の法医学者で、彼がこの話をしたのは事実ではあるそうだ。ただし、パーティでの小話として。
彼がこの段々落ち小話をしたのは1987年、実際に科学捜査学会の記念ディナーでのことだったようだ。これは聴衆にバカ受けし、あちこちの雑誌や新聞に紹介され、やがてネット上に登場したということらしい。たいがい事実として書かれるので、そのたびに博士のところに確認がくるということが、この十数年来つづいているのだそうな。テーブルスピーチも、あんまり受けすぎると大変だという実例かも。(2003/05/08)