京都関連の想い出話が続いているのに乗じて、更にしつこく追加させていただきたい。
表題の「河原町のジュリー」というのは、京都市の繁華街である四条河原町をもっぱらテリトリーとしていた、浮浪者の愛称である。今なら「レゲエのおじさん」とワンパターンで呼ばれる、油で煮固められたような蓬髪の持ち主で、襤褸をまといつつも威厳を失わぬ風格に、地元出身のスターである沢田研二の名をいつとはなく借りて、名付けられたものらしい。彼を歌った歌まであると言うが、私は聞いたことはない。
もっとも、この名前は同時多発的に付けられたようで、直接かかわりのないような、さまざまな集団でもそう呼ばれていた。大学時代だけを京都ですごした、と言う人と話をする機会があったとき、その人もまた自分の付き合いの範囲の中で、その浮浪者のことをそう呼んでいたと聞いた。
私は京都市近郊、といえば聞こえはいいが、周辺地区のど田舎で少年時代を過ごしたが、かなり小さい頃から、市内に行ったときには彼を見かけていたように思う。時代としては60年代以前だ。彼は河原町をただ徘徊している事が多かったが、時には三条大橋の上で物乞いをしていることもあった。彼は大柄で、徘徊と言っても常に堂々としており、前を行く人たちは自ずから、モーゼの前に割れる海のごとく、道を譲っていたものだ。その頃は当然、沢田研二もこの街には出現していなかったので、呼び名は違ったのだろうが、私には大阪のあたりでみる普通の浮浪者とは、まったく違う雰囲気を彼から感じ取っていたものだった。
物乞いと言っても、彼は決して卑屈な態度は示さず、橋の上にどっしりと聖者のごとくあぐらをかき、伸ばした背筋をわずかに15度ばかり前傾させ、両手は膝の前に拳を作って添えられていた。その前に置かれた空き缶には、時おり小銭が投げ入れられたが、彼はそれに対しても声一つ発さず、身じろぎ一つしなかった。その態度は、長い歴史の中で、程近い河原で首をはねられていった、敗者となった幾多の武将たちをも髣髴とさせる、凛としたものであった。
三条大橋の下に住んでいる、と噂されたが、遊歩道のそばなのだから、ちょっと調べれば判るはずなのに、だれもそれを確認はしていなかった。大体、夏になれば川床に桟敷が作られる場所で、すぐそばに浮浪者の棲家があれば、関係業者としてはかなりまずい事態であったはずで、何らかの対処がされていても不思議はない。なにか特別な扱い、というものがあったと言う事なのだろう。
そうした特異な浮浪者であったためか、彼にはいろいろな伝説が語られていたものだ。いわく、彼は裕福な老舗の後継ぎであったが、ある日世の無常を知り、ああして無一物で暮すようになったのだとか、いやいや、彼自身今も大資産家であって、ああいう生活は単なる趣味としてやっているのだとか。夜になれば高級車が迎えにきて、身づくろいを正した後、祇園で一遊びして、南禅寺あたりの邸宅に帰るのだと。ちょっとしたメイクではとてもあの迫力は出せそうにない雰囲気ではあったが、結構本気で噂し合ったものだ。
今考えると更に不思議な事に、京都といえども100万都市で、浮浪者の10人や20人ぐらいいてもよさそうなものなのに、私の記憶にある浮浪者は彼一人であった事だ。彼の特異性で他のフツーの浮浪者たちの記憶が薄れた、と言うことなのかもしれないが、やはりあの時代、あのあたりには彼一人しか浮浪者がいなかったような気がする。街の人々が、彼に愛称をつけて程々に許容していたことをもって、京都という街のリベラルな懐の深さ、と評する人もいるのだが、私にはそれは、自分が損にならない限りでの革新的物分りのよさを示す、いわゆる左京区市民主義の発現であったように思える。あのころ、別の新参者が出てきたら、有形無形の手段ですばやく排除されていたのではないだろうか。
私が彼を最後に見たのは、70年代中ごろに帰省してきていた時であるが、かれは昔見た頃とまったく変わらぬ、油で固めたような長髪で、ゆっくりと人ごみの中を徘徊していた。昔は気づかなかったが、彼は絶えず対話性の独語をしている様子で、威厳ある表情と言うのは、慢性分裂病による感情鈍麻と、緊張性興奮があいまったものがそう見せていたように思われた。
その後、また関西で暮すようになって、このあたりに出てきた時には彼はもういなかった。その代わり、ごく普通のホームレスたちが、当たり前の地方都市同様、あちらこちらと所在無さげにたたずんでいたものだ。彼らはもう町の人から愛称で呼ばれることのない、無名にして、顔のない浮浪者たちなのだった。
なお、河原町のジュリーと呼ばれた浮浪者は、80年代初めに死んだと言う事だ。ある冬の日、彼は円山公園のベンチで寝ていて凍死したらしい。地元新聞には彼の死が大きく報じられ、有志による追悼式まで行われたという。左京区市民主義も、その程度のけじめはつけてくれた、ということだ。彼を更生させようとした熱心な市の福祉職員が、嫌がるのを無理やり散髪させたため、保温手段がなくなってしまって凍死した、というささやかな伝説だけがその後に残った。(2001/01/03)
前から何度か資料だけはあさっていたが、なかなかまとめるに至らなかった話題の一つが、この「メンソールタバコ」に関する噂である。これはほとんどの人が聞かれたことがあるに違いない。いわく、「インポになる」「あれを吸う奴にはホモが多い」「普通のタバコより肺がんになりやすい」などなど。掲示板のほうで質問が投稿されたので、ちょっとネタとしては薄いのだけれど、触れてみることにしたい。
この噂は、米国では健康不安をもたらす内容に加えて人種差別ネタが加わり、より複雑な様相を示している。たとえばここなどを参照されれば、向こうでのメンソールタバコに関する噂は、もっぱらそちらがメインだと言う事がわかっていただけるだろう。そもそもメンソール入りでなくても、タバコはしばしば人種差別と結びつけて噂される。
先ほどの参照記事をそのまま追えば、向こうのブランドであるキャメルやマルボロの製造会社が悪魔崇拝団体、あるいはかの人種差別団体「KKK」によって経営されている、という噂が繰り返し流れているということだ。その中でも、向こうのメンソールタバコの代表的銘柄、クールはもっともその頻度が高いそうだ。
その根拠として、頭文字をわざわざCからKにしたからだ、などという貧弱なものもあるが、実際にメンソールタバコがアフリカ系米国人によって好まれる、と言う統計的事実が信憑性を加えているのだそうだ。タバコを吸う黒人の実に75%がメンソール入りを好むそうだ。もちろん売上実数としては、白人のメンソールタバコ喫煙者のほうがよっぽど多いのだけれども。
そういう多少怪しい根拠から、メンソールタバコはアフリカ系米国人たちを肺がんにしたり、インポテンツや不妊にして絶滅させようという、人種差別団体の陰謀だ、と言うのが向こうの噂だ。もちろんここには、メンソールタバコは普通のタバコより害が多い、という前提となる噂の存在がある。
それでは本当にメンソール入りタバコは、普通のタバコより害が多いのだろうか。例によってPubMedを使って、これに触れた医学論文がないかどうか検索してみる。"menthol cigarette"単独だけでも26件しか引っ掛からないので、全部確認してみた。その26件のうち、副流煙の問題など、直接メンソールと無関係なもの、基礎的研究を除くと18件がのこる。
そのほとんどが、黒人のほうが白人と比べて肺がん罹患率が2倍近く高い事実を指摘している。そのうち8件は、黒人と白人の間でメンソール入りタバコの好みに、明らかな差があることに触れており、人種間の罹患率差を説明できるのではないか、としている。さらにそのうちの2件は、黒人のほうが喫煙量は少ないにもかかわらず、血中ニコチン濃度やCO濃度は高い事を指摘し、メンソールがそれに積極的に関与している可能性を示唆している。
人種間の差抜きに、メンソールの影響を検討した論文もあり、メンソールタバコはニコチン、COともに濃度を上げるとしたものと、総量を考えると無関係とするものもある。要はメンソールが入っているとスパスパ吸ってしまい、吸引量が増えるというのだ。しかしこれにはまったく反対の結論を主張する論文もある。
疫学的な調査も4件あり、3件はメンソールタバコと肺がん、1件は食道がんとの関連を検討している。カリフォルニア、オークランドでの肺がん調査で、メンソールタバコを吸う男性に1.45倍の危険性増加があると統計的有意差をもって示しえる、としているが、他の調査では有意差を示せていない。(食道がんの調査では、女性のメンソールタバコ使用者にわずかな危険性増加が示されるが、統計的には弱い)
以上まとめると、アフリカ系米国人に肺がん発生率が高く、またアフリカ系米国人のメンソールタバコ喫煙者の率も高いというのは事実なのだが、前者を後者で説明するのは難しい、ということになるだろうか。ましてや、一般的に、メンソールタバコは普通のタバコより危険だ、という結論を導くのは難しい。
このアフリカ系米国人とメンソールタバコの噂が日本に中途半端に入ってきて、例の「インポ」云々の噂になったのだろうか。私はそうではないと思う。向こうの噂には、もっと重い歴史があるに違いない。奴隷労働者としてアメリカ大陸に連れてこられた彼らの先祖は、タバコ農園などで重労働させられた。タバコ産業は、彼らを収奪しぬく事で今日までの隆盛を得てきたのだ。そんな連中は、生え抜きの人種差別主義者に違いない、という人々のかなり間接的な非難と、自分たちを安全な場所に分離しようとする暗黙の目論見が、タバコ会社=KKK説として何度も登場する原因となっている可能性は高いと思う。
メンソール入りタバコでカッコなんかつけずに、そんなもの拒否することで、連中にもっと怒りをぶつけらどうだい、そのままじゃ連中のいいカモだぜ、という影ながらの無責任な応援が向こうでのこの噂の根拠になっている、と言うのは考えすぎか。
では当地での噂の根拠はどこにあるのだろう。これはかなり前にここでも触れたように、毒物である事は明らかなタバコに、香料入れようが、フィルター工夫しようが関係ないといえるわけで、こういうふうに目先をごまかして、消費を伸ばそうという利権企業の手口にころりとだまされてしまう、消費者の自嘲を外在化するものとして出来てくるのだろう。もちろんそれは米国でも基本だろうが、より対象が絞られた噂となる分、かの地での深刻さは違うようだ。(2001/01/09)
今日の首都圏は、この冬一番の冷え込みだそうだ。それに乗じて、医学とは関係のない話題でネタつなぎさせていただく。
英語圏の都市伝説パクリ元とさせてもらっているここで、ある英語表現が題材にされていた。それは"cold enough to freeze the balls off a brass monkey"、「とても寒い」という慣用表現である。
この言葉の語源として、普通はこう信じられているのだそうだ。昔の英国海軍軍艦では、丸っこい大砲の弾をピラミッドみたいに積み重ねていて、それを固定するため、デッキには真鍮製の金具を押さえに使っていたのだが、余り寒い日には真鍮が収縮してしまって、砲丸が転がり落ちるので、この意になったと言われるのだが、それは違う、という内容である。ただ、違うと言うだけで、語源は不明とされている。
実は10数年前に、この表現を友人から聞いたことがある。その時は砲丸ではなく、「真鍮の猿のキンタマだって、凍えもげちまうぐらい寒い」と教えられた。友人がニュージーランドを旅していて、この表現を覚え、とても寒い日に、「真鍮猿のキンタマももげそうなぐらいだね」と地元の人に話し掛けたら、満面破顔で「そうさね、ましてあんたのもちものなんざぁ」と応じてくれたという話。
ガイジンが妙にこなれた日本語の言い回しを使ったりすると、普通ちょっと引いてしまうものだが、余りにもツボにはまった表現だと、急に親近感を感じるようになる、という体験はまれにあるもので、この"Brass Monkey"表現は向こうの人にそう言う感覚を覚えさせる部類のものらしい。
その意味の起源として、英国海軍をもってきて、しかも「睾丸」ではなく「砲丸」にしてしまう上品化が図られる、というのは、危ない要素もある生きた言語を慣用化するさい、無難なものに変えようとする無意識の圧力のせいであろうか。ちょっと検索してみると、"the balls"のところはもっとはっきり"the privates"と言われる場合もあるようで、「真鍮猿のキンタマ」というのがやはり本来であるようだ。先のサイトでは、はじめのうちは耳とか鼻、ひげと言っていたのが、より強調された表現として"the balls"が出てきたとされている。耳が凍え落ちるよりも、キンタマが凍え落ちるほうがさらに寒そうですからな。
言語表現と言うのは常に新しく生み出されていて、同時に陳腐化していく。出てきた当時とはまったく違うような意味が付与されていく事も多い。それでちょっと思い出すのは、"son of a gun"と言う表現である。これは辞書などを引くと、「まぬけ。阿呆」と書かれている。類似表現の"son of a bitch"が今もかなり侮蔑的であるのに、これはだんだん漂白化される方向に向かったらしい。ある時、これはナウな英語ネイティブの間では、「大した奴、いかした奴」と言うような意味で使われる言葉だ、と英会話教師をしていると自称する人(日本人)から教えてもらったことがある。
しかし、私はそのちょっと前に、かのヨーコ・オノ氏の弟で#、保守派の外交評論家として高名な加瀬英明氏がTVでこういっていたのを聞いていた。彼は、旧日本軍の従軍慰安婦問題にふれ、軍隊付き娼婦を発明したのは日本軍ではない、昔の英国海軍なんか、堂々と軍艦に娼婦を乗せていた、"son of a gun"という言い回しは、大砲の陰で商売をしていた彼女たちが生んだ子供の事を意味したのだ、といって良心的告発者たちを煙に巻いていた。
加瀬氏の言っていたことが事実かどうか、私には確認のしようがないが、もともとは"son of a bitch"とまったく同じ文脈で使われたらしい、というのは聞いていたので、程々の信憑性はあるのかもしれない。"a bitch"という直接的な言葉がない分、語源は忘れられ、その大雑把な語感のおかげで、やがて「大した奴」と言うような意味も生じたのかもしれない。
私は先の自称英会話教師に、こんな話も聞くのであまり日本人がうれしそうに使うような言葉ではないのでは、と疑問を呈したところ、彼は猛然と反発した。そんな話は聞いたこともない。私の上司は米国人だが、それはしょっちゅう使われる。この前など、私が間違ってPCファイルをまとめて削除してしまった事があり、その時など上司は肩をすくめこう言ったものだ。"Oh. You, Son of a Gun !"。
でもそれ、侮蔑はなかったかもしれないけれど、コンサイス英和辞典にも書いてある、「阿呆」という意味としか思えませんけど、と指摘しようと思ったが、彼は英語の軽口をガイジンたちと話して暮す、というのだけが意味ある生活だと信じて疑わぬ様子だったので、それ以上の意見交換は差し控えた。なるほど、あなたは"son of a gun"であるようですな、と。
何度か書いたことだけれど、英語と言うものが地球語になるのは避けがたいと私は思う。日本語はもちろん、数の上では圧倒的アドバンテージがあるはずの中国語だって、この成り行きには勝てないと思われる。非英語種族として育った私たちは、かなりの不利をもって、この状況に参入するしかないのだが、某駅前留学CMに典型的なように、気の効いた表現を覚える事が英語習得だと言う風潮を受け入れている限り、地球語の発信者となることは永久に不可能だと思う。
とりわけ、英語ネイティブ、およびその追随者というのはしばしば、表現を極端化しておいて、そのうち取り澄まし改ざんをする、という傾向があることを忘れてはならないだろう。(彼らは今、"FUCK"というのを、ほぼ万能動詞として使うが、絶対どこかで元の意味をごまかすに違いないと私はにらんでいる)
それはどんな市井の人だって、俳句や詩歌などの原初的な表現型式に立ち返ることで、言霊の力を取り戻せると信じている人が多数を占める、私たちとは少々あい入れないものだ。せいぜいがマザーグースぐらいしか立ち戻れない連中などに、地球語を任せきりにしてはいけないというのが、いささかとってつけたここでの結論である。
ところで、なんで"Brass Monkey"なんでしょうな。ああいう風にややこしく言わず、" It was Brass Monkey weather" などと言う事もあるようだ。理由をご存知の方は教えてください。
(2001/01/13)
#複数の人から、従姉弟だったんじゃないの?という指摘をいただいた。私の記憶では異母姉弟だったはずなんだけれど。あまり固執はいたしませんが。
私は子供の頃から風呂が嫌いである。職場の温泉旅行なんかに行っても、のんべんだらりと入浴するのが全然楽しくない。多少は清潔を保つ事には吝かでないから、シャワーぐらいは浴びるが、出来れば風呂には入らずに済ませたい。大体熱いお湯、というのが苦手で、温水プールぐらいの温度でないと、中に入れない。夏の間は、前日の風呂の残り湯ぐらいがちょうどいい。海外などでシャワーしかないホテルに泊まると、ほっとする。
そんな私であるから、大多数の人が「風呂に入る」と言うことをとても大事な事のように言うのが、不思議に感じられてならない。特にこの商売をしていると、患者さんから、まるで入浴許可権をもっている人間であるかのように「風呂に入っていいかどうか」をしばしば尋ねられる。そう言えば子供の頃から、何らかの病気にかかるとか、医療行為を受けるということは、そのまま入浴制限と直結した。特に注射を受ける、というのは入浴禁止を意味したものだ。考えてみれば、あれに根拠などあるはずがなく、好き嫌い関係なく清潔にしていたほうがいいはずで、なんであんなに入浴が制限されたのかさっぱりわからない。
もっともこちらは入らずにすめばラッキー、と思っている。でも、ほとんどの人は私とは逆に入浴が大好きで、治療を受ける限りは、禁酒とか食事制限、安静などの患者として課せられるべき当然の節制の一つとして入浴禁止があるはずだ、と予想しているようだ。そこで私などが無愛想に、「入りたければ入ったら」と答えると、大概の人は意外な表情を見せる。予防注射を受けにきた人など、親切な看護婦さんが、「今日は入浴をひかえて」などとすでに説明していたりするので、かなり怪訝な眼で見られることもある。最近は私の外来の時だけは、入浴禁止と言わなくなってくれたみたいだが。
どこかで書いたかもしれないが、欧米では熱が出た時の対処として、冷たいシャワーを浴びさせると言う指導が一般的だ。アメリカではそれに加えて、脱水予防のために冷えたコーラを飲むようすすめる。暖かくしてオカユでもすすらせ、風呂にはいらずに様子を見る、と言う昔の日本ですすめられたスタイルとは大違いだ。合理性と言うのは明らかに欧米の指導にあり、日本式はせいぜい熱発初期の悪寒戦慄が来ているときに有効なぐらいだろう。
かなり以前「冷えたら風邪をひく」というのに根拠はない、という論文を紹介したことがあるが、風邪をひいたら風呂にいれない、というのは「風呂=湯冷め」という理屈でさらに冷えが加わるから悪化するに違いない、と言う発想だろう。確かに日本人の風呂の入り方は、たっぷりとしたお湯に首までつかる方式で、あれは全身に圧力がかかって静脈帰還量が一気に増えるであろうから、肺うっ血なども引き起こす可能性がある。肺炎など起こしていればよろしくないには違いない。しかし普通の風邪ひき程度ではまず関係ないし、常識の範囲でさっと入って清潔を保つ分には何の不都合もないのは明らかだ。
不思議なのは注射の後の入浴制限で、注射部位の感染と言う事を考えているならそれはあまりに根拠薄弱だし、やはり入浴が体力を奪い、思わぬ副作用を発現させるという、いささか神話的な不安がその根拠になっているに違いない。それを成立させるのは、入浴は至高の快楽だという通念なのだろう。私みたいにまったくその通念を共有しない人間には、ただバカバカしいだけになってしまう。まして、医療機関や医療従事者がその神話を再生産してきたのは、まったく理解できない。この関連で検索してみると、結構ちゃんとしたサイトで、「根拠はないが、それが社会通念なのだから、いまさら逆の事をさせなくてもいいでしょう」などと、妙な事なかれ主義を主張していたりする。私は案外古典的啓蒙主義者なので、こうした思い込みはそのまま放っておけ、と言う態度には組したくない。
ある種の心気症候群に陥っている人の中には、延々と続く感冒様の自覚症状を訴え、数ヶ月にわたって入浴しない、と言う対処法を実践している人を見ることがある。これは一つの症候群にまとめてもいいのではないか、とすら私は思っている。「風呂も我慢しているのによくならないんです」と彼らは言うのだが、そこにはえらくバランスを逸した健康を構成する要素への信念がある。一方で食生活などはてんでデタラメだったりするのだ。
なぜ、彼らの思考の中で、入浴の断念というのが一番有効な節制だ、と言うところに落ち着いていくのか、いろいろ考えた事があるが、明解になったとはいえない。こういう人たちは、入浴と言うものを日常に持ち込まれた一種の死と再生の儀式としてとらえていて、それによって過去のわだかまりがチャラにされてしまうのを恐れるのではないか、それと社会通念的な入浴=快楽観念が結びつき、入浴しない事の神話的パワーを確信するようになっているのではないか、というのが今のところの考察である。これにはもっと深刻な精神疾患における不潔の持続とか、昔のシャーマンなどが不潔なまま霊的儀式を続けていた事とか、と言った事も視程に入れる必要があると思われる。
話がだんだん大げさになってきたが、病気と入浴制限というような単純な社会的通念は、案外民族文化の深遠なところから発生していることがあるものだ。今回はちょっと調査不足で、具体例や資料を示せなかったが、ぜひ詳しい議論を展開してみたいと検討中。それで忙しいので、今日はお風呂入るのはパス。
(2001/01/21)
久々にsnopes.comの引用ではじめたい。昨年12月17日、英国の大衆紙、「バーミンガム・サンデイ・マーキュリー」紙の名物コラム「いかれた世界」に掲載された記事とされ、URLでも判るように「恐怖譚」の分類となっている。
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ある出版事務所の従業員が仕事中急死したが、5日間、同僚は誰も気づかなかった。職場の上司がこの問題について説明している。
ジョージ・タークルバウム氏(51)は、校正係として30年間、ニューヨークの出版事務所に勤めていたが、心臓発作のため、23人の同僚がいる編集室で急死した。
彼は月曜日、ひそやかに死を迎えた様子だが、同僚は誰も気が付かず、土曜日の朝になって、掃除係が何で週末に仕事しているのだと声をかけ、ようやくその死が明らかになった。
彼の上司であるエリオット・ワチアスキー氏はこう語る。「ジョージはいつも朝一番に来て、夜は最後まで残って仕事していた。何もしゃべらず、おんなじところに座ってても、誰もおかしいと思わなかった。あいつはいつも仕事に没入してたからな」
司法解剖によって、彼は5日前に心筋梗塞を起こして死亡した事が確認された。皮肉な事に死亡時、彼が校正していた原稿は、医学教科書だった。
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この記事は、ロンドン・タイムスを含む、いくつかの英国の一般紙にも転載されたという。「デマだ」という反応が押し寄せたらしく、サンデイ・マーキュリー紙は一昨日、フォロー記事を掲載した。
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もちろんあの記事内容は真実だ。
あのコラムは、キース・チョークリーによってまとめられているが、彼はこの地球上のさまざまな場所で起こるおかしな出来事を引き出してくる、天与の才能をもっているジャーナリストだ。キースはこう語っている。「あのニュースはニューヨークのラジオで聞きとめたものだ。NY警察でも確かめたが、ああした事件は向こうでは珍しくないと言う事だ。75年にはマンハッタンで、保険会社の社員が職場で死んだが、その時には18日間も気づかれなかったということだ」
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これを紹介するsnopes.comの記事では、当然のごとく数点の疑問がそえられている。まず、ニューヨークのいかなる新聞にも上記の事件は報じられていない事、出所はサン・マーキュリー紙だけであること、極めてあいまいな「ラジオニュース」をソースとしている点、フォロー記事にしても、この事件そのものを証明しているわけではない事、などだ。
urbanlegend.about.comの掲示板でもこの記事が話題になっているが、「ジョーク記事である」と意見は一致している。いくら冬だとは言え、暖房のある部屋に5日も死体があれば、腐敗してきて臭いだすし、それ以前に失禁などがあるはずだ、誰も気がつかないはずがないという、極めて常識的な意見が続いている。
実際、人間の体とはおかしなものだ。私などは、何年も寝たきりで床ずれがそこらじゅうに出来、ほとんど生きながら腐敗しかけているような老人患者を診たこともあるが、それでもそれなりのオーラというか、生命存在を感じるものだ。自宅介護状況や、管理の悪い老人施設などで、そんな患者にハエがたかっていたりするのもよくみる。
不思議な事に、そう言うハエは普通のクロバエなのだが、いったん彼らが死の旅路についてしまうと、突然どこからともなく金蝿が集まってきたりする。どうもハエの間でも、受け持ちが決まっているらしい。微妙な臭気の変化だけでは、そう言う反応は説明しきれないのではないかとすら思わせるところがある。私のような勘の鈍い人間でも、生きている人と死者には、血色がいいとか、呼吸しているとか、多少は身動きする、といった五感を超えたところで違いを感じるぐらいなのだから。したがって、私もこの話が事実だととても思えない。
しかし、何か特別の状況があったのかも知れず、ジョークなのか、事実なのかをそんなに厳密に判断しようはないともいえる。だが、そこで終わっても中途半端なので、似たような話、と言えないこともない、私の分野での経験談を紹介したい
初老期痴呆の稀なタイプとされる「ピック病」と言われる病型がある。これは痴呆そのものよりも、まず性格変化、行動異常が先行する困った状態で、ミクロ組織病理学的にはアルツハイマー病とそう違いはないのだが、マクロレベルでの初期病変などでは微妙な違いがある。なにより、この状態では痴呆そのものはそうひどくないのに、変な反社会的行動が目立つのが特長である。
私は研修医時代、ある定年真近の地方公務員の症例を受け持った。自宅では、仕事に行く以外、数年来ほとんど外出しなくなったことぐらいしか気づかれていなかったが、職場で突然フロアのごみ箱に放尿したりして不審がられていた。ある時掃除に来るおばちゃんに抱きついてワイセツな行為を強要した、という事件をおこし、病院受診となった。この人は某地方自治体の広報課次長かなにかで、部下には若い女性も山ほどいたのだ。なんで好き好んで、六十過ぎた掃除のおばちゃんに抱きつかねばならんか、という周囲の当然の疑問が、警察沙汰にならずに病院直行となった理由の第一であったらしい。
未熟な私は、この人の異常をほとんど見抜くことが出来なかった。何を聞いても「やっ、ごくろうさん」とにこやかに答えるばかりなのだ。言語接触は充分でないけれど、痴呆もそうあるように見受けられない。とぼけているだけではないか、と思えた。「てめえ、ネタは全部上がってるんだ」と机を叩きたい衝動に駆られつつ、「単なる婆さん好みのスケベジジイでしょう。こんなの病院が引き受けることじゃないですよ」と指導医に訴えたのだが、指導医の言うには、「典型的なピック病だ」とのこと。ピック病には「考え無精(ぶしょう)」という投げやりな多幸的態度と、「滞続言語」という、何を聞いても同じようないいかげんな答えをする特長的な症状があり、ここまできれいに出ている症例はそうあるものではないという。
この公務員氏は、それまで職場では非常に評判がよく、部下のミスにも「やっ、ごくろうさん」と責める事もしなかったという。朝は一番に来て、出勤してくる部下たちには、「やっ、ごくろうさん」、退出も一番最後で、先に帰る部下たちに「やっ、ごくろうさん」と言い続けていたという。もちろん、ハンコをもらいに来る時も「やっ、ごくろうさん」だ。どうも数年以上前からそれに近い状態だったらしいのだが、そう困る事もないので、部下たちは問題にしないでいた。この「やっ、ごくろうさん」が滞続言語だったわけだ。
家庭には多少の問題があって、簡単に言えば家庭内離婚に近い状態で、ほとんどまともに面倒見られていない状態だったのだが、彼はそれでも破綻は見せなかったらしい。「単なるスケベジジイ」とみた私にも、受診時、ワイシャツの上にラクダのシャツを着て、それからまたワイシャツを着て乱れたネクタイをしめている彼の様子は普通ではないとみえたが、ちょっとわざとらしいな、法的訴追を恐れているのだろうな、と深読みしてしまったのが眼を曇らせた。
結局彼は数ヶ月大学病院に入院したが、急速に痴呆症状は進行し、寝たきり状態となって関連病院に移動し、ほぼ一年後に死亡した。かなり最後まで「やっ、ごくろうさん」は残ったらしい。痴呆の割には、かなり的確なワイセツ行為を看護者に仕掛けるので、可愛がられつつも油断ならない人とされていたという。
この公務員氏が、自分の行動に責任をもてる人格を維持していたのはおそらく、最終的異常行動の発現の数ヶ月前程度ではなかったか、と他の情報も加味すると推測できる。それでも何の不都合もなく、自治体の中間管理職として仕事をしていたという事実に、私は先の「職場での気づかれない死」以上の恐怖を感じるのだが、いかがなものであろうか。
(2001/01/30)
「日記」のほうで、「大ネタを得てはいるのだが、さすがの私にも公表する勇気がない」などと書いた内容に関して、念のため検索してみたら、「インターネット秘宝館」なるサイトでかなり以前から公表されているものだ、ということが判明した。そう言うことなら、またここで再録するのもそう問題はないだろう。こういうものを示すのは、単なる揶揄とか中傷ということではなく、制度や秩序というものに対して、しばしば観察される人間の根源的二律背反的な態度の解明というのがその動機だ、ということは理解していていただきたい。
先のサイトでは、以下の文章は、今はなき某アングラ掲示板に掲載されたものだという。私はその数年前、パソコン通信の時代にこの文章に出会ったことがある。
いずれにせよ、まったくのフィクションであるのは間違いなく、ここで取り上げるのは心苦しいのだが、ネタ切れにはあらゆる配慮が優先するのです、ホント。バカバカしいわりには結構読みやすい文章なので、一読していただきたい。
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昔々、あるところに小さな王国がありました。そこの王様はとても立派な人格を備えておられ、いつも人々の幸福の事ばかり考えておられる方でした。国民も、そんな王様をとても敬愛していました。
美しいお妃様と、二人の王子と一人のお姫さまとの生活もうらやむばかりの仲睦まじさで、国民は皆この王室を頂くことに深い誇りを持ち、日々仕事に励んだ為、近所の国から妬まれるほど豊かな国になりました。
ところが、側近なら皆な知っていたことなのですが、この王様には一つだけ困った癖がありました。それは、女性への慎みに欠ける行動を押さえることが出来ない、言い換えれば女癖がとても悪い、と言う事だったのです。そもそも町娘出身のお妃さまは、自分が玉の輿に乗ったきっかけもそれだったため、あまり強い事も言えず我慢をしていました。
しかし、お妃さまが第一王子を出産された後お身体をこわされ、もう御懐妊が望めぬ事になったため事態は深刻になりました。
王様がお付きの女官や、出入りのはしためなどにお情けをお掛けになり、世継ぎ懐妊となるたびにお妃様は世間の目をさけて、それらのものの出産を待ち、自分が生んだかのように振る舞わねばならなかったのです。
情けを得た女官のなかには、そんなお妃様に堂々と反抗する者まで現れ、お妃様はとても悲しい日々が続いたといわれます。
先先代の王様までは、側室という制度もあったのですが、先代の王様はとても剛直にして潔癖な方であられたので、そのようなあやふやな物を王室から追放してしまわれたのです。この国の基礎を築いた、この偉大な先王様への反抗があの女癖の悪さなのかな、と口さがない王室すずめ達は噂していたものでした。
国民のなかにも、そういえば第一王子と他の方があまり似ていない、頭の出来も後の二人はあまりおよろしくない様子だ、などと疑問を持つものもいたのですが、あえて口に出すものはおりませんでした。
というのも、この国はとてもよく治まっていたのですが、王室のことになると何故かタブーがあり、妙な事を言おう物なら、恐ろしげに吠える竜を載せた車をぞろぞろと引いて来る無法者の竜使い達が、家の周りに一日中たむろして脅す、ということがしょっちゅうだったのです。悪者をとりしまる役人も、竜使い達だけにはてんでいくじがありません。大臣のなかにも竜使いの扱いに困って、はしたないことをして地位を棒に振った者がいるほどです。
でも、そのうち王様も年を取られかっての悪癖もおさまってこられ、お妃様の御不幸もいやされたかに見えたのですが、宿命とは恐ろしい物です。王様の悪い癖が、第二王子にそのままうけつがれていることが、次第に明らかになってきたのです。
学舎に巣くう遊び女などと、適当にお楽しみになっておられるうちはよかったのですが、側近の博士の一人娘が王子に礼畏怖され、身ごもってしまい、問題は複雑になりました。博士は森外れに住まう魔女のところで泣く泣く娘に水子の術を受けさせましたが、それが幾度にもおよび、ついに王様に直訴しました。
躊躇される王様に対して、お妃様はいつになく強く御進言され、第一王子に先だって第二王子を博士の娘と結婚させました。うすうす事情を知っていた国民も、愛くるしい新しいプリンセスをみて、心から祝福しました。ここの国民はとても単純でした。
それで割を喰ったのは第一王子です。彼の結婚話は何故かお妃様にことごとく気にいられず、ずるずると先延ばしになっており、街衆の適齢期などとっくに過ぎてしまっていたのです。父王や弟みたいな行動をとるには、いささか品位が高過ぎ、しかたなく王子はあちこちと山に登ってみたり、父王以上に公務に精を出してみたりしてイライラをおさえておられました。
お妃様にしてみれば、自分をいじめてきた女官や王室の小姑にすこしでもつながる者を、愛するただ一人の息子の嫁になど出来ない、と言う気持ちだけでなく、散々泣かされてきた女癖の悪さの遺伝を王室から一掃したい、という気持ちもあったのかも知れません。といって、町屋の娘と結ばせるには、第一王子はいささか積極性にかけ、なかなかうまくいきません。積極性が過ぎるのも困ったものですし、昔から世の中はうまくいかないものだったのです。
さて、この王国はこれからどうなったのでしょうか。なんでも、この国はあれほど栄えていたにもかかわらず、このあと程なくして滅んでしまったとかで、いまでは言い伝えさえも残っていません。今となっては、お妃様と第一王子の不幸が、この国の没落と無関係であったことを願うばかりです。
おしまい
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この「寓話」が具体的に何を示唆している話なのかを、いまさら解説する必要はないと思うので、ここでは避ける。内容からすれば、平成五年以前に書かれたものである事は確かだろう(その年に、浩宮皇太子殿下の御成婚があった)。いずれにせよ、極めて悪意に満ちたものであることは間違いない。
冷静に内容を整理すると、この文章は三つのトピックを示している。
(1)この国の「王様」は人格者ではあるものの、女癖がよくない。女官、端女構わずお手つきにしてしまう。
(2)お后様は第一子誕生後、不妊になられた。第二子、第三子はお后が生んだ子供ではない。
(3)第二王子は王様の女癖の悪さを増幅して受継ぎ、かなりの問題を起こしつづけている。
現実との関連は無関係なところで語っている、ということを忘れていただきたくないのだが、(2)(3)をほのめかすような噂話を聞かれた人は数多いのではないだろうか。とくに(3)に関連して、上の寓話から無責任に連想される、某宮家の行状に関しては、一時かなりの報道がなされたし、それがいつのまにか立ち消えになった事も含めて、不審の念を抱いている人は多いに違いない。
また、(2)に関しては、専門家の業界で何度も繰り返し語られているものだ。現皇后陛下は第一子誕生後、「胞状奇胎」に罹患され、手術を受けたと正式報道されている。胞状奇胎は、受精卵が一種の腫瘍化に陥り、子宮壁を侵すものだが、普通は適切な治療で完治し、その後の妊娠にもまったく影響はない。
しかし、一部には「破壊性胞状奇胎」と言う厄介な状態になる事も稀にあり、こうなると一種の悪性腫瘍に近いため、子宮全摘術を行う事もありうる。当然、その処置後には再妊娠はありえない。現皇后におかれて、まさしくそのような不例があった、という無責任な噂が、根拠もなく何度も語られている。そのなかには、第二子、第三子の母親の名前まで指摘するようないいかげんなものまである。もちろんここでは、そこまでの無責任さには組せず、それを明記したりはしない。
問題は(1)である。さすがにこれはマスコミはおろか、イエロージャーナリズムのレベルでも取り上げられる事はなかった。伝えられる噂では、この「王様」は、まったく「邪気」と言うものとは無関係に生育されたことと、リベラルな西欧的核家族の雰囲気で過ごされたことから、異性への関心や好意は堂々と表現するオープンな意識をもっておられるのに、周囲のものはお上へ反抗する事など出来ない、という旧態依然の意識から、言われるがままに従う、ということで、ますますその行動に抑制がかからなかったのだ、と説明される。
私はこの手の噂話が、真実を幾分かでも反映しているとも思わない。女性週刊誌レベルで報じられる、例えば現皇后に対する組織的ないじめ、などというようなことから、いささか常軌を逸した想像力がつくリだしたヨタに違いないと思う。しかし皇室に関して、政治的意図もなく、普通のセレブリティと同じような感覚でデマが語られる、というのは、人々が昭和の終焉を、深く受け止めた結果にほかならぬ様に思う。
昭和という時代を支えてきたものが、よくも悪しくも天皇制であったことに、大方の人は同意していただけると思うが、表面的な制度が継承されているとはいえ、平成の時代には、具体的な人格として表現される天皇制のパワーは、もはや受継がれていない、ということなのではないか。高潔温和で教養深い皇室文化の体現者としての象徴天皇は存在されても、歴史の重みを引き受け、国民の総意を象徴する役割からは、明らかに外れたところにおられる。
近代民主主義国家としては、そう言う経過で皇室がフェードアウトしていくのは、いたし方のない道筋だろう。しかし、それにかわる統合神話がみあたらないこの国にとって、それは上の寓話が予言しているように、国家自身のフェードアウトも意味している、と私には思える。人々のエネルギーを統合する、新たな国家としての理念を見出そうとするなら(それが必要であるという前提には議論があろうが)、この解体過程を目に見えるものにして、共有化していく作業が不可欠であろう。それがこの時代に生きる「臣民」として、「皇恩」に報いる唯一の道だ、というのはいささか奇矯な表現だろうか。(2001/02/12)
前回の内容は多少冷や汗ものだったので、今回はすっきり小ネタでまとめてみたい。珍しく画像をつかっているが、これは中身のうすさを、少しでもごまかそうという苦肉の策である。
はじめの図は総務省統計局統計センターが発表している、平成十一年度の全国総人口を、性別年齢別にまとめた、「人口ピラミッド」と呼ばれるグラフである。ちょっとみにくいが、一本一本の棒が各年齢の男女別
総数となっている。説明のために一部コピーして改変したものを左下に示した。国民のまじめな研究活動(?)のためであるから、親愛なる公僕の皆様は、著作権のことなどは不問にしていただきたい。
総務省の図には、簡単な解説がついており、例えば七十台より上の世代に男性が明らかに少ないのを、「第二次世界大戦の影響」、この年の六十歳と五十四、五十三歳が男女ともはっきりと減少していることを「日中事変の動員による」「終戦前後における出生減」と説明している。また、五十〜五十二歳の第一次ベビーブーム、その世代がまた再生産した第二次ベビーブームもちゃんと説明されている。
ここで、第二次ベビーブーム世代のちょっと上、この年では三十三歳のところに注目していただきたい。私があとから矢印を追加したところである。この年だけ明らかに出生数が少ないことがわかる。先の日中事変や終戦前後のドタバタによる減少に匹敵する、いやそれ以上の出生減がこの年にあったことがわかる。
この妙な人口構成ノッチに対して、総務省はまったく解説を加えていない。書くまでもないと思ったのだろう。ご存知のかたも数多いと思うが、これはこの年齢の人が生まれた年、1966年がが「丙午(ひのえうま)」だったからだ。
若い方は、何だそれは、と思われるかもしれないが、「丙午生まれの女は男を食い殺す」という言い伝えがあり、そのためこの年に子供を産むのを人々が控えた結果、このように統計的にも明白な出生減が生じた。中には、あえて堕胎が行われたケースもあったのではないか。その前の年と比べて、ほぼ46万という出生数の差がある。これに先立って婚姻数の変動があった、という事実はなく、避妊の努力だけでこの結果が得られた、というのはちょっと考えにくい。
そこで厚生労働省のページを探し回った結果(適当な図が見つからなかったので孫引きであるけれど)、右下の統計が得られた。これによると65、66年に中絶件数が増えたということはまったくなく、確実に減
少していく流れにのっている。もっともこれは正式に届出がなされたケースの統計だから、闇中絶は含まれない。「子供が丙午生まれではまずいから」というような理由で、合法的中絶が認められるとも思えないから、多少は闇に葬られた胎児たちもいたのだろう。しかし正式届出中絶件数に何の変化もないということは、その数はそう多いものではなかったと推測される。このころ、子供を得る可能性があったカップルたちは、ひたすら避妊にはげんだ、ということでいいようだ。
コンドームの売れ行きで調べて、65年ごろにバカスカ売れた、という結果が出ていたら面白いかも、と思って検索してみたが、残念なことに、そういう統計はネット上では公開されていなかった。かの「スキンレス」で知られる「オカモト株式会社」のサイトをみたら、66年に本社ビルを完成させ、二年後には資本金を20倍近く増資していたりするので、丙午特需というものがあったのか、と想像するのは面白いのだけれども。
ここで、こうして統計にはっきりと残るような形での出生率減少をもたらした、「丙午」というものについて多少のおさらいをしておきたい。
古来の中国では、日や年を数えるとき、十日を一セットしてそれに漢字を割り振っていた。「十干」という。「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の順でめぐる。これに、十二でワンセットとなる別の漢字列を組み合わせ、最小公倍数の六十までを数えるようにした。後者のセットが十二支である。ご存知、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」のセットである。甲子(きのえね)、乙丑(きのとうし)…と続けていくわけだ。
想像するに、はじめは単なる符丁として作られたのだろうが、表意文字でもある漢字の宿命として、そこにコジツケの意味合いが生じてきたのであろう。甲乙はそれぞれ木の陰陽をあらわし、丙丁は火の陰陽、という具合だ。十二支の方も同様に無理やり意味付けされ、子は水、丑は木、などと多少計算の合わぬ割りふりがされていった結果、午は火の陽とされた。そこで、丙午の組み合わせは、それぞれ火の陽であることから、燃え盛る火のパワーをもった陽の極という意味付けがされた。
中国でどの程度の影響があったのかは知らないが、少なくとも江戸時代初期の日本では、丙午の年には火事が多いと信じられていたらしい。こういう故事来歴というものは、本場よりもそれが伝えられたところでより大層にいわれる傾向があるもので、十二支だの陰陽五行だのを知っている人間というのは当時かなりのインテリであったろうから、ますますその傾向には拍車がかかったろう。
ここに丙午=「火の兄(え)」のゴロ合わせも加わり、火事との関係付けは確立するのであるが、これが一般に広まるのにはある事件がきっかけになった。「八百屋お七」事件である。一応実話とされているのは次のようなものだ。天保元年(1681)、八百屋太郎兵衛の一家が、大火の類焼にあい、小石川の円乗寺という寺に避難した。そこで太郎兵衛の娘、お七が、やはり避難してきていた旗本のせがれ、寺小姓の山田佐兵衛と知り合い恋仲になった。太郎兵衛の一家はやがて丸山本妙寺前に自宅を新築し、円乗寺を引き上げたのだが、お七は佐兵衛を忘れられず、恋焦がれるあまり抑うつ状態になってしまう。太郎兵衛宅に出入りしていたならず者、吉三郎がお七に、「また火事になれば円乗寺に避難して佐兵衛に会える」と入れ知恵をする。よくまあ引っかかったものだが、お七はいわれるままに自宅に放火、たまたま風の強い日であったことから、大火となってしまう。吉三郎は火事に乗じて、太郎兵衛の家に押し込み、家財持ち出しを図るのだが、あっさりつかまり、お七に放火をそそのかしたことも自供し、二人は同罪となって火あぶりとなった。
なんぼ小娘だからといって、恋人に会うすべを放火しかないと短絡的解決を図るところなど、お七にはかなりの判断能力の障害があったと考えられる。それもふだつきのならず者に吹き込まれるままにやるのだから、理解しがたい。その一方で避難生活状況で、あっさり恋人を見つけるような、ある面要領のよさを示したりもするので、境界例のはしりのような女性だったのかもしれない。
この話は、井原西鶴による「好色五人女」をはじめとする小説や、様々な浄瑠璃や歌舞伎になり、ほとんどが大ヒットした。西鶴に典型的なように、フィクションのほうは、佐兵衛と吉三郎を同一人物に融合させていることが多いようだ。当時の人も、会いたければ会いに行けばいいじゃないか、と考えたのだろう。会う手段も思いつかず、退行的衝動的に放火する娘では、ちょっとヒロインとしてはこまる。ここで、短い逢瀬では満足できず、永遠に結ばれようとするための放火とすれば、狂気をはらんだ恋心、というのも浮き上がってくるし、最後に二人が火刑に処せられるのも、愛の成就ととらえられなくもない。
とにかく、この大当たり狂言のアンチ・ヒロイン、お七が寛文六年(1666)、丙午の生まれであった、ということから丙午と火事の関連性が大衆レベルに行き渡り、ついでに意味の解釈に微妙な変化が起こってくるのである。というのは、フィクションのほうの、恋心のゆえに、愛する男も道づれにして破滅させるような女性、というイメージがあまりに強烈であったため、火事よりも、「この年生まれの女性は男を破滅させる」という意味連関が優勢になっていくのだ。
実際、江戸時代には五回の丙午年がめぐってきているが、そのうち大火が実際に起こったのは弘化三年(1846)だけだったということだ。その点、お七事件(というよりそれを題材にしたフィクション)によって創り出された「丙午生まれ女性恐怖」のほうは、統計的根拠などとは無関係だったにちがいない。お七の破滅的な愛情の出所を、「丙午生まれ」に仮託して描いた作家たち、およびそれを自分の身にひきつけて再体験した読者や観客たちは、女性への根源的な恐れ(同時に崇拝でもあるのだろうけれど)をその想像力の源にしたのだろう。また、その恐れを六十分の一の少数に押し付ける、という抑圧機制という側面もあるかもしれない。たまたま象徴として取り上げられた丙午生まれの女性には、えらく迷惑な話である。
お七が生まれた年から六十年目の天明六年、その次の弘化三年と、この丙午への集団ヒステリーは激しくなっていき、無茶な堕胎や嬰児殺害が相次いだらしい。統計は残っていないが、この俗信を啓蒙しようと有識者があらわしたパンフは数多いということから、かなりの出生率低下につながったに違いない。明治の世になっても事態は変わらず、明治三十九年(1906)、出生率は前後年の平均を約10%下回っている。富国強兵の掛け声勇ましかったはずの当時、これは驚くべき数字であろう。
しかし、本当に驚くべきなのは、はじめにあげた昭和四十一年の出生率低下である。約27%も低下している。この数字から、俗信といわれるものが持つ力は、知識だとか、良識など敵ではないことがわかる。おそらく、マスコミなどが中途半端にやった啓蒙活動が、世の人々の根源的不安の導火線に火をつけたに違いない、と私は思う。具体的な事実の世界に人間は生きているのではない、という証左であろう。しかし、後に述べるような理由から、私にはこれが丙午伝説が機能した最後の出来事だったのではないか、と考えている。
ここでちょっと話は戻る。無知をさらけ出すようだが、ネットの上だけで八百屋お七のことをしらべていて、私はある勘違いをしていることに気がついた#。というのは、「振袖火事」と呼ばれる江戸の大火は、お七の放火によるものだ、という誤解をしていたのだ。実際の「振袖火事」は、お七が生まれる十年近く前、明暦三年(1657)に起こったもので、江戸市中の大部分が焼け、江戸城天守閣も焼失し、十万人以上が死んだとされる大火災である。
この火事には次のような伝承がある。
上野の豪商の娘おきくは、花見である寺小姓を見初め、小姓の着物と同じような色模様の振袖をこしらえてもらい、男を想い続けた。そして、恋わずらいの末、十六歳で死ぬ。家族は振袖を古着屋へ売り払い、それは本郷の商人の娘お花の手に渡る。それ以来お花は病気になり、翌年の同じ日に死ぬ。振袖は再び古着屋を経て、麻布の質屋の娘おたつのもとに渡る。やはりおたつも同じように、明暦三年の一月十六日に死ぬ。因縁を感じた娘たちの家族が、丸山本妙寺でその振袖を供養してもらうことになり、僧侶が読経しながら振袖を火の中に投げ込むと、振袖は火がついたまま風にあおられ、それが燃え広がって大火となった、というものだ。
寺小姓だの、丸山本妙寺など、人物、舞台にお七の話と共通項目があることでおわかりのように、これはまったくの都市伝説そのもので、 実際の火事はある幕閣の屋敷から出火したこともわかっているのだそうだ。この伝説が成立したのは、お七物語がさまざまに脚色されて舞台化され、具体的な視覚イメージとして大衆化されたあとのことに違いない。例えば「松竹梅湯島掛額 」での火の見櫓の場(左図参照)。お七が人形振りで操られるように櫓を上っていく場面など、うまい役者の手にかかると、衣装の振袖がまるで燃え盛る炎のように見え、ありがちとはいうものの、運命と恋情、そして死と破滅の同質性が、美という一点に集約される、まことに見事な舞台となる。(本当のことをいうと、私はこの場面をパロディにした、「雲の上団五郎一座」での、三木のり平のお七が一番好き)
お七が実際に起こした放火事件は、どうもせこいボヤであったようで、間抜けな小娘のやったことに、杓子定規な裁きを適用するお上への反感ぐらいにしか行き着かない。ここは、どっと舞台の虚構を越えて、悲劇を実感しようじゃないかと、フィクションによってあおられてしまった世の人々の想像力を満足させるため、時間をさかのぼって、なお記憶の奥底に残っている大惨事を持ち出し、それに借りてきた意味付けをせざるを得なかった、ということなのだろう。おそらく「振袖火事」という通称も後世にでっち上げられたものだとおもわれる。
こうして見てくると、「丙午生まれの女性が男を取り殺す」という俗信は、本来はもっと男女を超える一般性をもった、「愛は死につうじる」ということの特殊な表現である、といえるだろう。もちろん、愛は死と同じものではない。愛は生命という有限のカプセルに包み込まれた、きわめて儚いものであるが、死は無限かつ永遠である。愛は時にその有限性に収まりきれず、死にその身をよせて永遠を得ようとしたがる、という厄介な性質を持つことがある、というに過ぎない。先の出生率の問題に戻れば、この国では66年の丙午によって低下した出生率を、すでに87年から毎年下回るようになっている。愛が死に擬態するという事実を、無邪気かつ迷惑なしわ寄せ程度では、もはや誤魔化すことができなくなった結果として、これをとらえることはできないだろうか。
(2001/02/23)
#同じ勘違いをしている人は多いようで、「八百屋お七 振袖火事」という項目で検索をかけると、結構「お七が起こした振袖火事」という記述が引っかかる。
都市伝説、というのとは少し違うのだが、「人のまなざしが災いをひきおこす」、もしくは「人の視線には何らかのパワーがある」という信念がいろいろな社会において見られる。これはもっぱらヨーロッパ文化のほうに優勢らしく、日本や東南アジアではあまり表面には出てこない。かの南方熊楠がこれを取り上げ、得意の博覧強記で日本文化にもこの「邪視」をおそれる民俗が様々な形で存在していたことをしめしている。なお南方はこの「邪視」という言葉を仏典から借用したという。少なくとも、日本語の日常用語には、これを意味する言葉はなかったようだ。
具体的な言葉を生まなかったとはいえ、現代生活の中でも、よく見ればこの「邪視」を意識したらしい習俗はあちこちで見られる。漁船の舳先には正面から見ると、目にみえるような模様が描かれていたりする。あれは視線のパワーが、海に潜む魑魅魍魎をはねつけることを期待しているに違いない。自動車のフロントビューが顔面のアナロジーを捨てないのも、この視線の力への信念と無関係とは思えない。
なんでこんな民俗学的話題に触れたかというと、久しぶりに「視線恐怖」の患者さんと接する機会があったからだ。視線恐怖はいわゆる対人恐怖の中に分類される恐怖症のひとつで、自らの視線が他人に悪い影響をあたえる、と感じて対人接触に障害を生ずる状態だ。これにはバカバカしいと思いつつ気になって困るという神経症レベルから、自分の視線が相手を射抜いて悪影響を与えてると確信している、妄想レベルに達するまでの様々な段階があるが、軽いものでも視線に対するかなり狭窄した意識化が強く、独特の雰囲気をもった病像を持っていることが多い。
普通「視線恐怖」というと、不特定多数の他者からの視線を気にすることのほうが多いように思われ、事実そういう訴えはよくあるのだけれど、それはより一般的な関係妄想の一部であったり、自分の身体的特徴に対する妄想的思い込みの結果であったりし、「視線」そのものに独特の意味付けをする、先の視線恐怖とは質がちょっと違う。学派によってはこれを「自己視線恐怖」と別分類にするが、妥当な判断だとおもう。ただ、この状態についての議論は、ほとんどが「自我が漏れ出す」という自我障害の枠内で行われることが多く、文化習俗のなかにすでに「視線のパワー」という信念が存在していることとの関連付けで考察されている例はあまり見ない。不勉強な私が知らないだけかもしれないが。
面白いのは、この自己視線恐怖という状態は日本や韓国でよく報告はされるが、Evil-eye(邪眼)伝説が一般化している欧米ではまれという特徴があることだ。米国精神医学会の診断基準であるDSM−IVや、WHOの診断基準ICD-10などでこの状態を分類するなら、「社会恐怖」という大雑把なところに入れるしかなく、私などが直感的に感じる、この状態の独自性は失われてしまうように思う。ピラミッドのてっぺんにかかれた目玉が、不可思議なパワーを放出しているような図柄の紙幣を毎日使っている国の人々に、なんでこの状態がまれなのか、というのは少々不思議といってもいい。
もしかすると、そういう「邪視」伝説が一般的である分、逆に「邪視封じ」の術も一般化していて、そのために視線の害を気にする必要がすくないのかもしれない。邪視伝説のある文化では、ほとんどの場合邪視の持ち主への告発ということはなされず、邪視を受けてしまう側の無防備さが問題にされるという。そのような文化圏では、自分の視線が他者を射抜くことを思い悩む必要はなさそうだ。相手のほうにスキがあるのがいかん、と受け流しておけばいいのだから。
この邪視というものに、生物学的根拠があるのか、というのは必然的な疑問であろう。動物行動学などを持ち出すまでもなく、動物の攻撃性が目を合わせることで解発されるのはよく経験されることだ。観光サル山などには「サルの顔を見つめないでください」と注意書きがあったりする。ネコが獲物を狙うときは、大体の見当をつけて近づいていき、いったん知らん振りして通り過ぎ、さっと反転してとびかかる、という行動をみせる。遺伝子レベルで「凝視が無用の反応を相手に引き起こす」ことを熟知しているとしか思えない。多くの動物種にとっては、視線を向けるということは攻撃性の先触れという意味合いが大きく、これをうまく使わないと生存にかかわる事態を引き起こすであろうと思われる。
社会性を高度化させてきた人類にとっても、仲間うちでの無用な軋轢はできるだけ避けるのが好ましく、視線の適切な処理方法が様々な文化の中で、いろいろな形で取り込まれたのだろうと想像される。なぜ日本を含む東アジアでこの伝承が希薄なのか、というのはちょっと不明だ。他民族との接触機会ということでは日本の例は説明できても、大陸ではつじつまが合わなくなる。
ともかく、邪視伝説が希薄であるからか、まったく無関係なのか、一人でこれを抱えてしまう人の悩みは深く、治療には手間がかかることが多い。ソクラテス、アリストテレス、アレキサンダー大王、ジャンヌダルク、ナポレオン3世など、ヨーロッパで邪視の持ち主だったと伝承されている人には、天才や英雄が数多い。「おめでとう、あなたは偉大な系譜に連なる異能者です」と、祝福してあげられる立場だったらどれだけいいだろう、強いまなざしを畏れつつ敬する伝統を、社会が共有するなら、この人たちの悩みも存在しないかもしれない、などと思いつつ、そんなポストモダン文化人の思いつきのようなことで事態が決して解決されることはない、と確信しているのもまた事実なのだ。(2001/03/09)
参考:
「小児と魔除」南方熊楠全集2(平凡社)p99
“Does Attention Make Beauty ?”
“Text Engine Project (TEP) ★邪視”
世界最古の職業は何か、ということについては、世界中どこでも充分なコンセンサスが得られているようだ。しかし、二番目に古い職業ということになると、実にさまざまな意見がある。
私がよく聞くのは、自分がその業界にいるからかもしれないが、医者が二番目に古い職業だというものだ。もちろんその出発点は呪い師である。治療法もいまだ定まらない疾患を相手にすることが多いという点で、精神科領域はもっとも始原からの伝統をよく受け継いだ分野であろう。自分でも「世界で二番目に古い職業に従事しています」と、そう受けるとも思えない自己紹介したことがあるような気がする。
しかし、これ以外にも様々な職業が世界で二番目の地位を主張しているようだ。Googleを使って「2番目に古い職業」をそのまま入力して検索すると、七件ほど引っかかり、六種類の意見を知ることが出来る。順不同にあげると、ドロボー、奇術師、王族、金貸し、スパイ、役者。全てサービス業で、具体的なモノ作りにかかわる職業は出てこない。ドロボーがサービス業か、と言われる向きもあるだろうが、あれもネガティブなサービスと捉えることは可能だろう。
英語ではどうだろうと、”second oldest profession” で検索してみると、実に4000件以上が引っかかる。どうもこの言葉は英語圏の人々のお気に入りらしく、この題名で始まるコラムとか、この名前をもつウェブサイトが結構な数で存在する。そして、それらが指す二番目に古いとされる職業は、実に多岐にわたる。ざっとひろっても精神科医に始まり、弁護士、コンサルタント、音楽家、作家、芸術家、言論人、聖職者、賭博師、占い師、政治家、詐欺師、羊飼い、タクシー運転手、母親などなど。
これらも見事なまでにサービス業、それもどちらかというと特殊に分化した業種のオンパレードだ。母親が職業であるかどうかは疑わしいが、内容を読んでみると、その立場で行わねばならぬサービス業務を指摘している。世界最古の方もサービス業の典型だから、人類の歴史のなかで、職業はまず特殊サービス業群として始まった、という共通の感覚があるといえるか。
もちろん、聖書原理主義の立場や、ある種の神話愛好家から見ればとんでもない話である。アダムが耕し、イブが紡いだと聖書に書いてあるではないか。わが皇国においても、天皇陛下は田を植え、それを刈り取られ、皇后陛下は養蚕をされ、絹を織られる。始原の職業は農業と繊維業なのだ、けしからぬ職業を持ち出して、聖書や皇室行事を愚弄するでない、と言われるかもしれない。もちろんそのような信念にけちをつける気など毛頭なく、なぜ「最古の職業」とか「二番目の職業」と主張されるものに、人はなんとなく納得してしまうのか、ということを考察しているつもりなので、お見逃しいただきたい。
先の日本語での検索結果も勘案すると、一部タクシー運転手や羊飼いなどのまっとうな職業もあるとはいえ(これらも旅人に道を告げる人とか、集団の管理者という意味付けがされているのだけれど)、全体として「舌先三寸ではったりをかます虚業」というイメージがこの「二番目」には強いように思われる。最古のほうにも多少その要素はあって、付随的属性でかなりのインチキが可能であるものの、実質的サービスはまず誤魔化しようがない、という点で明らかな相違がある。
あるサイトではこんな話が紹介されている。最古業者が売上低下に悩んでいたところ、ある人間が抜本的経営改革を売り込んできた。徹底的省力化を骨子とするその案が採用されて、二番目の職業、コンサルタント業が生まれた。ところがその案は売り込み文句ほどには効果が上がらなかったため、第三の職業、弁護士が考え出され、コンサルタントを訴えた、というものだ。ウサン臭い生業を志向することが、人類にとって根源的な職能分化のきっかけである、という寓話として鑑賞できるであろう。
思い切って言い換えれば、職業分化を成立させたのは労働ではなく、労働を忌諱して小ずるく生きようという横着さが職業を生んだというところか。その意味では一番目も二番目も同じなのだが、例の職業に世界最古という尊称がささげられるのは、まだ少しは「労働」の面影が残るその業務内容のためか。より生物学的機能に頼る部分が多いからか。もっとも生物学的機能を利用してはいるものの、その機能の目的に対しては完全に対立しているけれども。
ネットで見る限り、これらの「二番目の職業」は、その業界内部の人間による自称であることが多い。やはり第二グループの職業に従事する人間は、職業選択の動機において、多少なりとも先の横着発想があったことを自覚しているのであろう。もちろん、人々のためになりたいと言うような表向きの理由はあるのだが、その実体は、場を仕切って自分を目立たせたり、才覚で好きなことをして暮らしたいという、子供じみたズルっぽい志向であって、地道に働いて清く正しく暮らす人生設計ではないに違いない。その根源的横着さへの自嘲が、歴史的に投影されて「世界で二番目」の職業に従事している、という照れとも大風呂敷ともいえる表現になっているように思われる。
そして、これは私の言い訳でもあるのだが、これらの職業のほとんどが、「理想的職能を果たす」ことがまず期待されないような業種であることも注目されるべきであろう。不確定要素があまりに多く、その業界トップの地位を得た人であっても、その職能を完璧にこなすことはまず不可能なのだ。擬似的にではあれ、それを達成するのが容易な世界最古職業との違いは、ここにもある。二番手を甘受せねばならないのも当然であろう。(2001/03/30)
猫立ち入り禁止 −ペットボトル結界の謎−
私が初めて海外旅行に行った国は、ニュージーランドだった。もう十数年前のことだ。世界地図だと近いように思えるのに、十四時間もかかり、「地球の底なんだなぁ」と妙な感慨を覚えたものだった。飛行機が高度を下げると、雲の間からオークランドの郊外が望まれた。緑の大地に散在する家々は、申し合わせたように小作りな白壁で、芝生の庭にショートケーキを無造作に並べたように見えた。
この時はそう長い滞在ではなかったが、私はこの国がいたく気に入った。つつましげな暮らし振りの穏やかな人々は、通りすがりの私などにも「グッダイ、マイト(Good day, Mate. )」と気軽に声をかけてくれる。通りを歩いていても、ヤバイ界隈に入り込んでしまうようなこともなく、まことに健康的にして中庸な雰囲気で、私が学生時代を過ごした田舎街をおもいだしたものだった。
私は旅行先でもジョギングする習慣がある。時差ぼけ解消に効くし、見知らぬ街を観察するのにうってつけなのだ。これと、その土地の散髪屋にいく、というのを組み合わせると、とおりいっぺんの観光客から、何年も住み着いた住民の気分になれる。さて、オークランドの住宅地をジョギング観察していると、どうも妙なものが目に付いた。欧米の住宅はまず塀というものがなく、道から芝生の庭がそのまま望めるのだが、ここNZでもそれに習っている。
家々のたたずまいや、庭の造作などを眺めながら走っていると、ほとんどの家で、その芝生のあちこちに水を入れたペットボトルが一定間隔で横になって転がっているのに気づくのだ。さらに不思議なことに、それらのペットボトルには短い紐がくくりつけられ、その紐は芝生に差し込まれた金具で固定されている。さながら、首紐をつけられた犬が芝生で昼寝しているかのように、ペットボトルたちがあちこちに寝転がっているのである。歩道の街路樹の植え込み芝生にまで、それらのボトルが勢力を伸ばしていることもあった。
庭の手入れ用の肥料とか、農薬の類を入れてあるのかとも思ったが、どうもおかしい。ボトルに仕掛けがあって、一定量がじわじわ出るようになっているのかと手にとってしげしげ眺めるが、そんな様子は全くない。聞くは一時の恥、とたまたま庭仕事していたおばさんにたずねると、「犬の立ち入り防止用」だという。「犬はきらきら光るものが嫌いだから、これが置いてあると芝生に入ってこない」と。
そう言われると、水に入るのを嫌がる犬と言うのはいるな、あれは光の反射を嫌がっていたのか、と納得してしまいそうになったが、昔飼っていたバカ犬は、水と見れば飛び込んで泳ぎたがり、洗面器にいれた水だって、頭からかぶってびしょびしょにならないと気がすまなかったことなどを思い出した。NZにだってそういう犬はいるだろう。本当に役に立つのだろうか。それに、ペットボトルが勝手にどこかに行ってしまうこともないだろうに、何でみな打ちそろって紐が付いているのだろう。
少なくともそのおばさんは、犬よけの効能を信じている様子だった。何で紐がついているのか、と聞くと、ちょっと考えて「みんなそうしているから」と答える。この奇妙なペットボトルは、オークランドの比較的高級な住宅街に蔓延していたが、マオリ系の人々も多くすんでいるような界隈になると、全く見られなかった。そういう街並みだって、日本などよりよっぽど小奇麗に整備されているのだが、さすがに丹精こめて手入れされた絨毯のような芝生などはなく、あのような怪体なもので犬から庭を守る必要はなさそうだった。
考えてみれば、オークランドもけっこうな都会である。犬がそのあたりをやたらに歩き回っているはずがない。英国からの移民たちがメインを占める住民たちのこと、動物愛護には極めてうるさいだろう。放置されている野犬など例外的な存在のはずだ。ほとんどの犬は飼い主が紐をつけて散歩させているわけで、庭に転がされているペットボトルにもし「犬よけ」の効能があるとすれば、それは水がきらきらするのなんの、という妙な理由ではなく、飼い主に対して「この庭に犬を入れたら承知せんぞ」という記号的効果のゆえに違いない。コミュニティのまとまりを維持するには、立て札などの言語的手段を取ると露骨なので、ああした神話的な効能を共同化しているのかな、それにしてもおかしな風習だ、と首をひねりながらかの地をはなれた。
さてその数年後、日本の街角にもあの水入りペットボトルは進出してきた。ご存知だろうが、日本式はNZで見たのと少し違い、ラベルを取り除いたボトルを、立てたままひたすら林立させるやり方である。人口密度の高い国では、ペットボトルものんびり寝転んでいられないようだ。散逸を防ぐためであろうか、まとめて何本もテープで固定してあったりするのと、ボトル形態に多様性がある関係から、NZのような様式的統一にはかけ、はなはだ雑然とした印象を与える。しかも、日本の場合は犬対策ではなく、猫対策としての効能がメインとされている。
あれが犬であれ猫であれ、具体的効果をもつことはまずありえないのは、いまさら考察する必要もないだろう。私の近隣には敷地境界線をほぼあれで埋め尽くしている家まであるが、ちょっと前までそこの庭は、界隈の猫たちが集まる恋の楽園だった。どうも猫たちが好む風水学的なポイント、と言うものがあるらしく、そこでは忌避剤のような合理的手段もあまり効果はないようだ。
ある人の観察によれば、猫よけペットボトルが日本で見られるようになったのは94年の夏であるらしい。私がNZで見てからほぼ十年たって浸透してきたことになる。もっともそこでは同じ年の10月にはそれらのボトルはすっかり姿を消したとも書いてあり、一般的観察とはだいぶ違う。こちらにはなお英米圏(米国、カナダ、オーストラリア、NZ、英国が挙げられている)と日本でこの水入りボトルの効能は信じられているという記載もある。そこでの最も古い引用は、カリフォルニアの新聞にのった86年の記事であるから、私のNZでの体験のほうが若干古い。
はじめに紹介したサイトで考察されているように、「廃物利用」という一種強迫的な観念がこの神話的犬猫よけ対策の興隆に果たした役割は大きいであろう。ペットボトルが実用化されたのは米国で74年、日本でつかわれるようになったのは82年である。この製品をぽんぽん使い捨てることへの罪悪感が、根拠が乏しくても廃物利用に向かわせた、と言うのはそれなりの説得力をもつ。商品化が十年近くずれたことも、ちょうど日本登場のタイムラグをうまく説明しそうだ。
また、ここのサイトでは、バブル期に空前の住宅ブームとなり、充分なコミュニティの成立を待たずに人々が顔つきあわせて暮らさなければならなかったため、敷地に糞を置きざりにする犬の飼い主(でも、日本でそんな人いるかねぇ)に対する一種の私有地防衛宣言としてボトルが置かれたという分析もしている。しかし、それでは日本でもっぱらボトルが猫対策として伝わっていることを踏まえると、いまひとつうまく説明できていないように思う。土地境界を厳密に監視する農村の伝統が色濃い日本では、犬の飼い主というはっきりとした対象には、暗示的にせよ、侵入拒否の意思を表明するまでもないのではないか。明確な対象を欠くため、私有地境界をアピールしたいという志向性は呪術的な様相を呈し、必然的にその効能は猫にしぼられていったのではないだろうか。
最近、懐古的な下町ブームがあるそうで、谷中の路地裏などは観光地化しているそうだ。そういう下町を象徴する光景が家々を路地伝いに渡り歩く猫たちだ。逆に考えれば、他者の排除を前提とする現代地域社会が成立する過程では、猫はとりわけ忌避される対象になるのかもしれない。私は下町近隣社会が再生すればいい、とは思わない。それはそれで異端を認めない抑圧社会といえ、引きこもりとか、パラサイトシングルと言うような形で、非均質者を抱え込んでいる現代地域社会のほうが、まだ豊かな可能性を内包していると思っている。
いずれにせよ、高度経済成長の結果、日本人たちが苦労して手に入れた猫の額ほどの土地と土地の隙間の所々には、皮肉なことに猫よけペットボトルが充満しているわけだが、それが日本人の社会的自立をはぐくむ外枠となるかもしれない、と私はおもう。もちろんそれには、ボトルの呪術結界を詳しくケース検討する作業が欠かせないのだろうけれど。(2001/04/20)
書き終わって気づいたが、これでは英米圏で、このボトル使用が犬侵入対策としてはじまった理由がよくわからない。いろいろ検索してみたが、これに触れている記事は先のsnopes.comしか見つからなかった。NZを含めて英米圏にはその後何度か訪れたが、このボトルをあれ以後見たことがない。とにかく、英米圏に限らず、ヨーロッパも含めて、向こうの人間は犬の糞と言うものを汚物だとはおもっていないようなところがあって、そこいらじゅうに放りっぱなしにして平気である。今も使われているのかはっきりしないが、一過性にせよあれが使われたのは、人の庭に犬を入り込ませて糞を残して平気な飼い主がゴマンといるため、やむにやまれぬ動機で考えつかれたからであると思う。
20年ほど前までは、世の男性にとって、若い未婚女性が処女であるかどうか、というのは最大の関心事で、影に日向にセクハラめいた(もなにも、セクハラそのものなんだけれど)暗示的質問をしてみたり、酒の席など男だけの集団になれば、対象女性の言動をあれやこれやと分析し、処女非処女判定を無責任に語り合うなんて風景はしょっちゅう見られたものだ。
今だって大して中年男たちの内的関心は変わっていないような気がするが、少なくとも公的な場面で口や態度に露骨に出される事はなくなった(と思う)。そんな無神経な疑問を若い女性に向けるような事をすれば、エロオヤジの烙印が押されるだけならまだましなほう、女性が正当に権利を主張すれば、当然の帰結として社会的生命も怪しくなる。
なにより、未婚女性が処女であるかどうか、などという疑問を口にするのが面映いような状況がある。一昔前までの世代が持っていることになっていた性的規範が通用しないのである。表面的に見る限り、この規範を実質的に崩してきたのは私よりすこし前の世代、いわゆる団塊世代であるのは間違いないと思うが、そういう価値観が崩れるのを見てきた経験を踏まえても、最近のあっけらかんとした性行動パターンに毒気を抜かれる感じを覚える。私たちの世代まではまだ、「抑圧的性規範」を対象的に睨んでいた錯覚を持っていたと思うが、今の世代はそんな肩に力を入れた態度とは無関係だ。
ややこしい書き方をしているが、あからさまに言ってしまえば、「あの女性が処女であるかないか」なんて疑問がほとんど成立しないのだ。もし賭けでもするなら、「処女でない」ほうに賭けておけば、まず連戦連勝間違いない。
未婚の若者、とくに女性は性的純潔を守るべきである、とするえらく片手落ちな規範は近年になって解体されてきたような書き方をしたが、実際は怪しいもので、歴史的に見れば日本の農村地帯には、大正期、地域的には昭和前期まで「若者宿」という風習があり、それは元来、婚前の若者たちの性的乱交を支援するシステムであったことはよく指摘される事だ。
各地に残る性器信仰の名残をみても、この国は極めて性におおらかな態度をもっていたとされる。経験者かそうでないか、というのは価値観ではなく、一種のエキスパートとしての評価以上のものではなかったとされ、近年のタガの外れ方は、単に本来の民族的行動パターンの露出でしかない、ともいえる。もちろん結婚後は、家制度のもとで、女性だけに一方的に貞淑を押し付ける道徳観は存在したわけだが、それはまた別の文脈になる。現在だって、大胆な婚前性行動とはうらはらの核家族倫理に切り替える要領のよさを示す人は多く、私などはむしろそこに呆れてしまうことが多い。
普通、婚前の性的純潔という強迫的な倫理は、明治期の「文明開化」によって、欧米から移入されたにすぎず、それまでの性的おおらかさは、欧米への知的劣等感によって表層から駆逐された、とされるものだ。ヨーロッパにしたところで、性的規範が確立していくのは16世紀以降であって、近代国家が国民を国家に奉仕する存在として、家族、社会、国家の秩序に押し込めようとする意図のもとに、キリスト教的純潔と貞淑の概念を最大限利用したに過ぎない。ナチスドイツはキリスト教会倫理をきらい、北欧神話をもってそれに変えようとしたらしいが、戦後、いわゆる性的解放の波が北欧に起こったのは、必然だったのかもしれない。現在の性的解放の原点はナチスにある、と言えるかも。
19世紀から20世紀初頭にかけて、医学は数々のトンデモ理論を作り出し、この性的純潔と貞淑を合理化する所見を世に送り出した(かの精神分析理論もその一つと切り捨てる事が出来るかもしれない)。明治期の日本は、そうした上滑り科学の装いを、そのまま批判抜きに受け入れざるを得ない状況にいたのである。
もちろん、これらもまた一つの常識論であって、江戸期の貝原益軒の養生訓などをみると、えらく抑圧的な性倫理が書かれていて、その厳格さはヨーロッパに勝るとも劣らない。フロイトの性エネルギー説に通じる先進性さえ読み取る意見がある。しかしそれがどこまで一般に読まれ、実践されていたものであるかは疑問である。私などは養生訓に、漢方の古典「医心房−房内」に解説される、一種の理学療法としてのセックス概念の影響が色濃いと見え、平安期の「色好み」の源泉となった考えかたを、単に抑制的に捉えなおしただけのように思える。
つまり、欲求にそって性を満喫する事が、神仙に通じる道ととらえた平安期の文人たちとは逆に、そこまで大事なものなのだから、ちゃんと自己コントロールするのが一番の健康法、とちょっと現世利益的にまとめ直しただけではないか、と思えるのだ。実際、「房内」に書かれている治療法としての性行為はかなり過剰である。疾患別に、解剖学的にちょっと可能とは思えぬ体位をしめし「日に五たびこれを行えば、十日にして癒ゆ」なんてかいてある。とても人間業ではない。
これは一種のアレゴリーであって、適切なコントロールのほうに健康法があるに違いない、と発想するのも、なんとなく理解できる。大体コントロールといったって、「生四十者は十六日に一度泄す。生五十者は二十日に一度泄す。六十者は性を閉ぢて泄さず。もし体力盛んなれば、一月に一度泄す」である。それだけやってれば十分だろう、益軒さん。
ここまでを読み返してみれば肝腎の「処女鑑別法」に関しての伝承が書かれていない。これには実にたくさんのバリエーションがあった。日記にも書いたが、女性を火鉢にまたがらせ、くしゃみをさせて、火鉢の灰がゆらいだら非処女、なんてお笑い版もある。火鉢のかわりに、細かくちぎった半紙を置いておくなんてのもある。これらは完全に冗談だろうが、もっとも一般的だったのは、鼻の頭を押さえ、真中に窪みが出来ると非処女、というのだ。似たのでは、女性の人差し指と小指を握り込み、あいだに出来るシワの形態で判定する、というのもあった。
こういうのは若い女性の体に、口実を作ってさわりたいという、カイショなし男の願望などもみえてなかなか興味深い。そう言えば、手相を見るからといって女性の手を握る野郎は今でもいますな。といって、「処女であるか判定してやろう」といってスケベ男に鼻や手を触らせる女性がいるとも思えず、実際の適用は難しそうだ。
また、女性は初体験すると首の太さが微妙に太くなるので、首の周りに糸を巻いておいて、切れていたら非処女であることがわかる、なんてのもあったが、これも実際にそんなもの付けっぱなしにさせてくれる女性がいるわけはなく、実行は不可能だ。
火鉢法は別にして、あとの方法の根拠とされるのは、「女性は性交渉を持つと何らかの身体的変化が生じる」という考え方である。実際、女性には解剖学的に「処女膜」という妙なものがあって、腟口の一部を覆っている。性交渉があれば、この組織が損傷を受ける確率は高く、これがインタクトなまま性行為を続けることはそうあることではない。逆に、性交渉などなくても結構脆弱なこの組織が損傷を受けることはよくある事で、初交渉の時に処女膜損傷があって出血する、というような事態はそんなに必然ではない。
それでもこの解剖学的な組織の存在が、処女と非処女をわける客観的な指標がさらに存在するに違いない、という信念を産んだようだ。1914年には、オーストラリアの医師、ワルドシュタインとエクレールが「女性器内における精子消化吸収の証明」という論文を書いている。これは、女性器内で精子は分解吸収され、女性の身体に不可逆的な影響をもたらすという内容だったようで、婚前の純潔と、結婚後の貞淑が、その後の性生活や出産、健康生活全般を良好に導く、という、はなはだ男性に都合のいい理屈を「科学的」に証明したものだった。もちろん、チャンとした観察などなく、追試もないものだが、実にその後50年近く、ことによったら今もなお、世の若き女性を威嚇しつづけるイデオロギーとなりつづけた。
先の「鼻の頭」理論がはじめて公になっているのが、明治19年(1885)、式部瀧三郎と木村己之吉という人たちによって編集された「男女交合得失問答」という本の中であるそうだ。いろんな人によって書かれた記事の寄せ集めで、いまひとつ由来がわからぬものが多いそうだが、その中で「少女(おぼこ)と成女(いろけづきたる)を識別(みわけ)するの奇法」として紹介されているそうだ。題名からすると、かなりの性的成熟者を見分ける技術のようにも思えるが、なにせ中味を読んでいない身の悲しさ、なんとも言えない。その後様々に伝承され、単なる処女鑑別法となったのだろう。
どんな内容かは別にして、この理屈には性交渉が女性の身体の一部を非可逆的に変える、という発想があるのは自明である。ワルドシュタインらの論文に先立つ事、実に30年である。これで翻訳ものの証拠でもあればいいのだが、「元来の日本文化は性におおらか」と、常識的な「性抑圧近代ヨーロッパ起源説」を掲げたこちらにすれば、少々まずい文献ではある。
もちろん、性的経験が女性の身体を成熟させる、というあまり抑圧意識とは無関係な(といっても、なんで女だけ野郎の恩恵受けて成熟させてもらわにゃいかんのだよ、という反発は当然だが)信念があって、それが明治期の価値観組換えに際して、一種の純潔センサー理論になったのかも知れず、そのあたりははっきりしない。性抑圧から解放へ、という単線的モデルを採用するにせよ、わが国の古きよきおおらかな性からヨーロッパ型禁欲倫理をへて現在にいたるというモデルをとるにせよ、それはどの物語を好むかという問題に過ぎない。いつの時代にも、人は小ずるく快楽を求め、別の都合の下ではもったいぶった禁欲を押し付けていた、というあたりが実情だろうと私はおもう。
野坂昭如に「エロ事師たち」という小説があり、その中に「処女屋」という人物が出てくる。主人公たちははじめ、処女鑑定に精通している人間だと思っているのだが、実際は小学生の女の子あたりを指して、「あれなんか処女でしょうな」と言う程度なのだ。この人物は要は、男が処女に対して持つ幻想をまとめ上げ、蓮っ葉な商売女をその幻想で覆うことで価値を高めるプロデューサーなのだった。
処女を価値あるものとする倫理が、男性中心社会のダブルスタンダード倫理の一片である、とするのは極めて常識的な主張だ。しかしそれを成立させているものが、一度の性交渉で女性の身体が根本的に変わるとする幻想であり、後はせいぜい一回性の出来事をコントロール下に置くという男性の幼い支配統御願望であるのだから、そこで得られる儚い満足の対価を享受しているのは案外女性側かもしれない。もちろんそこで先の「処女屋」のごとき手口が使われるのも、暗黙の合意があるとすべきだろう。(2001/05/06)