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更新日記

 2002/04/30

最近評判になっているらしいCD「フィオーレ」をかう。どうもサラ・ブライトマンとかフィリッパ・ジョルダーノなどの、クラシックとポップス領域をいったりきたりするヴォーカルがはやっているようで、日本でもその手の歌手を売り出そうという目論見なのだろう。

聞いてみれば、なかなか端正なソプラノである。ただ、端正でないソプラノがCDになって市販されるということはまずないので、これは当然のことだろう。そのほかは取り立てて評価することもなく、音の安定感はイマイチだし、中低音部のふくらみにかけるのでえらく薄っぺらい印象が強い。歌詞がイタリア語だったりするとまだごまかしがきくところがあるが、啄木の「初恋」なんかわざわざいれているので、ガッカリ感がしみじみ迫る。

中丸美千繪がこの人の歌を聞いて引退を決心した、なんていわれるのだけれど、それは作り話に違いないな、と確信。

 2002/04/29

「ベティ・サイズモア」(原題"Nurse Betty"2000年米映画:監督ニール・ラビュート )

人のDVD借りてばっかりなので、ライブラリに寄贈しようと珍しく自分で購入。

冒頭からガウンもつけない医者が手術しているシーンではじまり、なんじゃろこれは、と思っていたら、そういう安手の病院もの連続TVドラマ「愛する理由」にはまっているカンザスのウエイトレス、ベティ・サイズモアの話なのである。彼女はろくでなしの亭主のおかげで看護学校を中退する羽目になり、TV番組だけが生きがいで暮らしている。亭主は中古車販売業者なのだが、あるとき麻薬の売買に手を染め、殺し屋に惨殺される。

それを目撃していたベティは解離性記憶障害状態におちいり、自分がドラマの世界の登場人物だと信じ込んで、舞台であるカリフォルニアに主人公の医師を探しに、麻薬が隠されたままの車に乗って旅立ってしまうのである。それに気づいた殺し屋も、彼女を追いはじめる、という話。ナースキャップにナースユニフォームという、こんな看護婦向こうにはいないぞ、という格好で病院にのりこむ痛さが、主人公の精神的危機をうまく表している。

ウッディ・アレンの映画に「カイロの紫のバラ」というのがあり、大不況時代にろくでなし亭主のためにけなげに働く女性が、連続映画の主人公と恋に落ちる、というような話だったと思うのだが、そちらが幻想の恋の甘美さと厳しい現実との切ない対比がテーマなら、こちらは幻想であれなんであれ、勇気と決意と主体性で生きていくしかないという、えらく古典的倫理に落ち着く話なのである。

カンザスから女性が夢を求めて旅たつ、というところで「オズの魔法使い」を連想するのは必然で、劇中でも自己言及されているのだが、結局そこにおちつくのだよな、と納得するしかない、伏線ともいえぬ一種の規範があるのだ。もちろん後味そこそこすっきりで、程々のカタルシスをもたらしてくれる大佳作だとおもう。

一番面白かったのは、ボーナス映像についていた、「愛する理由」というTVドラマ自体。これだけでもDVDかう価値はある、というのはさすがにオーバー。でも、病院ドラマでは必ずレントゲン写真が一部裏返しにされている、という原則を守ってくれているところは憎い。

 2002/04/28

昨日の拙文を怪訝に感じられたかたがいたようで、これはひたすら私の責任である。やはりボケるときはわかりやすくボケないと、意図がうまくつたわらない。普通の解説とみせて、次第に意味を崩していく手際のよさが求められるが、ちょっと力不足でありました。以下に書き直してみたが、少しは改善されているだろうか。
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PCオーディオの質が多少上がったため、ヒマなときは音楽ばっかり聴くようになった。最近のお気に入りはホセ・クーラである。ガツンとせまる迫力には欠けるのだが、言葉もわからんのにエモーショナルな体験をなんとなく共有させてくれるのが粋である。

この人がしばしばレパートリーにするおかげで、プッチーニの「西部の娘」というオペラが知られるようになった。もちろん知っている人は前から知っているのだろうが。プッチーニは「蝶々夫人」のように、行ったこともない場所のご当地オペラを結構書いていて、これはなんと西部劇ものなのである。

主人公はカリフォルニアの酒場の女主人、ミニー。相手は当然ミッキーである。ミッキーは流れ者ガンマンで、悪徳保安官ドナルドに追われていて、ミニーはそれを助けるのである。これが作られた当時、吹き替えという発想はなく、ミニー、ミッキー、ドナルドのかぶりモノをつけて歌わねばならなかった歌手たちには非常に評判が悪かった。プッチーニはまた、「湯煙温泉殺人旅情−不倫の果てに生じた殺意に湯の花が染まる!」などというような小品をいくつか書いたと伝えられるが、手抜き作品だったためか、現在は失われている。

プッチーニの最後の作品は、中国を舞台にしたオペラ、「トゥーランドット」だとされるが、もう一つSF宇宙ものにも着手していたことはあまり知られていない。これは神秘の力を授けられた白の騎士が、黒の騎士に率いられる悪の宇宙帝国と戦う話である。プッチーニは主人公をカウンターテナーにして、その歌声自体が「ミラクルボイス」という超絶的武器になるアイディアをもっていたのだが、残念ながら完成する前に彼はこの世を去った。後に「少年ジェット」なる漫画にこれがパクられたのは有名な話である。
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ネタがないので、同じこと書いて二日分にしようと思ったのばれたかな?

 2002/04/27

PCオーディオの質が多少上がったため、ヒマなときは音楽ばっかり聴くようになった。最近のお気に入りはホセ・クーラである。ガツンとせまる迫力には欠けるのだが、言葉もわからんのにエモーショナルな体験をなんとなく共有させてくれるのが粋である。

この人のおかげでよく知られるようになったのが(もちろん知ってる人は前から知ってるだろうけど)、プッチーニの「西部の娘」というオペラであろう。プッチーニは「蝶々夫人」のように、行ったこともない場所のご当地オペラを結構書いていて、これはなんと西部劇ものなのである。おまけにオペラとしては画期的なことに、キャラクターをディズニーから借りて、主人公の流れ者ガンマンにミッキーマウスを、彼を慕う酒場の女主人にはミニーを配し、執念深くミッキーを付けねらう悪徳保安官にドナルドダックを割り振っている。

かぶり物で歌うのは大変で(当時、吹き替えという発想はなかった)、このオペラは歌手に評判が悪く、ほとんど上演されることもなくなっていた。プッチーニは有名どころでは「トゥーランドット」という中国ものを書いており、他にも週代わりで「湯煙温泉殺人旅情−不倫の果てに生じた殺意に湯の花が染まる!」などというような小品をいくつか書いたと伝えられるが、手抜き作品だったためか、現在は失われている。

プッチーニが死の直前に着手していたのはSF宇宙もので、神秘の力を授けられた白の騎士が、黒の騎士に率いられる悪の宇宙帝国と戦う話である。プッチーニは主人公をカウンターテナーにして、その歌声自体が「ミラクルボイス」という超絶的武器になるアイディアをもっていたのだが、残念ながら完成する前に彼はこの世を去った。後に「少年ジェット」なる漫画にこれがパクられたのは有名な話である。

 2002/04/26

けさの毎日新聞に、「<神経芽腫>乳児検診見直し 有効性調べ中止も 厚労省」という記事が第一面に出ていた。この検診は昔から有効性に疑問がもたれていて、新生児のとき見つけようがほっておこうが、ある年齢以上になると疾病率は同じであることが統計的に示されていた。新生児期の神経芽腫というのは、ほとんど自然退縮すると考えられていて、それを「早期発見」したつもりになって治療すると、かえって悪化させてしまったり、体力を奪うだけであったりして、症状が出てから治療した群との治療成績はまるで変わらないのである。有意さはないが、数字の上だけで見ると、いじったほうの死亡率はむしろ高くなる。(検診群死亡率万対1.3、非検診群万対1.2)

子供の家族に無意味な負担を強い、なにより子供自身に、人生最初のイベントが過酷な外科手術や化学療法だという桎梏を負わせるだけで、何の治療的予防的効果もないのだから、ほとんど関係者が趣味でやってる虐待犠牲者を引っ掛けるための検査である。新生児の尿をろ紙につけてセンターに送る、という安直な方法でもあり、研究者と行政が何かやってるふりをするには最適だったというのも、惰性で行われてきた原因の一つになっているだろう。

新聞記事ではドイツの研究者からの提言をうけたことになっていたが、私みたいな門外漢でもだいぶ前から知っていることである。自分の子供が生れた時、尿をこのろ紙につけて送れ、というのが来たが当然破り捨てている。厚労省がほっかむりしていたのは、ただただ他の分野の癌検診にも疑問の目が向けられることを恐れたからに違いないのだ。

何はともあれ、またひとつ「早期発見早期治療」の神話が崩れたことになる。それにしても、毎日以外の新聞社が全然報道していないのはどういうわけだろう。毎日のサイトにも、もうこの記事は保存されていない。見つかったのはヤフーの簡略化された記事だけだ。ちゃんとした解説記事を長期保存するべきであろう。

 2002/04/25

昨日のVH-7PCだが、ノイズを拾いにくいのはたしかながら、ちょっとブラウザを開いたり、ファイルの操作をするたびにやたらブチブチと音切れがするのでいやになり、USB入力はやめにして普通にサウンドカード経由でAUXに入力することにした。もちろんそれだって音飛びはあるが、ほとんど気にならないレベルである。

TOMOYA.COMなどを参照すると、「USBの帯域は最高1.2Mbytes/秒以上あり、これはCD-ROMでは8倍速に相当する」とある。それだけ余裕を持ってデータが転送されているなら、ちょっとした作業で音飛びが生じる理由はないはずだ。

これを説明する原理として、そちらのWebmasterは「デジタル帯域十に三の法則」というのを主張しておられる。これは「デジタル帯域の真に安定した帯域は公称値の30%以下」ということで、USBも例外ではなく、せいぜい400bytes/秒がいいとこだろう、とのご意見。確かに経験的にも納得のいく数字である。

Win2kのUSBオーディオ標準ドライバがタコなのか、VH-7PC側のデコーダがイマイチなのか、アナログ入力との音量の差がありすぎるため、、PC音源からFMに切り替えると急に音量が大きくなってあわてることもなくなった。音質はというと、やはり私の耳では差などわかりまへん。

 2002/04/24

こちらの勧め、というわけではないのだが、ケンウッドのVH-7PCというCDレシーバーを買う。正確にはリンクに示したOP−VH7PCからPC接続用のソフトを取り除いたもので、PCから操作することは出来ないが、PCの音をUSBで取り出して聞くことは出来る。ドライバもWIN2000なら標準でいいし。

もともとはソーテックのPCとコンポにして使うものだったらしいのだが、ソーテックのほうがこれ用のPCを取り揃えられず、ほとんど売れずに大量在庫となったという経過があるらしい。いってみれば、標的のロシア軍が撤退してしまったので、スティンガーミサイルが大量にタリバンのもとに残されたようなものである。ちょっと違うか。

あのスティンガーミサイルはメンテ物資がないと使い物にならないそうで、それをよく知っていた米軍は全く脅威でないと判断し、事実そのとおりであった。こちらのVH7PCのほうはそんなこともなく、けっこうちゃんと働いてくれる。通販で1万ちょっとなのだが、まあ3万9千8百円ぐらいで売られていてもおかしくない。もちろんそれなら買わないが。

これには出力を絞った時には自動的にA級動作になるアンプが組み込まれていて、そこそこまとまりのいい音を聞くことが出来るが、奇妙なまでにステレオ分離が強調されていて、机の両端にスピーカーをおくと、なにかミニチュア楽団が演奏しているみたいに聞こえて気持ち悪い。普通コンサートなんかでは、パートごとの音の並びがはっきりわかることなんかないわけで、この手の再生時だけ成立するフィクションはあんまり好きではない。

そこでスピーカーを非オルソン配置(何のことはなく二つ背中合わせにおくだけ)に置き換えてこの問題は解決。右左チャンネルの干渉がなくなるからか、音のふくらみもずっとよくなる感じである。なんていっているが、私の耳では差など本当はよくわかりません。少なくとも置き場所の合理化にはなるので、興味ある方はだまされたと思っておためしを。

 2002/04/23

面白いTV番組がないのに業を煮やし、DVDの「ダーク・エンジェル」全11巻を二日間で全部見る、という暴挙をなす。くだくだしいところは早送りできるし、毛唐の顔を覚えられない私にも、さすがこれだけ何度も同じ奴が出てくれば一応人物関係の把握も出来るし、なかなかおもしろくみられた。普通の映画でも、編集前のだらだら話をリリースして、ザッピングでみればもっと面白いのかもしれないなぁ。

監督のジェームズ・キャメロンはリドリー・スコットの「ブレード・ランナー」へのオマージュとしてこれをつくったのだそうで、時代設定をそれに重ねているそうな。それはいいのだが、TV映画としては破格の制作費をかけ、テロで経済破綻し、荒廃した近未来のアメリカを描いたという割には、ドラム缶で焚き火しているホームレスがあふれる街の風景にそんなに金がかかっているともおもえず、ちょっと引きの画面になると瀟洒なシアトルの街並みがそのままだったりして、制作費の大半は適当な理由つけてトンネル会社で回収したんではないか、なんて考えてしまうようなつくりなのだ。

画像的にも、「マックス・ヘッドルーム」あたりそのままですもんね。DNA操作で作り出されたという設定の、主人公のマックスを演じているジェシカ・アルバの、ラテン系やらインディオ系なんかがかなり混じりこんでいるとみえる、そのエキゾチックな風貌が多少見所というところか。

それにしてもこの人、華奢な体に似合わない、オッパイのでかさをやたらに強調した衣装で現れるのだ。あのオッパイでは格闘技のさいバランスを崩すんではないか。ジェームズ・キャメロンという人は強い女に妙なこだわりを見せる人で、そこで中性的な女性が活躍したんではいかん、と心に強く決するところがあるようだ。単にああいうのがキョービのはやりなのかな、というのはこの前の「トゥーム・レイダー」で感じたことではありますが。

全然関係ないけれど、このドラマ、脊損の人との性行為への誘惑がしばしばテーマになるのだけれど、それはちょっと無理なんではないか?

 2002/04/22

デンマークの病院で、背中のホクロとりの手術を受けていた30歳の男性が、術中にオナラをしたため、電気メスの火花で着火、さらにアルコール性の消毒液に燃え広がり、ペニスと睾丸にやけどをおうという事故があったそうだ。これがもとの記事だが、デンマーク語なのでさっぱり判らない。こちらが英語ニュースサイトの転載記事。被害者というか、加害者というか、よくわからないんだけれど、いかにも運の悪そうな顔してます。まあ医療事故というやつはどんなに予測困難な事態であっても、医療側の責任ということになるので、裁判すればこの人の勝ちでしょうけど。

それにしても、粘膜部にアルコール性の消毒薬をつかうかね?そこらあたりが過失ということになるのかな。

 2002/04/21

一週間前から書き始めていた「けしの実入り食品を食べて麻薬検出」の話を「医学都市伝説」にアップ。ここの更新は実に四ヶ月ぶりである。この間、三つ四つ書き出したのはあるのだが、どうもまとまらなくていけません。今回のも、麻薬合法化論に一般化するところに無理があるような気がするが、見切りでそのままアップ。妙なところは弘法大師の命日に免じてお許しを。

 2002/04/20

一昨日調子よくiMacを手に入れたようなことを書いたのだが、どうせ普通のMacOSをつかうこともないので、ここはひとつOSXにアップデートしてUnix屋さんになろうと、インストールをはじめて見たら、2台ともインストール途中でKernel Panicどうのこうの、などいう禍々しいメッセージが出て止まってしまう。

おまけにその後、動いていた旧MacOSまで起動しなくなり、CDからの起動すら出来ない。やはり不純な動機でコンピュータに接すると、ちゃんと報いが来ますな。ここは地道にもとのシステム回復を図るしかなさそう。苦労話をでっち上げる必要はなくなったといえ、私物化路線はすでに敗退の雰囲気である。実は自宅内無線LANで使おうと、AirMacカードなんて買ってしまったんだけれど、返品はききませんわなぁ。

 2002/04/19

おもしろ洋ものサイト紹介ではおそらくNo.1といえる「きになるWeb」で、"KISSTHISGUY.COM"が紹介されていた。流行曲歌詞聞き間違いの投稿サイトである。"Don't it make my brown eyes blueを"Dounuts make my..."と聞いていた、などと投稿するわけだ。これには同工異曲のサイトが山ほどあり、同じネタの使いまわしもしょっちゅう見られる。どうも英語圏の人間に、これは普遍的な娯楽のようで、なかにはこんな手の込んだ聞き間違い集大成をしてくれるところもある(音楽再生されるので注意)。

日本だと「空耳アワー」というジャンルがあり、たとえばフィリッパ・ジョルダーノ の「清らかな女神」、"A noi volgi, a noi volgi"の部分が「あのイボ痔、あのイボ痔」と聞こえる(確かに本当に聞こえるから困る)、というような投稿があつまっているのだが、日本語歌曲の聞き間違いを集めている例はみたことない。

全体に向こうの聞き間違いはやたらに強引なのが多く、例えばビートルズの"Michelle"のフランス語歌詞部分を"Michelle my bell, some day monkey play piano song, play piano song.."などと聞いたりする。やはり日本人は控え目な人種なのだと感心し、ヒアリングが大事だのなんだのいいつつ、向こうの連中もけっこうトンマな聞き取り能力しかもっていないのだ、とちょっと安心する面もあるので、ぜひのぞいてみられることをお勧めする。

 2002/04/18

前の職場のガラクタ置き場に、旧型のiMacが二台放り出してあったので、修理するからと持って帰る。一台は最初期型、もう一台は例のフラットパネルへのモデルチェンジ寸前のタイプである。両方とも起動があやしく、かろうじて起動しても途中でぷっつんと終了してしまうという。販売店に問い合わせたら、ボード交換するので10万近くかかるといわれたらしい。あんなの業務用に買ったらダメだ、と助言してやってたのに。

たぶん内臓電池かなにかの接触不良だとおもうので、ちょっと細工すれば両方使えるようになるはず。うまくいけばご褒美として、片一方はもらってしまおう、という目論見。家に持って帰って早速起動してみると、最初期型のほうは何の問題もなく動き出し、今も稼動中。おそらく車で運んだ振動で接触不良がなおってしまったのだろう。

もう一つのほうはそういうわけにはいかず、マックでは見たこともない妙な一行メッセージが出ただけで止まる。もしかしたらメモリが抜けているんでは、と思えばまさしくそう。このiMacはPC/AT機と同じメモリでいいらしいので、あまっていたのを追加してOSX専用機として使うことにする。

というわけで労せずして、旧型とはいえiMacを手に入れられた。修理に苦労した話をでっち上げないといかんが、気分は縞の財布に五十両、である。でも、iMacって、軽微な故障であんなふうに棄てられてしまうのが沢山あるんだろうなと、なんとなく悲しくなる。

 2002/04/17

昨日の記載に対して、掲示板のほうで読者から指摘があった。本来、「輪行」はサイクリングの意味だったのが、鉄道内へ自転車持込するサービスを「輪行切符」という名前ではじめたので、「輪行」=「自転車をパッキングして鉄道などへ持ち込むこと」という意味に特殊化したのだ、というもの。輪行は輪で行く、とみるのが普通だろうし、ああいう意味に使われるようになった理由を考えるとき、なかなか説得力ある意見だとおもう。

しかし、全面的には受け入れがたいようにもおもう。なぜなら、昔の国鉄で「自転車を持ち込むサービス」などまったく展開していなかったから。ヨーロッパなどでは認められる(フランスは確かダメ)鉄道内自転車持込を、旧国有鉄道は頭ごなしに拒否していて、分解して所定のサイズ以内にパッキングするなら、手荷物持込切符を買って持ち込んでもいい、ということだったはず。私鉄もほぼその態度を踏襲していた。記憶が違っているかもしれないが、「輪行切符」というのは、サイクリストがそう呼ぶだけで、正式名称ではなかったと思うんですな。

だから、やはり「輪行」という言葉がサイクリングそのものではなく、「自転車を分解して持ち運べるようにパッキングし、公共交通機関で移動すること」としてかなり以前から成立していた、と思うわけ。戦前のサイクリストが書いた文章でも読んだ覚えがあるぐらいで。私の記憶はいい加減なので固執はしないけれども。

もしそうなら、「輪行」という言葉がどうやって成立したのか、というのは謎ではある。「臨幸」とか「臨行」からのもじりかな、とおもったり。資料もないので結局よく判らない。水行十日輪行一月。

 2002/04/16

初めから謝っときます。ごめんなさい。大きなお世話だと思っているのです。まして体調不良で危機的な状況だったわけで、そこにつまらぬ言葉の問題を指摘して何になるんだ、といわれても仕方ないんです。

でも月川先生(4月14日の記事)、「輪行」というのは、「自転車を分解して持ち運べるようにパッキングし、公共交通機関で移動すること」を言うのです。決して自転車そのもので移動することではないのです()。たしかに辞書では輪行=サイクリングとなっていて、一般言語感覚的には解せないような気はするのですが、自転車オタク的には誤用なのです。

しつこくマイナースポーツ文化用語にこだわる愚をお許しを。讒奏蛟竜。あ、意味になってない。

 2002/04/15

「三色ボールペンで読む日本語」(齋藤孝:角川書店)

正直言うと、本屋で立ち読みしただけ。この人の「声に出して読みたい日本語」というやつももう一つ気に入らず、柳の下に二匹目のドジョウをねらう姿勢がみえみえのこれも当然気に入らない。

「声に出して…」がなんで気に入らないかといえば、言語は口述が本来のものだというのはそのとおりだけれど、それは同時にコミュニケーションを前提とするものでもあるはずで、たとえ香具師の口上であっても、観客との微妙な掛け合いというのものがあるからこそ生き生きとしたものになるはずで、一人がたりなら文字にとどめられたものと差などない、と思うからだ。そんなに声に出すのが素敵なことなら、本なんかにせずCDにしたらいいのに、などと嫌味をいいたくなる。

「三色ボールペン…」は単純に、この手の作業が私には不可能だから。色を変えて線引きながら本なんか読めますか。私は自慢ではないが、字も下手だがそれ以前に造形能力が欠如していて、フリーハンドでねらったところにまっすぐ線を引くということが出来ない。その上に、読んでいる文章の大事なところをうまく抽出する作業なんかまるっきり不得手で、昔読んだ本を読み返して、見当外れのところに歪んだ線が引かれているのを見つけたりすると絶望的な気分になるので、だいぶ前からマーキングはしないことにしている。ここは引用に都合がいい、と思ったらポストイットを貼るぐらい。

大体、文章に線を引くというのは、中学高校の国語の試験問題などからの発想ではないだろうか。「下線部分の意味を20字以内に要約せよ」とかいうやつだ。ああいうこせこせした文章の読みかたを、自分で選んだ本にまで適用するこたぁないと思いますがね。ましてそれをさらに細かく色まで変えて、「客観的に重要」とか、「主観的におもしろい」などと意味づけしようとするのだ。私ならどうせそんな原則はすぐに忘れてしまうし、客観もくそも、全部自分の主観でしかないのだから、つまらん分類などしても意味などないではないか。

本なんてものは、資料としてつかうのでないかぎり、行きつ戻りつ、あれ、ここ読んだっけなどと自問自答しながら、著者の助けを借りて自分の世界を作るものであって、一字一句にこだわるような読みかたからは自由でありたいな、とおもう。

この著者、声に出して読むとき、大事だと思うところはきっと「声色を変える」に違いない。

 2002/04/14

芥子の実が入った食品を食べたために麻薬スクリーニングテストに引っかかる、ということがあるのだそうで、米国ではこれが原因で解雇騒ぎがあったり、逆にこれを使って麻薬常習者が摘発を逃れたりするそうだ。

ここしばらく更新していない「医学都市伝説」の記事になるかと、関連論文を読んだりして半日すごすが、今ひとつうまくまとまらない。私の持論である「麻薬完全合法化論」に無理やり話を進めようとするのがいかんのかなぁ。アヘン流通が合法化されたら、アフガンあたりの戦後復興の役にも立つし、一部テロリストの資金も根絶できるし、いいことばっかりだと思うんですけどね。ま、もうちょっとがんばってまとめてみよう。いつになるかはわからんが。

 2002/04/13

実を言うと、だいぶ前からいわゆるアクセス解析のCGIをトップページに貼り付けている。実際そう役に立つわけでもなく、月に三〜四回見るかどうか、というところなのだが、最近気がつくのが、訪問者の使っているブラウザの多数派が、IEからNetscapeのほうに移っているということ。このサイトに限ると、60%の訪問者はNetscape系を使うようになっている。これは今年になってからの現象で、去年まではIEの一人勝ちだった。

自分でもマイクロソフトのセキュリティメールを貰うようにしているが、最近はほとんどスパムのように日に何通も届き、なんぼなんでもこれはヤバイのではないか、と感じる。いまだにRe:のメールも来ますしね。メールも一緒に使えるなら、Netscapeを使うほうが素人むけであるのは間違いない。マイクロソフトは本当に事態を把握できているのだろうか。

多数派について無視していたのではいかん、とNetscapeもダウンロードしたが、それほど表示に不具合はないようだ。Netscape6なら画像表示でちょっとまずいところがあるみたいだけれど。

というわけで、このサイトは今後Netscapeでのチェックがメインになります。IEでの表示が妙だったら教えてね。メールソフトもやっとOutlook2000を見限ってNetscapeを使う決心をしたのだけれど、パスワードなんか覚えているわけはないので、完全移行はいつのことやら。

 2002/04/12

当直。ヒマにたえられず、医局の片隅にうずたかく積み重なっているパンフレットの類を整理しようと思いつく。そのままゴミ箱直行でも、おそらく誰も困らないだろうが、一応確認しながらダンボールに放り込んでいると、「精神疾患簡易構造化面接法」と題した、DSM-IVやICD-10に即した診断をつけるための診断面接手順のパンフレットを見つける。

診断を標準化するだけでは飽き足りず、面接手順まで同じにしないと気が済まない、マニュアル化至上主義者の強迫的情熱にはあきれるしかない。簡単なものだから、質問項目を患者がマウスでクリックしていけばいいようなソフトにしておいてくれたらいいのに。面接者側のばらつきも標準化できるはずですがね。

さて、そのなかで見つけたのが次のような項目。反社会的人格障害に関する質問である。

この答えが「はい」である場合、ほかの項目も含めた診断有用性は果たしていかに?「クレタ人のパラドックス」も顔色なしである。

 2002/04/11

仕事場ではくサンダルがダメになったので、近所のスーパーでいくつか品を見てみたがろくなものがない。さしあたって、と大安売り198円という品を買ったら、今日一日はいただけで底がすりきれてしまった。

底が発泡スチロールだったものなぁ。一見そう見えて新素材ではないか、なんて期待したのだが、あの値段でそんなことがあるはずがない。なんか、映画「仁義の墓場」の導入部にあった、靴底にスルメをはって金をだまし取るエピソードを思い出してしまった。

私らの仕事では筆記具も大事だが、フットギアもそれなりに大事である。瞬発的な動きが要求されることもあるし、普通ならまず足を踏み入れることがないようなところで仕事することもある。それに病院というところは基本的に、やたらに不潔なものが床に散らばっていることがあるので、丸洗いできるというのも大事である。

研修医の時に先輩医師から言われたのが、「殺し屋と精神科医はラバーソールの靴が必需品」という半分冗談(だと思う)のアドバイス。落ち着かない人にそっと近づいたり、ダッシュで逃げたりするのに必要なのだと。今ならビジネスシューズ風で動きやすい靴をいくらでも買えるが、ほんの20年ぐらい前までそんなものはなかなか見つからなかった。

運動靴をはけばいいのだが、それではちょっとフォーマルな格好をするときに困る。仕方なく、バスケットボール審判用の靴を取り寄せてはいていたりしたことがある。年取ってくると、パワーで事態を乗り切るようなことをしなくなるので、そんなもの使わなくなりますがね。でも葬式や結婚式で黒靴がいるときには、今でもバスケットボール審判靴をはくのですが。

 2002/04/10

殊能プログラム、今夜は"namemaker"である。俳句自動生成よりも簡単なもので、漢字を適当に配列して、名前と言えなくもない文字列を生成してくれる。

早速一回目。「覇渓致 萩吟」とな。「ハケチ ハギシナ」とでも読むか。この人は明智小五郎の曾孫なのである。しかし祖父はろくでなしで、家出した母親に育てられた萩吟は少女のころから名探偵の素質を見せる。明智の名を嫌いつつも、曽祖父を心の底で敬愛する萩吟は、姓を覇渓致と名乗り、探偵事務所を開くのである。

二回目。「醇燦 戯人」、なんやねん。没落貴族、醇燦家の末裔である戯人は、萩吟と偶然に知り合ってその助手になる。

次ぎ、「至剛 呂子」。キャリアウーマン風の呂子は、ある失われた芸術品の回収を依頼に来るのだが、背後の事情を語ろうとしない。次ぎ、「装憤 寅士助」。しかし萩吟は、それが装憤財閥オーナーの寅士助が、密かに集めていたコレクションの一部であったことを言い当てる。

今度は「配全 君郎」、まだまともかな。動揺した呂子が語った事情を聞いて、依頼を引き受ける萩吟だが、彼女のあとであらわれた装憤財閥の商売敵、配全グループの総帥、配全 君郎は、配下の「捨翔 暴」や「換哀 普」を使って、手を引くように脅しにかかる。

彼らを難なく追い返した萩吟は、戯人をともない、配全に庇護される美術界の黒幕、「銅跳 釈十」のところへ乗り込むのだが、そこで萩吟たちが見たものは、釈十の死体の前で血染めのナイフをもって立ちすくんでいる装憤寅士助の姿であった……。

てな感じで想像をたくましくして楽しむものなのかな。名前のイカレ加減ばっかり際立って、火曜サスペンス劇場以下の筋立てしか思いつかないのが悲しいぞ。

 2002/04/09

殊能将之氏のオフィシャルページに、"digitalbasho"という俳句自動生成プログラムがあったので落として遊ぶ。Mac用のPerlで動くようになっていたので、ちょっと細工が必要だったが、何とか無事に動き出す。

黒む水 春風月見せ 山に咲き

京江戸に 鳴く身に浮世の 月遠し

荒海の けり声悲し 風の下

鐘撞鐘 もぐれて寝んや この庵に

死ぬ旅寝 春立て郭公 招きたり

鳴く偃鼠の 下ゆる梅が 春をとぎ  (以上、一部手作業での改変あり)

うーむ、なんだか判らないが凄みだけは伝わってくるぞ。さすが殊能氏の作るプログラムである。もう一つ"digitalbuson"というのもあったが、なぜかこちらはあまりそれらしい句にならない。プログラム自体は同じで、語彙データだけが違うらしく、たぶんそれぞれ芭蕉と蕪村の句をばらしているのだろうと勝手に決めつけているのだが、そうだとすると芭蕉のほうが偶然と必然が織りなす味わいというものにより依拠しているのだな、と感じたりする。

 2002/04/08

4月8日で、お釈迦様の降誕祭で、ピカピカの一年生があふれかえっているのである。本当なら満開の桜の下で、黒羽織の母親が、ランドセルをしょったわが子を涙目でながめ、「良くぞ育ったわが息子〜」とコブシを効かせていたりする筈なのだが、花はとっくに散ってしまっているのである。

私が一番長く通った小学校の校長は、どうも熱心な宝塚ファンであったらしく、クラスの呼称に「月組」「雪組」「花組」というのを使っていた。「君は何年何組かな?」とたずねられたとき、「5年花組です」などと答えるのは子供心にも恥ずかしかった。当時はまだ近郊の田舎町だったが、その後大規模住宅地開発がそのあたりでは進行したはずだ。あの小学校も大規模化して、星組や宙組を増設したのだろうか。なにより、それ以上子供が増えていたら、どうやって対応したのだろうか。いまでもときどき心配するのである。

 2002/04/07

たいして書くこともないときには、逆にけっこう真面目に仕事関連のことを考えたりするのだが、業界本を全部職場に持っていってしまったので、ちゃんと業界概念を参照して、気の効いた引用なんぞをあしらったりするのが難しい。30年近くこの仕事してきて、自分の言葉だけで自分の考えを展開できない、というのは情けない話である。

というのは、ビューティフル・マインドという映画について掲示板で質問があった件についてである。映画の主人公はゲーム理論の基礎を作った天才的数学者で、その人が分裂病を患いながらもそれを乗り越えていくような話らしい。

正直言って、分裂病とひとからげにした場合、この主人公みたいなことがあるかと聞かれると、ちょっと疑問なのである。エピソード的に分裂病症状が経過するような、非定型なタイプならそういうこともあるかなとは思う。でも映画の描写はそうでないようだ。

もちろん私が接してきた症例でも、大概の人がその人なりの幸せを得て暮らしているし、高い社会的評価を得ている人も少数ながら知らないではない。しかし、こと学問的領域で独創的な成果を得るような例を自分で見たことはない。もっとも、世の人の中には案外、精神医学的に異常とされる症状を抱えながら普通に暮らしている人がいるもので、分裂病系の症状だってけっこう見られるのだ。

有名なのは夏目漱石の追跡妄想で、彼の場合はっきりした幻聴を伴っていたと考えられている。病蹟学という学問があって、作品にのこる症候をあつめ、その芸術に疾患がどう作用したのか、などと考えるのだが、治療もしていなかったのに、なんで悪化しなかったのか、という観点で論じられているようなのは読んだことがない。そういう一過性の病型だったのだ、といっておけば済むからだろう。

その理論を大胆にまとめると、分裂病症状を持っていても、他人に気づかれないように内に秘め、自分でも無視するテクを覚えればいいのだ、という高名な学者がいて、私も直接教えてもらったことがあるのだが、実際そのような「治療」がうまくいくのは、症状が軽症で、しっかりした人格と一定以上の知的能力がある幸運を備えている場合なのである。そういうケースなら、もともと治療にそう苦労することなどない。

煮え切らんことばっかり言うんじゃない、分裂病の一般的予後はどうなんだ、と思われるかもしれないが、結局いえることは「人それぞれ」。厄介な病気とのたたかいという余分なハンディを抱えるのは事実ながら、それもまた人生なのである。考えてみれば、私を含めた身の回りの人たちだって、若き日の夢は破れっぱなし、日々の暮らしをなんとか乗り切るのに精一杯、という連中ばっかりなのだ。まして、世界に認められるような独創的な成果をあげているような人間、誰一人いやせんのである。

 2002/04/06

合衆国郵政公社のサイトに、引越しアドバイスのコーナーがあるのだが、そこに記されている生活資材梱包法の項目にこんなのがある。
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カバ

用意するもの:

カバ一匹について1000ガロンのタンク一基。1000ガロンの水。クレーン。約500gの鎮静剤。カバを落ち着かせる音楽。アスピリン2錠(これはあなた用)。

梱包手順:

(1)タンクに800ガロンの水をいれる。これは前日から始めること。中ぐらいのカバは約200ガロンの容積があることを覚えておくこと(本当かって?あなたカバ飼ってるんでしょう?)。
(2)鎮静剤を投与する。自分のほうもアスピリンを飲む。
(3)ちょっと待ち、それからカバをタンクに入れる。カバ好みの音楽をかけ、それからクレーンをつかう。
(4)ゆっくりと熱い風呂につかり、フォークリフトの到着を待つ。
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この記事、役に立つ人いるんでしょうかね。

 2002/04/05

ASCHIIと書かれた郵便物が届いているので、なんだろうとあけてみれば、先月応募した、e-NOVELSの犯人当てミステリの賞品である。「蚊―か―コレクション」という文庫本と、500円のウェブマネーカードが入っている。関西の放送局がやった同じ趣向の懸賞と勘違いして、50万円の賞金をあてにしたのに、えらい落差である。でもなんであれ、貰えるのはうれしいもの。

「蚊」のほうはぱらぱらと読んでみたが、田中啓文の「赤い家」というのが、大喜利趣向を盛り上げていてなかなか面白いのだが、あとが軒並みダメ。こういうのはバカに徹してくれていないと、妙にせこく業界技巧をこらされても白けるばかり。タダでもらったのだからいいじゃないかと、自分をなだめておく。

 2002/04/04

Googleユーザーとして、あなたはすでにそのスピードと正確性に親しんでおられるだろう。ではどのようにしてGoogleが多くの質問に対して、正確な検索結果を表示するのかご存知だろうか?Googleサーチの中心的技術はPigeonRankといい、スタンフォード大学でGoogle創始者であるラリー・ページとセルゲイ・ブリンによって開発された。

彼らはB・F・スキナーが創始した理論に依拠して、ウェブページの相対的重みを判定するのに、人力やマシンアルゴリズムよりも、安価な鳩の群れ(pigeon clusters (PCs) )を使ってより高速に行えると考えたのである。Googleの技術者たちはサービスのさまざまな側面を改善するために努力しているが、このPigeonRank方式はいまもウェブ検索の基礎を提供している。

PigeonRank方式の成功は、普通の飼い鳩の優秀な耐訓練能力と、対象認知能力に負っている。鳩は示された対象物の微妙な違いを容易にみわけるので、数千の類似サイトから関連サイトを選ぶことができる。

一般のサーチエンジンは、猛禽類やニワトリ、あるいは動きの鈍い水鳥などを使っているので、多数の鳩を集中して使っているGoogleはより高速な検索を行えるのである。

Googleに検索項目が入力されると、それはデータかごにおくられ、瞬時に関連サイトがモニターに表示される。関連度の高い結果を見た鳩はバーをつつき、それがPigeonRankにカウントされる。つつき回数が多いほどPigeonRank は上がる。もっとも多くつつかれたページがトップになり、あとはつつき順位で表示される。

Googleの鳩方式は不正が入り込む余地がほとんどない。一部の恥知らずなウェブサイトは、自分の順位を上げようと、パンクズや鳥のえさ、派手な色のオウム画像などを表示していたりするが、Googleの技術がこのようなことで欺かれることはない。Googleサーチは簡単かつ着実、そして客観的に、あなたの検索に高品質の答えと情報を提供する。
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以上、こちらの抄訳。エイプリル・フール記事なんでしょうな。スキナー理論なんぞをあしらっているのがひねりのあるところ。

 2002/04/03

「トゥーム・レイダー」(2001米映画 監督:サイモン・ウェスト)

DVDで借りて見たのだが、酔っ払っていたので翌日になると見たことすら忘れていたのだった。なんか悪の秘密結社が時間を支配する古代のマシンを手に入れようとしていて、それに女インディ・ジョーンズ的主人公が戦いを挑むような話だった。

主人公というのがでっかい屋敷に執事とオタク系メカ担当スタッフまで用意しているバットマン系の富豪プロで、どうもこの人のことはある程度知っているのが前提のつくりなのである。導入部なんかをみると、ゲームのキャラなのかとおもったり。

数千年前に作られ、惑星直列の時だけに動作するというたいそうな秘密機械が、なぜか千年ちょっとしか歴史のないアンコール・ワットに隠されていたりするのはご愛嬌、なぜか最後は北極あたりで決戦をしていたような気がするのだが、その辺の必然性などさっぱりわからぬまま話は進むのである。ストーリーに集中していないこちらが悪いのだが、とてもそうする気にはならないつくりであるのは万人認めてくれると思う。

主人公を演じているのが、ジョン・ボイトの娘さんで、「ボーン・コレクター」という、これまたストーリーの必然性に根本的無理のあるような映画で見たことのある人なのだが、すくなくともこちらの映画の無意味なこけおどし属性のほうに適性があるのだけは確実なのである。オヤジのジョン・ボイトはいい役者だと思いますがね。「チャンプ」で子役が"Champ !, Wake up !"と叫ぶシーン思い出すだけで泣けてくるぐらいで。あ、本人の演技とは関係ないか。

最近はこの人、出てくればこいつが悪者に違いない、と見当つけられるような役柄ばっかで、今回も主人公のオヤジ役で出てはいるのだが、一番悪いのは絶対こいつだ、と決め付けていたら、結局いいオヤジであったことがわかり、ただただ「ととさま恋しや」のファザコン主人公の行動原理が正当化されるのだった。

それにしてもアンジェリーナ・ジョリィ、「ボーン・コレクター」のときはあんなにオッパイでかくなかったがなぁ。「ボイジャー」のセブンオブナインとおんなじようなパッドいり密着衣装を着ているのか、全然セクシャルでない二次性徴強調なのである。いったいどういう対象をねらってああいう格好をさせるのか、ちょっと意図を聞きたいような気もするのである。

 2002/04/02

自宅に本をおくスペースがなくなってきたので、職場に自分の部屋が出来たのをいいことに、職業関連の本は全部そっちに持っていくことにした。前の職場にも段ボール箱五つ分ぐらいが置いてあるので、それも移動を開始。

本の分類というのは難しく、それでわざわざ職業があるぐらいなんだからとは思うものの、本棚に整理するという簡単なことすらなかなか出来ない、というのは共通体験だと思うが、「職業関連」というだけでも大変である。

「脳波の読み方」なんてのは間違いないが、例えば「哲学辞典」はどうしようか。べつに哲学者でもないのだが、仕事でも参考にすることはあるし、こういうバカ文章書くときにも必要なことはある。「共同幻想論」てな本を仕事で使うことは決してないが、家で読むこともないし、何でこういう理屈が商売のたしにならないのか、という視点で逆に役に立つこともあって、ちょっと参照しようと思うこともないではない。

てなわけで、夜遅くまで本棚を前に立ちすくみつづけている次第。

 2002/04/01

変な夢を見た。

私はよれよれのボロ布団をかぶり、薄暗い納屋のようなところに寝ている。入り口には扉代わりにムシロがぶら下がっていて、「ギャンブル・レーサー」の飲み屋みたいだ、とつい笑ってしまう。

「いやー、この環境で笑顔みせる余裕、さすがでんな」

気がつけば私の横には、いかにも軽薄な風体の若い男が座り込み、私を見ている。

「漂泊の果てのついの宿り、そこで漏らす達観の笑み、泣けてきまんがな」

そうなのだ、私は漂泊の俳人で、いま人生をこのあばら屋で終わろうとしているのだ。それにしても、このうるさい男は何者だろう。

「決まってまんがな、先生のファンですがな。」男は私の心がよめるかのように続ける。「ここで先生の辞世の句を聞かしてもろうて、マスコミに発表させてもらいまっさかい」

迷惑な男だが、後始末の手助けにはなるか。それにしても、のどが渇く。水が欲しい。

「『のどがかわく みづがほしい』でっか?なんやいまいちでんな。もうちょっと絶唱ちゅう感じでまへん?」

ほんとに水が欲しいんだよ。役たたずめ。だいたいお前がそこにいるので、日陰になっていけない。どいてくれ、せめて日向で死にたいとおもう。

「『どいてくれ せめてひなたで しにたいとおもう』ねぇ。さっきよりマシやけど、もひとつやねぇ。自由律いうより、単なる字余りでんがな」

何を言うとるんじゃこいつは。「お前とはもう、やってられんわ」

「あ、それが一番よろしいようで」

参考:「漂泊の俳人たち」(著:金子兜太 NHK出版)


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