Indexに戻る

更新日記

 2002/05/31

今月の「更新日記」から、本や映画に関する記述をそれぞれの場所に移動して、例によって「更新」ということにする。料理や政治関連もついでだから移動。

OSXの扱いに次第になれてきて、root権限でシステムファイルをいじくっていたら、必要なディレクトリを消去してしまった。真っ青になって再起動するが、当然ダメ。泣く泣くCDから起動して再インストール。

ところがである。それで再起動してみれば、消してしまったシステムはもちろん回復しているのだが、今までのアプリや私的なファイルは全部残っているのである。デスクトップもそのまま維持されている。Windowsでは考えられないことだ。再インストールなんかしたら、ドキュメントからアプリから全部消え、今までの累積パッチを一つ一つ当てなおす作業が当たり前だと思い込んでいたので、OSXのこの振る舞いはまるで地獄に仏の感激ものであった。

もうメインをこちらにしようかな。でも、ちょろまかしたiMacだから使っているようなもので、拡張性とかを考えるとタワータイプが必要だし、たかがマシンに20万近くも出すのはちょっと腹が立つ。ここは2万円台ぐらいでOSX for PC/ATを出してもらうしかない。アップル社の前で土下座してもいいぞ。

 2002/05/30

「矢吹駆」シリーズ第六作を、屁理屈ぐっちゃべり噴飯ものにしないための方策を考えてみた。もし仏訳でもされて、「知の欺瞞」を書いたようなスットコドッコイエリートかぶれに読まれても、これなら平気ではないかとおもえる策である。

まず時代は90年代前半ぐらいにする。ワトソン役のナディアは、社会学か文化人類学の中堅研究者になっている。日本語の才能を生かして、彼女はフィールドを四国の山村に決める。矢吹駆はぐずぐずとパリで国際プータローをやっていたのだが、さすが40も半ばになると生活のことも考えねばならず、ナディアのヒモ兼調査コーディネーターみたいなところに落ち着いている。四国の山村は彼の出身地でもある。

その山村には、犬神憑きの伝承が生き残っており、憑き物血筋家系はある意味で賎視されつつも、現世的には成功者として受け入れられ、村一番の富豪でもある。村の菩提寺には柳田國男と同じことを言う和尚がいて、その喧嘩友達が宮司をしている神社もある。その宮司は素人生物学者としても知られていて、もちろん南方熊楠とおなじことを言うのである。

その村のはずれに、某新宗教――AΩ真理教とでもするか――が拠点を作ろうとする。村の人口よりも多い信者たちが共同生活するための施設である。とかくのうわさがあるその新宗教教団の進出に、村の人々は恐れて排斥運動を展開する。排斥運動のリーダーはかの犬神憑きの富農である。ナディアはその過程を観察し、伝統社会が異質な外部をどう排除しようとするのか、というモデルを抽出するつもりなのである。

このあたりではカケルと偽柳田と偽南方のぐっちゃべりをいくらでも展開できるし、しょうもないおフランス学者に御足労頂くこともない、まことに純粋な議論を開陳できるのではないだろうか。閉じられた共同体という意味では同質な、伝統社会と陰謀的新宗教の対比論議で前半は持たせられる。カケルの<ならびみ>がどうした、<むきあい>がなんだ、というのもきっとそれなりに有効な屁理屈になる。

ここで殺人事件を起こせばいい。当然第一の被害者は先ほどの憑き物富農になる。何か憑き物家系に独自な、どこかにこもって祈願するような儀式の最中に殺されて、密室殺人事件の形になれば、ミステリとしては結構この上ない。次は、教団の青年と、彼と恋仲になってしまった村の娘あたりが殺されるのが適当であろう。衆人環視の薪能の舞台上で、そうだ、「道成寺」がいい、あの鐘が引き上げられたら二人の死体が発見される(どっかであったっけ)、というのがいいのでは。

警察は教団を疑い、強制捜査で緊張は一気に高まるが、カケルはあくまで現象学的本質直感から、三つの死には異質な共同体双方の弁証法的かかわりがあることを主張するのである。「密室の死の本質は、特権的死の封じ込めにほかなりません。しかし、これらの密室が暗示するものは、まさしく特権的空間からの死の排除なのです。伝統的祭儀と演劇空間が死を担いえない以上、死の排除が意図するものは、その空間の強化以外にありえないのです」なんて訳のわからんことを言うカケルの姿が目に浮かぶようではないか。

なんて、ごちゃごちゃ書いていたが、冷静に判断すると笠井潔よりは殊能将之が書いたほうがいいような話になってきてしまっているともいえる。探偵もカケルよりは石動戯作のほうが似合うかも。その場合は哲学的屁理屈はとっぱらって、偽柳田、偽南方、石動三者による句会を延々と続けるのが一番面白そう。

 2002/05/29

「オイディプス症候群」(著者:笠井潔 光文社)

かの「矢吹駆」シリーズの第五作めである。といっても、前回の「哲学者の密室」の発表からすでに10年、一作目の「バイバイ・エンジェル」からは20数年近くがすぎている。しかも、作者の頭の中では、これらの物語は綿々とした時間的つながりがなお維持されていると見え、今回の話も、最初の事件からまだ2年しかたっていないのである。

ただでさえ物忘れがはげしい私なんかは、しばしば前作までの内容が追憶として語られるので、何のことやらさっぱりわからず、仕方なく手に入る範囲で文庫本で買いなおしたりした。ここまで入れ込んで書いている著者に、ちょっとは付き合ってやらねば、という気になったからだが、考えてみればそこまでやってやらねばならん義理などどこにもない。なんですのん、これ?と怪訝な視線を向けるだけでよかったのに、なにか詐欺の被害者が、加害者側の肩を持つような行為に走るのと同じような態度にでてしまうのは、この人の不思議な魅力故であろう。

物語は典型的な「孤島の館」設定。関係者一同が偶然なのか必然なのか、あいまいにぼかされたまま、クレタ島沖合いにある、無人島の豪奢な別荘にあつまり、そこで連続殺人事件が起こるという趣向である。哲学談義は相変わらずで、ふつうの推理小説が男女関係の機微とかの記述で読者を煙に巻こうとするところが、ここでは哲学的屁理屈のこきあいになっているわけである。

今回は関係者にミシェル・フーコーと同じことをいう哲学者と、ヌーボー・フイロゾフィークとかって呼ばれた(そして今はとっくに忘れられている)、フランス五月革命敗残転向グループと同じことをいう青年、そしてかの矢吹駆がそのおしゃべりを担当するわけだが、これはなかなか読み通すのがきつい。しかも、そういうおしゃべりが推理劇の構成を膨らませているか、といえば全くそういうことはなく、これは前回の「哲学者の密室」はそれなりに成し遂げていたことであるので、今回はミシェル・フーコーなんぞを選んでしまったのが失敗の原因だろう。

だいたい、フーコーってなにいってるかさっぱり判らんもの。前回はハイデッガーだったから、シェーマ的にも要約しやすいし、なんと言ってもアンチョコも沢山あるからね。その点フーコーなんてちゃんと理解している奴はいないだろう。フーコーのほうも理解されたいと望んでいるとも思えんが。その彼にたいしてカケルが展開する屁理屈は、どうも吉本あたり(*)の改ざんらしく、それは多少判りやすかったりするのが面白い。いずれにせよ、そういうおしゃべりがトリック破りなり、事件解決の鍵になったりはまるっきりしないわけだから、単に原稿料かせぎなら、もうすこしわかりやすくてためになる話しろよ、と思うしかありませんわな。 *興業ではなく、隆明さんのほう。

とにかくミステリとしてはタガがゆるみきっていて、導入部にある事件はさっぱり無関係なところで起こるし、集まる関係者は集まった理由を知っていながら隠していて、物語の進行役である女子大生、ナディアだけが(つまり読者も)カヤの外なのである。しかも、注意して読めば登場人物の一人が、はじめのほうでかなり不用意な失言をしていて、こいつが怪しいに違いないという見当だけはつくのである。作者はその人物に失言をさせたことは、途中で忘れてしまったみたいだが。

孤島の館でおこる密室殺人というと、ある掟破りが想像されるが、その要素もやはり加わってくるのは致し方ないところだろうか。そのほかにも、松竹新喜劇もかくや、と思われる偶然の一致の続出とか、言い出したらキリがないが、頭の配水管づまり解消のためと割り切って読めばそれなりに満足感もえられるかもしれない作品であろう。アホみたいなライトミステリで痴呆化するよりはまし、と。

ただ、前作でも感じたように、モデルそのままの哲学者を名前を変えるだけで作品に使う、と言うのはどうなのだろう。ヌーボー・フイロゾフィークのパクりぐらいだったら、誰も覚えちゃいないだろうが、フーコーとかをそのまま使うのは違反だろうと思う。それと全く同じことを、題名になっている「オイディプス症候群」にも感じるわけで、これはエイズを作者が象徴的にそう呼んでいるのかと思ったら、全くエイズの内容そのままでフィクションの疾患なのである。

自分の創造世界なのだから何をやろうと勝手、といわれればそれまでだが、ちょっと受け入れがたいやり方である。もとパルタイの人は、こんなところにまで全規定(密輸入でも可なんだな、これが)ルールを持ちこまにゃ気がすまないのだ、と感心してしまう。

作者に一つ忠告、六作目にはラカンなんぞを使おうとせんことですな。

 2002/05/28

職場のDVDライブリィに「ハリーポッター」が追加されていたので、ひさびさの新作鑑賞である。私の場合、映画館で封切り作を見ることはまず決してないので(理由:人ごみが好きでない、人間がだらしないのでちゃんと椅子に座って二時間もじっとしていられない、トイレを我慢する自信がない、途中で寝てしまうかもしれないのに金なんか出したくない、etc)、発表一年以内にみればそれは異例なことである。

映画のほうはなかなか面白かったのだけれど、これ、「スターウォーズ」と全く話が同じではないの?何とかいう不死の魔法使いとの対決のところなんか、ルークと皇帝の対決シーンのセリフそのまま使ってたのではないか、と思うぐらい。神話系だから別にいいのか。

キングス・クロス駅の9・3/4番ホームのエピソードで、昔のある時期、大阪駅にマイナス一番線ホームというのがあったというのを思い出した(天王寺駅だったかも)。

 2002/05/27

9・11テロ関連でのトンデモ風説はいくつかあるが、これはちょっと変り種。

20米ドル札の図柄に、あのテロが予言されていたというのだが、かなり無理があるような。手元に20ドル札がある方はお試しを。飲み屋での口説きネタにもなるのが利点といえば利点。

こちらはさらに妄想的発展を加えたもの。9+11で20だとか、無理やり折りたたみまくって、OSAMAと読むようにしたり、ほかの札も使ったりとか。

 2002/05/26

はなはだ平穏にオフ会を終わったはずなのに、朝起きれば激烈な二日酔いである。もしかしたら帰り道、常磐線内のオヤジ作法として、ビールラッパ飲みなんかしてしまったかも。覚えていないが、ちゃんと家に帰れているから、そう滅多なことはしてない筈なんだが。

終日マグロ状態で、笠井潔の新作なんかを読み出すが、とても頭に入らない。

 2002/05/25

直前に参加予定者二名のキャンセル、という事態があったものの、総勢六名にてオフ会はつつがなく完了。参加者の皆様、ありがとう御座いました。

相談事とか、業務連絡などででなく、いろんな世代の(といってみんな私よりは若いんだが)人と話すのは、なかなかふだん出来ないことである。数人あつまっただけで、出身大学が同じだったり、共通の知人がいたりなどと、意外なつながりがあるのも面白い。

 2002/05/24

昨日、警察官の「適正な職務執行」によって、両大腿部貫通銃創という重傷を負った上、逮捕されてしまった例の精神科医だが、調べてみるとかなり熱心に地域医療充実に邁進していた人のようだ。

都内で自前の設備を持ってデイケアを大々的にやるのはなかなか大変だろうし、患者さんの地域音楽活動への協力なども頭が下がる。しかし、なんといってもドッグ・セラピーの推進者であった、というのが皮肉。噛まれた飼い犬、ってのはそれ用だったんですかね。

今後はちょっと視点を変えて、「癒し」というよりは、クージョみたいな魔犬を相手にナイフで立ち向かい、死ぬか生きるかの真剣勝負をして、生命力を取り戻すようなセラピーを提唱されてはどうだろうか、なんて不埒なことを考えてしまいました。どうもすいません。

人様のためにあれこれと献身しまくって、ご自身は疲弊状態だったんですかなぁ。医者と言う商売はなるべく仕事をしないでブラブラすごし、こっそりインチキサイト作ってるぐらいが一番精神的健康にいい、ということのよう。

 2002/05/23

ナイフ振り回した精神科医に警官発砲し逮捕 東京」(ZAKZAK)

単に酒癖が悪いだけなのか、シビアなストレスを抱え込んでいたのか。飼っていた犬にかまれたぐらいで、この逆上振りは精神科医としてはいただけません。もちょっと計算しないと。

世代も近いので、知り合いではないかと心配してしまったが、違ったので一安心。なにより、自分でなかったのが一番のラッキー。

 2002/05/22

前に「イズムの街」というミニ開発建売住宅群に遭遇して、少々あきれた話を書いたことがあるが、最近トヨタ自動車が「イスト」という名前の車を発売したのでびっくり、である。

昔の新左翼党派が出していた理論機関紙に「共産主義者」というのがあって、それを関係者とその周辺は「イスト」と呼んでいた。"Communist"のistである。内ゲバを繰り返していたので有名な、中核派と革マル派が両方とも同じ名前の機関紙を出していたので(彼等はもともと同じ組織だったのが分裂したので、お互いに自分が正統だというわけだが)、相手の本を「エセイスト」と呼ぶという伝統つき。

トヨタはいったいどういう思い入れで、こんな名前をつけたのだろうか。まあ、カヌーイストとかサイクリストとかの、趣味的生活スタイルを意味したいんだろうとは思うけれどね。ほんのちょっと前までの好きモノ向け語彙がこういう風にでてくると、少々うろたえてしまいます。私がたまにのぞくここでも、結構話題になっていましたな、やはり。

ここは日産自動車が頑張って、「エセイスト」をだしてくれると面白い。なお、はじめに書いた「イズムの街」の前を先日通りかかったら、「陽だまりの街」に改名されてました。

 2002/05/21

「小説作法」(著者:スティーブン・キング 訳:池央耿 出版:アーティストハウス)

こんな題名の本を読んでいると、「おや、作家に転進されたいのですか?」などと揶揄されるのは当然で、なんでもともとの「書くということ 創作追想録」という直訳にしてくれなんだのか、といささか不満を感じる。実際、この本には多少の文体論が含まれているとはいえ、ほとんどがキング自身の、もっぱら書くことにかかわる自伝なのである。

私らの世代のアメリカ体験というものは、ほとんどがあちら製TVドラマに由来していて、それは高校生ごときが週末のダンスパーティに打ち興じていたり、それも自分の車で出かけたり、というのも衝撃ながら、何といってもそうしたドラマの中心に来る台所のシーン、大人の背丈並のでっかい冷蔵庫より取り出される、2Lはあると思える巨大牛乳瓶から、ガキがゴクゴク牛乳を飲んだりする、ひたすらセコイ日常的豊かさの道具立てに圧倒されていたわけである。

ところがこの本で知るキングの少年時代はあくまで貧乏っちく、その生活水準は私なんかの成育環境と同じようなものだ。長じて優等生になってもそう事情は変わらず、70年代に大学を出て、教師を生業にしつつ、クリーニング屋でバイトし、アパートには電話もない、という生活をみると、根強い毛唐コンプレックスなど吹き飛ぶ爽快さで、親近感いやますというおもむきだ。

といって、私はキングの熱心な読者ではない。「タリスマン」と「グリーンマイル」を読んだぐらいだ。だいたい私は怖がりなので、ホラー系は全く苦手なのだ。熱中して読んでいて真夜中になったりしたら、トイレに行けなくなるじゃないか。それでも乏しい読書体験と、日曜映画劇場などでみた、この人の本が原作になった数々の映画(「キャリー」ってのはキングが書いたんですな)の体験から判断すると、この人の書くものには、 暗く理不尽な世界を、とてつもなくハイパワーな純粋さを秘めて生きている主人公、という一種の類型があるように思う。

理不尽さがあまりに勝っている作品だと私なんかは遠慮するしかなく、程々のバランスで、どちらかというと純粋さの勝利になっているような話だと受け入れやすい。そして、この本を読むと、キング自身が生きている世界がまさしく そうした理不尽な不条理に満ちたもので、そこで自分の純粋さを多少でも保てる環境はただ書くという行為にのみ存在するのである。書くことで世に出る前は、理不尽さは貧しさと言う姿をとり、書くことが認められたあとは、文字通り理不尽な書評とか、学校図書館からの焚書とか、あるいは冗談のように不注意なドライバーによって臨死体験を強いられた交通事故への遭遇とか。そういったものは当然のこと、母親の死の状況を書いていても、そこにそれほど感情が込められていないのが面白い、といってはなにか。

キングは書くという、自分がフルコントロールできて、その純粋さを維持できる世界を構築するために、どんなテクニックを使えばいいかということを、この本ではいくらか教えてくれているのだが、それは当然職業上の秘密に属することであって、千なんぼの金で簡単に素人が知りえることであるはずがないのである。ただ、この人が基本にする文体教科書がW・ストランクの「文体の要素」であるというのが意外だった。これは私が大学教養部のときの、英語の副読本だったような。スカみたいなことしか書いてなかったように思うのですがなぁ。

文体への提言はなんせ英語についてなので、そう役に立つというものでもなく、せいぜいが第一稿を書いたらしばらく寝かせろ、というあたりが私らにも多少の参考に出来るかな、というところ。でも、たいがいの素人モノ書きは、時間を置いたら自分の文章を発表する勇気をもてないだろう。デタラメに文章をつむぎだした時の高揚感でもないと、それを人様に見せるような心境にはならないものだから。自分の文章にある種のパワーがあると根拠なく確信できる愚かさというか、一種の勘違い自己批評力というものが結局は作家の能力らしい。自分におこる現世的悲劇などには超俗的態度を取って、常に成功するとは限らぬ物語世界をつむぎだすことに浸る快楽こそが、本当の体験なのだという、考えようによっては並みのホラー話なんかよりよっぽど危ない思い込みが開陳された本なのだと思う。

 2002/05/20

殊能将之のヨーグルト・クッキング」を読んで、昨夕は殊能流シシケバブに挑戦。ほかのレシピも参考にしたが、ヨーグルトに漬け込むというのはどこにも見当たらなかった。

ヨーロッパの学生街なんかでは、おそらくトルコ系移民がやっているとおもえる、このケバブの店がけっこう繁盛していて、日本でのラーメン屋の生態学的地位を獲得しているらしい、と感じたりする。ネオナチに襲撃されたりしなけりゃいいんだが。アメリカにもあるんだろうか。9・11の後ではやりにくいか。少なくとも、マクドナルドやKFCなんぞは簡単に蹴散らせる、と思うのだが。

近所のスーパーではやはりマトンが手に入らなかったので、イスラム教徒にはいかんなぁと思いつつ、豚ひき肉で作ることにする。香りつけにはクミンを主に使うらしいのだが、切れていたので、イタリアンハーブミックスと称する乾燥ハーブ粉と、前にハンガリー料理のグヤーシュを作る時に買って、その後使い道がないキャラウェイを放り込む。パプリカもいれて色合いにし、ガラムマサラなんかも入れてみる。適当に塩コショウで味を調え、ヨーグルトとオリーブオイル、少量の小麦粉をいれてかき混ぜ、細長くかたちをととのえ、弱火のフライパンで焼く。串焼きにするにはちょっと柔らかすぎました。殊能流といいつつ、ひき肉になっているし、漬け込みもしてないんだけれど。

焼いているとパプリカでほどほどに色づいた、うまそうな肉汁が流れ出てきたので、火がとおった肉を取り出した後、そこにバターとヨーグルトを加えてひと煮立てして、邪道ながらソースを作る。好みによってはマデラ酒なんかで甘味を加えたらいいかも。

赤ピーマンとかをいためた適当な付けあわせをそえ、先ほどのソースをかけると、けっこうな見栄えのメインディッシュが出来上がる。はじめはタマネギとかニンニクを刻んだものを練りこむつもりだったのに、作業過程では度忘れしていた。なに、「まあまあおいしかった」ので満足満足。ハーブでくどくしてあるので、ワインはシラー系のスパイシーな奴がいいようで。

 2002/05/19

一晩ゆっくり寝て、それからOSXに向き直ってみると、ちゃんと、/Applications/Utilities/というところに、Terminalがあった。昨日はいくら見ても見つからなかったのになぁ。シャーロックという検索ツールも、「索引が作れないので検索できない」というつれない返事をするばかりだったのである。じゃ索引なるものをつくるにはどうするのだというと、「今すぐ索引を作る」を選択してください、というばかりでどうやってそういう操作するのか、ということが全くわからないのである。

はじめて起動したときにはまだAirMacカードを入れてなかったので、登録関係はすべてスキップしていたのだが、ネット接続はOKになったので、OSXの売りであるiToolsなるものの登録サイトへつなごうとするとこれが「接続に失敗しました」で終わり。家庭内LAN経由ではダメなんかなぁ。それとも初めにスキップしたのがいかんのか。

もう少し謙虚になってOSXに向きあうしかあるまいと、本屋でOSX関連の書籍を買うが、これまたメーカー提灯持ちのアホみたいなことしか書いてない本と、デベロッパー向け(?)の暗号本にきれいに分かれているのが壮観。下の中から上あたりを対象にしたと思える本を何とか見つけるのだが、なんでこういう本を書く人はここまで言葉に無頓着なのだろう(お前に言われたくはないわ、という幻聴が少々)。読んでいるうちに段々性格がすさんでくるのを自覚してきたので、作業を中止して近所の公園に散歩に行く。紫外線はうす曇りの日に強い、ということをコロリと忘れて日焼け止めを忘れていたので、帰って来たころには顔がまっかっかであった。

 2002/05/18

紆余曲折があって、やっとiMacでOSXが使えるようになったのだが、コレがなんとも奇々怪々である。Windowsマシンをルーターにした無線LANでインターネット閲覧が出来るところまではすぐに行ったのだが、ファイル共有をしようとしてもダメ。SAMBAぐらい実装されていると思ったのが甘かった。アップルジャパンのサイトには何の説明もなく、Googleで解説サイトを見つけ出し、OSX用のSAMBAを探し出してインストール。結局米国のOSXサポートにあるのだから笑ってしまう。

設定しようとするのだが、GUIでは出来ないらしい。設定パネルもない。必死にコマンド入力ツールを探すがどこにもない。これもなんとヘルプから開く(いったん開くと、ドックというタスクバーの出来そこないみたいなところにマウントされるけど)という、驚天動地のつくり。だいたいファインダーという大層なファイル閲覧ツールがあるのに、それではこのOSの構造は全く見えないのである。

通り一遍の使い方だけしておきなさい、使いこなしたかったら勝手に勉強しなさい、なんていう商品があるだろうか。Linuxなんかではエキスパートは全くおんなじような態度を見せ、ど素人は不愉快な思いでこんなもの二度と使うか、と放り出すのだが、あれは何せフリーだからね。おしゃれなパッケージと耳に優しい宣伝文句で一般愚昧大衆に売りつけておいて、ちゃんとした使いこなしの指針も用意されていない、なんてバカな話はないと思うのだが。それとも私は見当はずれに、メーカーの親切な導きに気づかず怒っているだけなのだろうか?なんだかえらく疲れたので、今日は設定やんぺ。

 2002/05/17

いやはやである。こちらの記載にかんして、まさしく予想通りの反応(5月16日の記事)があらわれた。どうも脳外科医によって運営されているらしい(というのもどこにもプロフィールが見つからなかった。見落としかもしれないけれど)そのサイトでは、くも膜下出血予防のための治療基準はすでに確立されているのだから、私のような言い方は患者さんに誤解を与えるという。おやおや、患者さんなんですか?相手は。

私は何の症状もない人が、リスクの高い治療をうけることが成果であるような「脳ドック」うけても仕方ないだろう、心配することはもっとほかに外にもあるのでは、といっているだけである。心配な人は受ければいいし、いやならやめればいい。

それを「経過観察・検査・治療それぞれのリスクの総和の局所安定点を探す、という姿勢が基本」なんて、あらゆる疾患対応共通の話してもしょうがないでしょうが。たまたま見つかったらそういう風にするでしょう、大概の人は。はじめから、そんな無用の心配背負い込まないようにして生きていくほうが、健康的ではないですかといっているのです。

「患者の不安に対し我々のすべきことはよく話し合うことで、決して検査を取り下げることではない」というのも論理がひっくり返っているでしょうが。もう検査しているんだから。検査前に、見つかったときの覚悟を被検査者に迫るような説明してますか?もししてるならご立派です。

私の知る限り、脳ドックで見つかった未破裂動脈瘤の予後に関しての統計的検討はなされていないはずだし、それにコイル塞栓術の危険性は今のところ、直達手術とほぼ同じだと思いますが。ちょっと専門的な言い回しで素人黙らせようというのは、感心しない手口ですな。

なんにせよ、くも膜下出血経験者に見つかった未破裂動脈瘤での予後検討と、手術適応の論議を、「なんともない人をカモにした脳ドック」の根拠にするのはつまらんブラフです。発症者がベッド占有して医療費が上がることを心配する気持ちがあるなら、脳ドックの医療経済的有効性を客観的に示してもらいたいものです。

 2002/05/16

昨日の「リフター」だが、Linuxなどのオープンソースプログラミングにかかわる技術者があつまる(この理解がすでに間違っているかも)、スラッシュ・ドット・ジャパンでも取り上げられていた。アレゲ系Geeksの巣窟だ、と思っていたのに自分で作ったことがある人がいなかったのにむしろびっくり。

昨夜はCATVでワールドカップ・クラシックレース第三戦、「パリ・ルーベ」ロードレースが放映されていた。「北の地獄」と呼ばれるあの悪路コースを、ラスト40km以上一人で逃げて連続優勝を決めた、ベテランのヨハン・マシューに感服した。一月以上も前のレースだという間抜けさも、この際よしとしよう。ベルギー人はこれで充分満足できたろうから、サッカーのほうでは日本代表に一勝ぐらいゆずってやってください。

 2002/05/15

某陰謀論BBSで紹介されていたのだが、ある民間団体が開発したという、「リフター」なる「反重力装置」に、米議会が研究予算をつけたそうな。

でもこの「反重力装置」なるもの、どう見ても静電効果を利用した、昔からのおなじみ子供科学実験玩具である。私は中学生のとき、これの作り方を「子供の科学」かなにかでみた(『毎日中学生新聞』だったかも)。TVの垂直出力用の高電圧をつかって浮遊力を発生させるもの。軽く作るだけではだめで、形にちょっとした工夫がいったはず。もちろん調子のりの私は作りましたよ。ちゃんと成功し、ついでにひどく感電して、死ぬかと思ったけれど。(作りかたなどに関して一番親切な記述があるのはここ

これをUFOの原理などと謀って、公的なところから金引っ張ろうなんて、よくも考えたものだし、引っかかるほうも引っかかるほう。イオノクラフトなんていう名の未来の乗り物が出てくるSF、読んだ事ないんだろうか?

 2002/05/14

人生経験のなさを告白するような話になってしまうが、私はいまだかって、人生の危機を経験したおかげで痩せてしまった、という人を見たことがない。もちろん自分自身からしてそうである。詳しく語るとけっこう波乱万丈ともいえる、ここ数年の生活史を通じて、私の体重は常に増え続けてきた。ストレスがあれば酒量が増え、やけ食い機会も増える。運動するヒマもなくなれば、そんなことする気がそもそもなくなってしまう。今まで出会った人も大概そのパターンで、運悪く身体疾患を抱え込んだ場合を除いて、苦労してやせたなんて人を誰ひとり知らないのだ。

それがである。今日私はTVを見ているだけでストレスによって著明にやせた人を知ることが出来た。人生、無意味にでも生きてきたかいがあったというものである。佐藤元主任分析官、今はあなたの時を得ていないが、これでがっくり来ることなんか絶対無いですよ。一波すぎたら、「人生危機でダイエット 無能キャリアに最後は勝つ」ってな本を書きましょう。医学的コメントは引き受けてあげますから。

 2002/05/13

なんとかルナという名前の障害のある子供がいるそうで、その子に対するリハビリというか、一種魔術的なかかわりの結果、ある種の汎能力的詩人になりえたという主張をしているその家族がいて、それを天下のNHKが完全な「事実」として報道したのだそうな。かの「2ちゃんねる」に巣くう連中が、それに対して轟々たる非難をしているらしい。

障害者がその家族の願いにそった機能回復を示したなら、それは結構な話で、だーれもそれに文句いう筋合いなどない。インチキであろうが、事実であろうが、介助する家族にとって信じられることならそれでいい。今おこっている事実に、合理的な対応をして、客観的にそれを第三者に伝えられるなら、まことにおめでたい話である。ところがTV番組からの二次的情報を見るかぎり、それ以外の情報からも、そうとはとても思えないのですな。さすがに馬鹿馬鹿しくて、まともに関連番組見る元気はないけど。

ドーマン法という、私から見ればえらくオールドファッションな生理学に依拠したリハビリ理論は、かなり前からその理論的破綻は指摘されていて、何よりも客観的有効性が全く示されていない、という弱点があるのだが、それに耽溺する人々は残念ことにそういいう疑問を検討してくれない。かなり傲慢に、社会資源浪費をしていることにもホッカムリである。私だってガンの早期発見というようなレベルでは、正統的な医学理論に従わない私見を持ってはいるものの、統計的なレベルでの根拠はそれなりにあるのだ。

そういうレベルでの対話が出来ない場合、「トンデモ」という評価しかなしえないのだが、その有効性を疑わない人々には、何を言おうと無駄なのは理解できる。第三者からは馬鹿馬鹿しいとしかいえないが、他人がそれを指摘しても詮無きことであろう。その人たち自身が何かの機会に思い知ってもらうしかない。たとえ何十年先になろうとも。今回の問題は、NHKという公共公益機関を自称する連中が、そういう関係者の切ない確信を利用した、一部のトンデモ商売に乗っかったと言うこと以上でも以下でもない。

これはNHKを民放化するちょうどいい機会なんではないか、と思える。なお、事実関係の評価に関してメールで意見を求められたのだけれど、はっきり書くのはちょっと荷が重い。少なくとも子供に「ルナ」なんて恥ずかしい名前付けるなよ、とは思うのだけれど。

 2002/05/12

昨日からジロ・デ・イタリアが始まっているはずなのに、CATVですら中継されない。一ヶ月も前のワールドカップを、週一回ずつやってくれるだけでもありがたい、とおもわにゃいかんのかな。

仕方なくウェブで情報見るだけで我慢。今年はひいきのウルリッヒが、タルトとチョコパンの食べ過ぎや女性問題でやる気をなくし、膝の故障を訴えていて、調整のためにも出場しないのだそうで、間違うとツール・ド・フランスの出場も危いとのこと。ツールはまたもランス・アームストロングの独壇場になってしまうかも。

それはさておき、昨年プロローグで筋肉スーツを着て度肝を抜いてくれたマリオ・チッポリーニが、今年もやってくれた。阪神タイガースの序盤の好調にリスペクトしたのか、今度は虎スーツである。よく見りゃ自転車まで虎模様。

気分高揚してスポーツジムに向かい、エアロバイク一本でガンガン攻め、大腿四頭筋に痙攣がきたところで我に返る。負荷200Wで90分踏みっぱなし、というのはちょっとやりすぎ。その間ミネラルウォータを1Lは飲んでいたのに、体重が3キロも減っていた。もちろん一晩で元に戻す自信はありますが。

 2002/05/11

「スコア」(2001年米映画。監督:フランク・オズ)

またまた職場のDVDライブラリより借り出し。

サスペンスというのはsuspensionと語源が同じで、「宙吊り」というような意味合いがあるらしい。未解決のまま放り出される感覚、というところだろうか。そのためなのか、サスペンス志向の映画というやつには、やたらに宙吊りシーンが出てくるような気がする。「ミッション・インポッシブル」なんかご丁寧に一作目、二作目ともこれが用意されている。たしかに見ていりゃはらはらせんではないが、さすがに同じツボ攻めすぎなんではないか、と思えますわな。私なんぞ、「トプカピ」あたりですでに食傷。

そういうわけで、これもクライマックスはプロの泥棒が宙吊り浸入する映画。その泥棒がロバート・デニーロで、役に合わせて体型を変えるという彼も、さすが寄る年波でそういうわけにもいかず、えらく動きがきつそうなのがちょっとオモロイ。

彼は結構繁盛してそうなモントリオールのジャズクラブオーナーで、それで満足しておけばいいのに、そうゴージャスとも思えぬスッチーと身を固めるため、数百万ドル(ところであれはカナダドルかUSドルか?)の報酬につられて政府機関に忍び込む。リスクがやたらに高いのに、そう欲かく理由もない人物がなんであんなことするんだろう、としみじみ思う。ショーン・コネリーの「エントラップメント」(だったっけ?)のほうが、説得力あったような。キャサリン・ゼタ=ジョーンズのほうが圧倒的にゴージャスだもの。

さて、その泥棒仕事をそそのかす野郎がエドワード・ノートンで、こいつはデニーロなんぞに一人いいカッコさせてなるものか、と腹に一物持っている。でも悲しいかな、役者の格の違いのため、そんな若造の目論見など一蹴されてしまうのだった、という話。

エドワード・ノートンが現場下見のために脳性麻痺+知的障害者を装っているのだが、その演技だけは秀逸である。肝心の宙吊りシーンは早送りで見させていただき、ちょうどいい具合のまとまり。

故買屋というか、泥棒プロデューサー役のデブ爺さん、どこかで見たことがあるような気がして、はじめはピンクパンサーのドレフィス警部の人かしらと思っていたが、よく見ればなんとマーロン・ブランドでありました。世紀の競演というか、落ちぶれたというか。

 2002/05/10

中東紛争の混迷の度が深まるにつれて、イスラエルとコカコーラ社の結びつきを揶揄するような噂話がネットで流れるようになったという。昔、私がまだ若かったころ、コカコーラは米帝国主義の手先みたいないわれ方をされていたことが確かにあるが、ほとんどそれは冗談レベルで、仮にそんなことを真面目に言う連中がいたら、当時の風潮でも反米愛国古典左翼の亡霊のごとく嘲笑されただろう。それがアラブ諸国あたりでは、反米反イスラエルの象徴として復活しているとのこと。実際、コカコーラ社の売り上げはアラブ諸国で急上昇していて、かの地の地域経済を脅かすまでになっているらしい。

昨年夏にはエルサレムにあるイスラム教聖地「神殿の丘」のドームに、コカコーラ社のロゴが書かれた画像が出回り、コカコーラ社は特別に声明を出したりしている。コカコーラ社の困惑をいささかでも解消するため、こんな画像作ったりしたんだけれど、出来は今ひとつ。

 2002/05/09

だいぶ前にいわゆる「ロボトミー手術」の創始者とされる、エガス・モニスに関する小論を書いていて、それをアップするのをころっと忘れていた。ロボトミー手術に対する一種の神話的嫌悪感を払拭し、冷静にその「功罪」を判断する材料となるかな、なんて考えたのだが、私自身あれに「功」なんかあったのだろうか、と思っているのでちょっと記述はおざなりである。

考案者からして、「ややこしい事いって人を困らせるキチガイより、おとなしいボケ患者のほうがまし」という意識があったことは間違いなく、それほど治療に向けた崇高な理念があったわけではないのである。まして、科学を用いて人間行動を管理しようなんて大層な思いもなかったはずだ。でも、創始者のモニスの人生にはちょっと関心を持たないでもない。

四月分の日記から、映画と本に関する記述を抜き出して「本、TV」に移動。これで更新した、と言うのは心苦しいが、連休ボケで気の効いたこと一つ思いつきまへん。

ところでオフ会のほうはさっぱり参加希望者が現れず、いまのところ幹事をやってくれる予定の人と私だけ。連休のある月の月末という設定がいけなんだか?

 2002/05/08

「ギャラクシー・クエスト」(1999年米映画。監督:ディーン・パリソット)

職場のDVDライブラリ管理者がこれを買っていてくれたので、連休も明けて渋々仕事に出かけたかいがあったというものである。苦あれば楽あり、というやつだ。違うか。

ファン大会めぐりで細々と食いつないでいる、かっての人気SFTV番組、明らかに「スター・トレック」をおもわせる「ギャラクシー・クエスト」の元出演者たちが、ドラマを歴史ドキュメンタリーだと勘違いした宇宙人に請われ、悪い宇宙人と対決するという話である。ウソという概念が全くない善意の宇宙人は、ドラマに出てくる宇宙船や武器防衛システムを全く理由もわからぬまま再現しているので、出演者たちはドラマの経験だけで危機を乗り切ったり、逆に意味不明の冒険を強いられたりする。

たしか宇宙を救う戦士をリクルートするために、宇宙人がゲーム機をあちこちにおいて、高得点者をスカウトするような映画があったと思うのだが(「スター・ファイター」だったかな?)、ビデオゲームの世界が、そのまま現実の(?)宇宙戦争につながっていくという、荒唐無稽のバカ話を装いつつも、はかない夢を希求する切なさがうまく織り込まれていたようにおもう。それをより上質にまとめたのがこの映画、という感じ。少女がフィクションの恋愛に胸を躍らせるようなセンチメンタリズムと、SFオタクのなりきり感覚は全く同じものなのだ、と力強く主張しているのが好ましい。この前見た「ベティ・サイズモア」とも相通じるところがある、メタ・ドラマという意味で、歴史に残る名作であろう。出来ればもとの連続ドラマを、ボーナス映像で何回分かつけておいて欲しかった。

 2002/05/07

連休中は帰省した娘たちに妙な演出系モールにつき合わされたのと(二度と行かんぞ)、近所に出来たフレンチ、イタリアンのレストランめぐり、スポーツクラブへの日参、Win2Kインストールで終わりである。それでも、こういう無意味な生活が自分には一番合っている、と思える。よく、人は仕事を離れて生きていくことなんか出来ない、なんていうけれど、あんなの絶対嘘だよね。ぶらぶらと好きなことしてられれば、それが一番いいに決まってる。仕事自体ぶらぶらと好きなことしてられるものだったら、それは非常に好ましいことでありますが。給料もらえるし。よく考えれば、私の場合はほとんどそれか。

 2002/05/06

アクセスが連休中にもかかわらず、54万を越えたので、以前言っていたように、55万5千5百55アクセス記念のオフ会を今月末に行える見通しがついた。もし急にアクセス枯れになったらそのときはゴメン。

一応5月25日(土)夕方に、都内でひらく予定。たぶん前にやった西荻の店になると思うものの、参加者の希望によってはもうすこし都心部に変更するかも。参加希望者はそのあたりのことも明記したうえで、こちらまでメールされるよう。参加費は5千円。

 2002/05/05

二日おくれの感想になってしまうのだが、一昨日は「憲法記念日」だったのだ。「憲法」というと私は、かって京都府知事が蜷川虎三氏であったころのことを思い出す。

蜷川氏は1950年から実に7期28年間、京都府知事をつとめられた。私が生まれてからそこそこの若造になるまで、知事といえば蜷川さんだったのだ。「一休さん」にくわしい人なら、足利将軍のブレーンに蜷川新右衛門という人がいるのをご存知だろうが、私なんか、なるほど蜷川さんは室町時代から権力の中枢にいたのだな、と思っていたものだった。(蜷川新右衛門は実在の人物であるが、蜷川虎三氏の先祖であるかどうかは知らない)

与党の日本共産党、社会党(旧)は「地方自治の灯台」と自画自賛し、民主連合政府が出来たら、初代首相は蜷川さんだと持ち上げた。反対勢力は「京都人民独裁政権」と非難し、府庁の場所から「釜座幕府」と揶揄した。

蜷川氏は、戦時中は熱心な翼賛愛国知識人で、聖戦遂行のアジをやりまくった人であるのだが、戦後は官僚を経て、どういう経緯か革新派知事になられた。たいがいの保守政治家が若いころはマルクス主義者であったのと正反対であるが、よく観察してみると、民主的政治家にこのパターンはけっこう多い。市川房枝とか。

彼の民主府政はなんであったのか、と大上段にかたる材料は私にはない。ただ、どこの自治体でもある程度ささやかれる、情実行政がかなり横行するものであったという印象はある。もっとも、それは地域で革新派の小ボスが跳梁するということで、裏で金が変に動くような噂はなかったし、その情実は一応住民の側に向いていたと思う。大企業や国の側だけを向いていなかったことは確かで、80年代まで京都では巨大プロジェクトという名の自然破壊がそんなに進むこともなく、街並みとそれがはぐくんだ地場産業や人間関係(ある意味での既得利権)は程々に守られた。

あのころは大企業家たちや、普通はそこに絡んで利権を得られるはずの保守政治家にとっては、我慢ならない時代だったろう。その後保守府政が回復してからも、バブルに浮かれるには出足が遅れていて、おかげでそれほど地域経済が壊滅的打撃を受けることも避けられた。市内に妙にサイバーなビルはいっぱい出来たけど、それは南禅寺の境内にレンガ造りの上水路作ってしまったりする、昔からの伝統と言えないことはない。蜷川府政がなかったら、某花札屋なんかくだらんテーマパークみたいなのに手を出したりして絶対つぶれていた、と思う。

その評価はさておき、この蜷川府政が事あるごとに強調したのが護憲である。府庁の建物からはいつも「憲法を暮らしに生かそう」という垂れ幕が下がっていた。それはいまだに革新(反自民の意味ね)政治勢力の錦の御旗になってるのだが、考えてみればこれほど間抜けなスローガンもない。よりよい暮らしのために憲法があるので、憲法を暮らしに生かす必要なんかない。憲法に書いてあるから基本的人権が守られるのではない。基本的人権は前提としてあり、ただ法的にも明記されているだけだ。それは勝ち取られるものであって、与えてもらうものではない。もし人間固有の権利や原則と憲法がバッティングすることがあるならば、それは迷わず憲法が改正されるべきなので、憲法自体をご神託のように持ち上げなければならぬ理由はどこにもない。

医療問題などで、患者側の権利や治療者の守るべき原則の話になると、「憲法をベースにすべき」なんて眠たいこと言い出す手合いがいて、ああこれが戦後民主主義ボケというものなのか、と感じいる。そんなもの、専門家としての良心をベースに、患者側からの批判をオープンに交流させるところからつくらねばならないものに決まってるだろう。私が府庁の垂れ幕に感じた違和感は、至極当たり前のものだとおもっていたのだが、単に「憲法=ありがたいお経」ととらえる人はけっこういるみたいで、それが個別的なところで馬脚を現す。蜷川民主府政の限界も、また今もなお「憲法を暮らしに生かす」政治が今の閉塞的状況を打ち砕くと考えている多幸的な人々の限界も、そのあたりにあるのではないかと思う。

それはさておき、当時、この「憲法を暮らしに生かそう」はあちこちでお目にかかった。うそだと思うかも知れないが、「憲法を暮らしに生かす**建設」という看板まで見た。一番傑作だと思ったのは、ある格闘技の道場のもの。そこには「拳法を暮らしに生かそう!」と誇らしげに書いてあったのである。これなら納得できるスローガンである。

(記憶が不確かな面があるので、「京都では巨大プロジェクトという名の自然破壊がそんなに進むこともなく」あたりには異論がある方も多いかもしれない。)

 2002/05/04

昨夜地上波TVで、「スター・ウォーズ」の第一作目をやっていたような気がする。半分うとうとしていて確かでないところもあるが、見たことがないシーンがけっこう含まれていたような気もするので、特別版とか、ディレクターズ・カットとかいうやつなのだろうか。

驚くのはその特撮のちゃちさで、「宇宙刑事ギャバン」あたりとどっこいどっこい。あのレベルで当時は腰ぬかしたんだよなぁ。CPUのスピードと特撮の技術は加速度的にインフレ化して行くということか。ジョルジュ・メリエスぐらいまで遡れば、それはそれでむしろ新鮮さを感じるのですがな。

というわけで、5月の例の暴力がわれらとともにあった夜なのだった。

 2002/05/03

飲み物はミネラルウォーターだけ、たっぷり時間をかけてウォームアップし、心拍を120ちょっとにあげての有酸素運動という節制と努力のかいあって、不整脈はひとまず軽減である。

辺境大学にいっている娘が、PCが一般保護違反頻発で使い物にならないといって、宅急便でPCを送りつけてくる。同級生に一人や二人PCにくわしいオタク系はいるはずだから、そういうのをうまく使え、とかねてからいっているのだが、付き合っている野郎も含めて、そこの学内環境はPCオタク枯れらしい。単に観察力がないだけかも知れんけれど。こういうところちゃんと読むように薦めているんだけれどね。親の心子知らずとはよく言ったものである。

そこで送られてきたのを調べてみるとチャンと動くのですわこれが。ADSLにしてからそうなった、というのでモデムとの相性の問題か。WIN2Kにすればともおもうが、なんせK6-2の300メガという旧世代マシンなので、CPUパワーがちょっと頼りない。仕方なくノートPCを買ってやる約束をしてしまう。実に不愉快なので、考えられる限りのスペック上限で注文して、そちらは自分で使って、今自分で使っているノートのほうを与えるという策に出ることにした。

送り返されてきたほうはデータサーバーとかプリントサーバーとして使うことにして、余っていたOEMのWIN2Kをしょぼしょぼとインストールする。することもない連休にはちょうどいい作業と言えないこともない。

 2002/05/02

体調不良甚だしく、脈が三三七拍子をうっている。これは不適切な心拍トレーニングをやりすぎたための徐脈がベースになった不整脈なので、ふだんはそう害もないのだが、さすがにここまで頻発すると血栓でもできて脳みそに引っかかるのではないか、と不安になってしまう。

気休めにアスピリンをのんで、検査室に侵入し、自分で心エコーをやってみるが、操作しながらちょうどいい姿勢をとる、というのはなかなかうまくいかない。一応見える範囲には血栓はない様子なので一安心であるが、自分の心臓が見当外れにひきつるザマをみるのはあまり健康によくない体験である。

連休は酒コーヒー紅茶緑茶すべてひかえ、ひたすら有酸素運動にはげもうと決心するのだが、まず守らんだろうな。

 2002/05/01

"May the force be with you."

5月の例の暴力は、おんどれらとともにある(訳:小林信彦)。


2002年4月の更新日記へ

Indexに戻る