更新日記
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2002/12/31 |
国連かなにかの査察団の一員となって、中東某国首都の空港を査察しにいくという夢を見る。民間航路専用といいつつ、軍事使用されている疑いがある、というのである。えらく派手で薄っぺらい建物の横に、なぜか漢字で「忠魂」と書かれた石碑があるので、これが軍事空港の証拠かなぁなどと写真をとったりする。しかし、かんじんの施設は、つぎはぎだらけのアスファルト舗装がされた短い滑走路が一本あるだけ。こんなものゼロ戦ぐらいしか発着できないぞ、いい加減に見回って早く帰ろうと思っていたら、向こうの軍人さんがなにか騒いでいる。
滑走路上に何箇所かあるマンホールのふたが紛失していて、滑走路が使用できなくなっているというのだ。滑走路にマンホールなんぞ作るなよと思いつつ、これが査察団の仕業だなどと因縁つけられても困るな、と自分たちの乗ってきたランドクルーザーをみれば、きっちりマンホールのふたが入っているではないか。車にはちゃんと鍵をかけておけ、ということだなと思う間もなくあたりは騒然となる。
お前らを破壊工作の疑いで拘束すると向こうの軍人が言い出し、赤いターバンをまいたえらく腹の出たTVアナウンサーがマイクを突き出して感想を求めるので、「こういう安っぽいトリックをしかけるような国家は恥を知るべきだ」といおうとして、"It must be shamed to make such a cheap trick, "という風に受身でいうべきか、国家名のほうを主語にしたほうがいいかといいよどむ。大体、ここなんていう国だったっけ。
こんなのが初夢でなくてよかった。
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2002/12/30 |
夕方からぼんやりとTVをみる。ナインティナインと爆笑問題が、だらだらとゲストとからむ番組。それもゲストに司会をやらせるという企画で、仕切る人間がいないのでまるっきりまとまらない、という昨今のお笑い番組をそれなりに自己言及している姿勢がちょっと新鮮。何度も通用する手ではないだろうけど。
それにしてもこの番組、ほとんどCMが入らない。CMらしきものは流れるのだが、8割は番組宣伝なのである。本番を見てくれたらペイするということか、年末の特番なんかに金はらう企業などいないということか。TVは見捨てられつつあるんですかね。
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2002/12/29 |
スポーツクラブは官庁なみに昨日から休みになってしまうし、家ですることもないので、というわけではないがOSXの新バージョンのインストール。しかし、バージョン10.15から10.2にアップデートするのに、まるっきり新品と同じ値段というのが解せない。ふつう、そういうのはバグフィックスといわないか?まあ、WinNT5.0と5.1を別物として売るところの関連会社なので、この程度のことで腹を立てていたらキリがない。
iMacのほうは居間でつかっていて、ほとんどオーディオ機器になっているので、この機会にもうちょっと音質改善をと、PCショップでたなざらしになっていたHarman Kardon SoundSticksたらいうクラゲみたいなサウンドシステムを買ってくる。梱包をあけてみると、これはなんとUSBオーディオなんですな。大クラゲにアンプとウーファー、ヤリイカみたいなのが中高音スピーカー。電源も別なのでまたもタコ足配線がひどくなる。
OSアップデートもおわって、早速試聴してみるが、今までちょっと音量が上がるとびりついていたのが少しましになったか、という程度。低音はたしかに補強されるけれど、その音色の安っぽいことこの上ない。はじめからPCオーディオにそれほど期待しているわけではないので、こんなもので充分ですけれど。それでもコストパフォーマンスという意味では、前に買ったVH7PCの方が数段上。あれを二つ買っときゃよかったな。もっとも、あのウーファーの構造からすれば、夏季にはハエ取りトラップとして機能するようにも思われるので、総合的評価はまだこれからといえるかも。
かんじんのOSX新バージョンだが、つまらんオカズソフトが目立つ以外になんにもメリットが見つからない。フリーソフトが10.2でないとインストールできないというのが目立ちだしたので仕方なく購入したとはいえ、なかなか使いやすくなったわい、と思えるところがどこにもないのでは、マニアとか、私みたいに一種の義理で使っている人間以外に販路を開くのは難しそう。
昨日腹立ち紛れ、酔っ払いモードで書いたことを読み返してみると、思路の乱れ以上にそれこそ"Verstiegent"な構えが気に障る恥ずかし文章であった。書き換えてなかった事にしようかとおもったが、自戒のためにそのままにしておくことに。多少は真面目に考えていってる部分もあるので。といいつつも、午後からサービス回診しにいかにゃならんことを思い出し、またも腹立ちがもどってくる。こういう役を引き受けるということを条件に、かなり破格の扱いを受けているのだから、文句いうのはいかんのですが。
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2002/12/28 |
30日に儀礼的仕事を残すだけなので、できる限り気配を消して仕事を減らそうと思っていたがそのかいもなく、妙な痴呆老人の新入院やら、すでに入院している非主治医患者の増悪などが朝から続きまくる。常勤といっても、大学から仕方なしに派遣されている医者たちは、ほとんどやる気などないので、普段の身体的管理などはすべてこちらの仕事になるわけ。患者家族の側からすれば地方とはいえ、大学の俊英に見てもらえるという幻想に浸れるのだろうが、実際は無責任体制にまかされるまま、というのがほとんどの精神病院の実情だろう。
もちろん、ちゃんとした一般研修を受けている訳ではない若造派遣医などに身体的管理などはじめから無理なのだが、いちおう沽券というものを守ってあげるような体制をつくってしまうのが末端精神医療機関というものなのである。私なんか、バカ野郎にはバカというのもバカバカしく、ああしろこうしろというのもアホらしい。なぜなら、これではいかんと思う奴はそれなりに自分で工夫するし、だめな奴はシビアな指摘をすればするだけ責任のがれの屁理屈が増えるだけになる、というのを思い知ることが今まで多すぎた。これは昔からそうで、多分どんな分野でも同じで、人類というものの基本的性質だと私は思う。
動物行動学という学問は、ほとんどの人間行動を生得的な能力に基礎付け、学習とか経験的な能力獲得というのをまず否定するわけだが、はじめてこの学問を知ったときの興奮は昨日のことのように覚えている。それはあまりにも今までの経験と合致しすぎていた。ダメな奴はダメなのだ。これほど当たり前の事実を、つまらん浅薄民主主義者は目の敵にし、アホな保守主義者に付け入る隙を与え続けていたし、いまもなおそうなのだ。
治療者であれ患者であれ、ダメなものはダメ、という当たり前の論理で進められている指導や治療があるかというと、これがまたおぼつかない。精神療法などはみな、健康な自我との治療同盟をどうしたこうしたという話になるが、そこまで余裕があれば、普通の生活したら?といいたくなる。デイケアだの、作業療法なんかも、ちゃんとこなせるなら金にもならんセッションなんぞでるんじゃなく、仕事すればいい。過渡期といったって、そんなにも長い時間が必要なものか?慣れで解決できるほど、精神疾患っていうのは単純なものなのか。
実際、世の中の精神病院で作業療法やデイケアを患者側から支えているのは、そこそこの社会的能力に恵まれた軽症患者であるわけで、そんなことしているヒマがあれば社会復帰したら、といいたくなるケースがほとんどで、しかも一番指摘しないといけないことは、そういう人にそのような社会復帰事業の格好をつけられているということに、その事業を勧めているスタッフ自体が気づいていないことである。自分のやっていることに酔うばかりで気づかない無能な人が関わっている場合が2割、実は気づいているがやっていることのバカバカしさに気づくのに怖い臆病者が3割というところだろう。一番正直なのは、金になるからやるという残り5割である。この比についてはかなり医療機関別事情というものがある。
これに文句がある人はいくらでも反論してほしい。勿論、自分の実践をちゃんとふりかえる作業をした上で、という前提が入りますがね。多分、先の2割の人以外、それはできんだろう。勿論、私の場合は8割の方に入るわけで、臆病者という意味では同じで、儲けにもなるし、さしあたって無意味ではあれ、やらないよりはましという理屈でそういう事業への参加を勧めたりしているわけ。勿論、そのグループへの仲間意識なんかもたずに、単なる暇つぶしに徹するようにとお願いしますがね。
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2002/12/27 |
BMJ年末論文第四篇。「心筋梗塞による入院とサッカーワールドカップ:データベース解析」。
1998年のワールドカップフランス大会で、イングランドは予選リーグを2勝1敗で勝ち上がり、決勝トーナメント第一戦でアルゼンチンとあたった。フォークランド紛争やら、マラドーナの神の手ゴールやらの影響で、因縁の戦いと前評判を取り、前半45分で両チームとも2点を取り合う好試合であったが、後半開始早々にあのベッカムが退場処分を受けてからは、イングランドは守り一方の穴熊試合となった。延長戦も両者無得点で、結局PK戦となり、4−3でイングランドは敗退した。
この論文は、この試合当日とその翌日に、イングランドの病院に救急入院した心筋梗塞、脳梗塞、自殺企図、交通事故傷害の総数を調べ、91年から99年にいたる同地方の入院率と比較した結果を分析したものである。なお、比較データは、ワールドカップと同じ季節の同じような天候の日で、かつ同じ曜日を選んで条件を揃えている。
その結果、ただ心筋梗塞入院のみがアルゼンチン戦の日と翌日に、約25%の増加を示していた(男女比では男性がやや多いが有意ではない)。ほかの疾患や傷害の場合には差は見られなかった。なお、予選リーグの試合日とも比較しているが、こちらは1敗した日でもこのような差は見られていない。
この論文の意図は、ワールドカップでの敗戦は体に悪い、ということの実証ではなく、心理的ストレスは心筋梗塞発症の引き金となるという説の検証であるようだ。同じテーマでも、戦争や災害時についての真面目な研究が数多い中、あえてサッカーを取り上げるのが英国流というところか。
日本でも阪神淡路大震災後の心筋梗塞死亡増加を取り上げたものが沢山出版されているが、要因が多くなりすぎてかえって関連が不明確になってしまうきらいがある。ジョークのようでいて、案外こういう角度からのアプローチのほうが条件コントロールが精密になって、目的により迫れるのかも。
Douglas Carroll, Shah Ebrahim, Kate Tilling, John Macleod,George Davey Smith
"Admissions for myocardial infarction and World Cup football: database survey" BMJ 2002;325:1439-1442 ( 21 December )
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2002/12/26 |
BMJ年末論文第三篇。「素敵なピンナップ?身体指標変化の傾向分析」。
「女性の肥満指数(BMI:体重/身長の二乗)とウエスト/ヒップ比は、本来その多産性や内分泌機能、疾病リスクや寿命というものに関連している。健康的とされるBMI値とウエスト/ヒップ比は、同時に男性に対する性的魅力としても機能する。進化論的な見解では、種としての生き残りに最適なこうした魅力感覚は、一時的なはやりすたりとは無関係だということにされている」というのが、この論文の出だし。つまり男には生得的に、丈夫で子供をたくさん産んでくれそうな女性に魅力を感じるような本能が仕込まれている、ということ。
ところがここ何十年かの変化は、こうした仮定にはあまり沿わないのではないか、というのがこの論文の著者たちの意見で、それを実証するために彼らが持ち出したのは、「プレイボーイ」誌のピンナップガールたちの身体指標の変遷である。
彼らは「プレイボーイ」の真ん中にある折込ピンナップの、1953年12月から2001年12月までの577枚を対象にし、その身体指標を測定した。彼らが取り上げたのは、身長、体重、BMI、ウエスト/ヒップ比、ウエスト/バスト比、バスト/ヒップ比、そして彼ら独自の指標である「同性化指数」(androgyny index :ウエストをヒップとバストの相乗平均で割ったもの)である。写真からどうやって体重がわかるのかかなり疑問なのだが、詳しいことは書かれていない。プレイボーイ社に問い合わせても、まずわからんだろうし。
彼らが指摘する変化は、まずモデルの体重の一定性、身長増、バストとヒップサイズの減少、ウエスト/ヒップ比の増加である。当然、BMIは減少し、彼らのいう同性化指数は増加している。つまり、この50年の間に、モデルはどんどんひょろ長く、ズンドウになってきているわけである。
著者たちはこういう変化について、進化論的立場からのコメントはしていないが*、彼らが考察に入れなかったもう一つの変化、それはモデルの年齢が有意に高くなっていること、を考えに入れると、昨今のピンナップガールの性的魅力というものには、もはや多産性などのイメージは求められていないといえるだろう。人類は種として衰退してきているということであろうか。
Martin Voracek, research resident(Department of Psychoanalysis and Psychotherapy, Statistics and Documentation Branch, University of Vienna Medical School) , Maryanne L Fisher, PhD candidate(Department of Psychology, York Universit).
"Shapely centrefolds? Temporal change in body measures: trend analysis "BMJ 2002;325:1447-1448 ( 21 December )
*唯一著者たちのコメントとおぼしきものは、「(こうした中性化傾向は)今なお「ガリガリ昆虫」より「砂時計シェイプ」が望まれている事実とは反するものだ」という当惑めいた言葉だけなのだが、これは単に彼らの好みの問題らしい。
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2002/12/25 |
BMJ年末論文第二篇。「アイスクリーム頭痛の研究:早食い対慎重食いのランダム化比較試験」、というもの。どなたにも経験があると思われる、冷たいものを食べたときの頭痛に関して、急いで食べる時と、ゆっくり食べる場合に差は出るか、という研究。
いままでのアイスクリーム頭痛に関する見解は、気温が暖かいときだけにあれが起こるとされているらしく、その知識ギャップを埋めるためにこの研究が計画されたというのだが、なんで早食いと遅食いを比べればその点が明らかになるのか、いまいちよく意図がわからない。
被検者はカナダの中学校に在籍する、平均年齢12,7歳の男女生徒たち145名。彼らをランダムに2群にわけ、片方にはアイスクリーム100ccを5秒以内で平らげるように指示し(ほとんど早食い選手権である)、もう片方には同じ量を30秒以上かけて食べるように指示し(これだってえらく早いぞ)、双方のアイスクリーム頭痛の発現率をみた。なお、実験は2001年12月から、2002年1月にかけて行われた。
その結果、早食い群では27%の生徒が頭痛を訴えたのに対し、遅食い群では13%であった。冷たいものはママのいうとおり、ゆっくり食べようね、という結果で終わりかと思えば、寒い季節にゆっくり食べても、この頭痛が起こるということが示された、というよくわからない強調がされているのが不思議。
もっと不思議なのは、いわゆるアイスクリーム頭痛がおこる機序についてあっさりとしか触れていない点で、あれは確か三叉神経第二枝の上顎神経が低温刺激され、逆行性に三叉神経領域に痛覚として知覚されるということではなかったのか(虫歯があると余計痛みが激しいのはそのせいだと、もっともらしく教えられた記憶があるのだけど)。「口蓋の低温刺激が痛みを生む」という程度の書き方しかしていないのは、私の習った知識がもう通用しなくなっているということなのかも。
この論文へのコメントがいくつかあって、「チョコ味とバニラでの違いを知りたい」なんてのが一番初めに来ているのをみると、完全に冗談記事として読まれている様子。
Maya Kaczorowski,(Dalewood Middle School, Hamilton, ON, Canada), Janusz Kaczorowski, (Department of Family Medicine, McMaster University, Hamilton, ON, Canada )
"Ice cream evoked headaches (ICE-H) study: randomised trial of accelerated versus cautious ice cream eating regimen"; BMJ 2002;325:1445-1446 ( 21 December )
(どうも大学の家庭医学講座にいる旦那が、中学校の教師をしている嫁さんに因果を含めて協力させた研究みたいですな)
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2002/12/24 |
けったいな医学論文では定評のあるBritish Medical Journalは、いつも年末にそのパワー全開になるのだが、今年もその期待を充分かなえてくれている。正月休みにゆっくり記事にしようと思っていたが、昨日のTVニュースでそのネタの一部が報道されてしまったので、あせって取り上げる次第。ほかのはおって紹介する予定。
その論文とはBMJ12月21日版に載った、「ミイラの呪い:歴史的比較分析研究」というもの。1923年、ルクソールの谷でツタンカーメンの墓が発見されたとき、そこに居合わせた探検隊メンバーのほとんどがミイラの呪いで死んだという伝説に対して、コホート研究手法で検証した歴史的大論文である。
探検隊は44人のメンバーからなり、封印されたツタンカーメンの墓所に直接入ったのは25人であったらしい。論文の著者たちは、この25人と残り19人のその後をしらべ、両者の平均死亡年齢、平均余命に何の統計的有意な違いもないことを示している(勿論、一般的寿命との間にも違いはない)。たしかに、探検隊の資金提供を担当したジョージ・ハーバート卿は発掘直後の1923年、蚊に刺されたことが原因になって敗血症で死亡している。ほかの主要メンバーのうち2名も、10年ちょっとの間に持病で死んではいる。でも、名誉職をやっているような高齢者だし、別にミイラの呪いを持ち出すことはないのだが、当時の新聞が面白おかしく取り上げて、一種の都市伝説化したというのが実情らしい。
論文のほうは医学的立場の節度を守り、ツタンカーメンの玄室にある種未知な毒素なり、感染性宿主となるものがあったのではないか、という仮説を検証するという構造になっているが、昔のホラー映画(?)の広告図版までつかったその意図は、「手のかかったジョーク」であるのは明らかである。著者はオーストラリア人だが、その英国式韜晦ユーモアの発露をじっくり鑑賞して、楽しむべき一篇であろうと思われる。
Mark R Nelson,Department of Epidemiology and Preventive Medicine, Monash University, Alfred Hospital, Prahran 3181, Australia
"The mummy's curse: historical cohort study" ;BMJ 2002;325:1482-1484 ( 21 December )
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2002/12/23 |
オフ会と都会疲れでさぼった分を取り戻そうと、スポーツクラブで意味不明にがんばる。開始前と終了時で体重が4kgちかく減るほど。たっぷりと水分取りながらそうなるのだから、普段は完全に水肥り体質ってことなんでしょうな。帰りに正月用の濃い目の酒一式をかいこみ、ちょっと味見をしようと思ったのが運のつき。午前3時にPCの前に突っ伏して寝ている自分に気がつく。
ものすごく訳のわからん文章を書いていて、面白いのでそのままアップしようかと思ったが、さすがにはばかられたので書き直し。
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2002/12/22 |
オフ会の方はスケジュールがあわない人が多かったのと直前キャンセルなどのため、かなりの少人数での決行となるが、それなりに和気靄々と進行し、そうひどく酔っ払うこともなく無事解散。目覚めてみれば新小岩、なんてこともなく家に行き着きました。今後も年に一〜二度は小規模でも行う予定。半分匿名みたいなかたちで書いているので、どこかで実在証明をしておくべきだ、と考えているからでもあります。まあ、仕事と関係ないところで酒のむ口実がほしい、というのが大きいけど。
しかし大して飲んでないのに、一日けだるく、スポーツクラブにいくのもやめて終日TVの前で高校駅伝を見ながらうつらうつら。この駅伝という競技さえなければ、日本はマラソン王国になっているのにな、などとぶつぶついいながら、それでも見ているのだから世話はない。出身高校のチームが出ているというのと、競技が行われる街並みが懐かしいというのがやはり大きい。そんなこといいつつ、昔よく行った飯屋がまだ健在であるのを確認したあたりで眠気に負けてしまい、結局どこが勝ったかわからずじまい。
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2002/12/20 |
今年最後の当直なので、多少は働いているフリをする必要があり、手抜きネタはないかと物色。すると「グレコローマンかたぎ」で「ハリーポッターと**の##」というのをいくつも考えて供覧するというのをやっておられて、どういえばいいのか、面白いとはいえないところに面白さがあるような、独特の味をかもし出している。よし、これのマネをしようではないか、と考えはじめたものの、さっぱり気の利いたのを思いつかない。「ハリーポッターとみのもんた」ではだめだよね、やはり。
面倒になってきて、目に付いた本の題名で「**の##」になっているのをくっつけるという手抜き。全然面白くないけど、よろしければご閲覧をどうぞ。キャプチャーソフトの設定がおかしかったらしく、色がちょっと変。手抜きのつもりだったのに、昼飯時間全部取られてしまったよ。
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2002/12/19 |
一昨日、映画「ロード・オブ・リング」をくさすようなことを書いたら、あの物語のファンにはいたく不興を買ったようで、掲示板やメールで何件かご意見をいただいた。いろいろな視点が寄せられた、といいたいのだが、「あの原作を読んでいれば、あの映画がいかに素晴らしいかわかるはずだ」というのが基本の様子。
これは実に異様なことといわざるを得ない。例えば私のお気に入りの映画はいくつかあるが、それをつまらんという人に対して、「原作を読んでいればそのおもしろさがわかるはずだ」といえるようなものは一つもない。「カサブランカ」なんて、大体原作がないはずだし、「タクシー・ドライバー」だって同じようなもの。その面白さを判断するのはその映画そのものなのであって、原作とか由来で判断がかわるということはないはず。あれは確かに金をたっぷりかけて練りに練った映像を展開していると思うが、私みたいにそのストーリーや構成世界になんの興味もない人間には、全然どうでもいいものだとしかいえない。
作者のトールキンという人は言語学者でもあって、物語の中で使われている古代語というか、妖精語を丸々作るような能力と馬力の持ち主らしい。たぶんその物語も古典的素養に裏打ちされた緻密なものなのだろう。私が理解するような「ファンタジー」というものの先駆者なのかもしれず、そのため逆にああいったものが全部同工異曲にみえてしまって(つまりそれに続く作品群はみんなこれのパクりだということ)、ますます興味がもてないのかも。
ムッタ・デーバ日記のここなど読むと、仏教思想の次に人生をかえた本だとして、これに心酔していた時期があったと告白している。同じように宗教系高校で過ごしていて、既成仏教への疑問点をつきつめていった彼と比べれば、私なんか俗物のきわみであって、その俗物性がこういう物語を受け入れないのかもしれない。ムッタ・デーバ氏にとっては、アレフにいたる大いなる助走のフィールドであったわけで*、この物語に心酔する多くの人にとっても、神無き時代の代理神として機能しているといえるのかもしれない。そういうものにはそれなりのリスペクトを示す必要があったな、とほんの少々反省しているところ。
*アレフにいたる大いなる助走という書き方をもって、なにか貶めるような意図はないのだと強調しておきたい。もちろん、それが本当に解脱に至る道なのだろうかと、ちょっと案じているのは事実ながら。
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2002/12/18 |
例の米軍提供無料ゲームに何度も挑戦したおかげで、このたびめでたく一番強力な狙撃銃を使える立場に昇格となった。ゲームをダウンロードしてID登録したら、まず基本的な射撃訓練があるのだが、そこで40発のうち36発を命中させると、後に狙撃手訓練の講座(というのかねぇ?)を受けられるのである。そしてそれに通れば、ゲームシナリオの中で狙撃銃を持つことができる。はじめのうちはM24という、普通のM16突撃銃がボルトアクションになってスコープが付いただけみたいな銃しか選べないのだが、幾多の戦闘をへて戦功をあげていくと、M82というより命中精度の高い狙撃銃が使えるようになるのである。
狙撃銃が使えるようなゲーム設定の戦場では、いつもモヤとか霧がかかるようになっていて、敵からは全然見えず攻撃される心配のないところで狙撃しまくるようなことは出来なくなっている。敵を視認できるということは自分も相手から確認されるのである。当たり前だが、うまくしたものだ。無駄玉打ちまくっていると敵に気づかれ、逆に狙撃手にやられたり、グレネードランチャーの集中砲火をあびて一貫の終わりである。
うまく掩体に身を隠し、かなり集中してスコープを覗きつづけ、敵がモヤの中から姿を現したかどうかというところですかさず狙撃するというのが作法。スコープのお蔭で命中率がかなり高いことがこちらのアドバンテージである。ゲームの戦闘は大体10対10ぐらいの数でやられ、10分ほどのターンの中では、普通の銃を持っているだけではよっぽどうまくやっても敵兵無力化は2から3というところだが、この狙撃銃を持っていると4から5という戦果を得ることも可能である。
無力化と書いたけれど要は相手を殺すことで、3Dグラフィックエンジンにかなり高度な物が使われているため、見事命中して相手がぶっ倒れるところはかなりのリアリティである。しょせんゲームなので、自分がやられても、クッソーと苦笑いするだけで済むからこそだとわかってはいるものの、相手を倒したときはぞくぞくするほどの達成感というか、快感そのものがあるのは正直言って事実である。
やはり人間の(少なくとも私の)脳には、事情さえ許せば他人を殺戮することで満足をえる本能が、深く刻み込まれていることは間違いない。この本能を前提にすれば、たとえこの身は滅びるとも、せめて敵にも致命的打撃をと、程々の満足に浸って死んでいく自爆テロリストの気持ちもわかるような気がする。まして、自分が死ぬことを心配しないでいいような立場で、しかも先端メカ満載の軍事力を背景に、負けるはずのない戦争しかける人の気持ちは痛いほどわかりますわな。
なんだかんだと大義名分で戦争を語る前に、戦争もしょせんゲームであり、ゲームでは相手をやっつけることが無上の喜びだということを再確認するためにも、このゲームがもっと普及したらいいのにと思う次第。人間、楽しいことはやめられないものだ、という洞察がまずいるのではないかと愚考するわけ。
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2002/12/17 |
借りてきたDVDで「ロード・オブ・リング」をみる。ダークサイドのフォースが封じ込められた指輪をひょんことから受け継いだ、ホビット(小人族なのかね?)の一人が、勇士たちの手助けをえて、その指輪を手にして世界を闇の支配下におこうとする邪悪な力と対決するという話。里見八犬伝と桃太郎と、アーサー王伝説なんかをごちゃまぜにしてひっくり返したような話である。
もともと大長編物語らしいのだが、映画化されてもやたらにくどくて長く、しかもえっ、これで終わりなの?という終わり方。続きものにして金を稼ごうという魂胆らしいが、これに引っかかってまた見に行く連中がいるとしたら、キョービの人々はよっぽど娯楽に飢えているとしか思えない。そんなことするぐらいだったら、もちょっと金ためてNZにでも景色見に行きなさい。映画よりよっぽど感激するのは間違いなし。
唯一興味をそそられたのは、主人公とその仲間がみんな、えらく身長にハンディがあり、日本でつくるなら、白木実とか、空飛小助(誰も知らんか?)、プリティアトムなんかを総動員しないといけないのだが、差別助長なんてこと言い出す手合いもいるだろうし、なかなか勇気のある設定だなぁと感じたことことぐらい。
ところがDVDのボーナスクリップをみると、どうもそれは特撮で誤魔化してそう見せているだけのようで、ちょっとがっくりなのだった。ネットで有名どころのレビューをいくつか見たが、誰もそこに触れていないのはなぜなのだろう。うしろ姿シーンなんかでは侏儒系の役者を使うのだろうか、それとも子役なのか、エンドタイトルロールを必死に見る趣味などないので、さっぱりわからない。
もともと私はこの手のファンタジー系がまるでだめなのだ。これは幼少のころ、絵本などにあまり親しまなかったためだろう。幼稚園のとき、「キンダーブック」という月刊絵本みたいなのを買わされていて、それに出ていた単純なおとぎ話に激怒した記憶がいまだにありありと残っている。動物園のサル山を巡るおサルの電車があって、夜中に動物園に入り込んだ子供が、サルにつれられてサル山の裏にあるおとぎの国に行く話である。
サル山の周りに線路があったって、何周回ろうがサル山の周囲以外にいけるわけはないじゃないか、いい大人がなんとつまらんバカ話を書いているのだ、と本気で腹が立ったのである。ついでに「キンダーブック」なんて、ドイツ語と英語を適当にごちゃ混ぜにした変な名前をつけるんじゃないと毒づいた、というのはさすがにウソ。
自分の子育てのときも、あまりしゃれた絵本というものに子供たちが喜んだ記憶がない。変に抽象ビジュアルなうさこちゃん(なんと今はミッフィーというらしい)より、まだ漫画っぽいノンタンのほうが面白いというような、俗っぽい遺伝的趣味をうけついでいた。例外的に喜んだのは、嵐山光三郎と安西水丸の「ピッキーとポッキー」ぐらいだ。しかも、多少物心がついたら、漫画そのもののほうをよっぽど好んだようだし。おかげで小学校の読書感想文に「パタリロ!」について書いてしまい、えらく顰蹙をかったりしましたが。
それはいいとして、「ロード・オブ・リング」にもどると、特撮でホビットとかドワーフ族を描いたにせよ、元の俳優たちの大頭胴長短足傾向というのはまず間違いないのである。日本人の若い世代はえらく急速にヨーロッパ的体型を獲得してしまい、これはちょっとした栄養状態改善とか、生活習慣の変化などでは解明できない謎を含んでいると私は思うのだが、それはまた別の話。ところが欧米の方では昔日本人があこがれたような「八頭身(完全に死語)」などというものは、ビジュアル的魅力と全く関係なくなってきているらしい、というのを「天才マックスの世界」とか「スパイダーマン」で感じていて、その印象をさらに強固なものにした映画なのであった。これには、いつかまた触れるつもりだ。
まあなんであれ、ああしたガキっぽい二項対立的世界観というものは、毛唐からキリスト教の価値観を引き剥がしたらすぐに露出してくるものらしい、というのが見えるあたりをそこそこ楽しむべきかな、などと無理に持ち上げてみたりして。
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2002/12/16 |
「第四の扉」(ポール・アルテ 平岡敦訳 ハヤカワポケットミステリ)
殊能将之氏のサイトでやたらにポール・アルテが持ち上げられていて、ぜひ一度読まねばならないと思ったのはいいが、近所の本屋にはないし、この前都内にいった折、けっこう大きな本屋をのぞいたにもかかわらず見つからないのである。仕方なくBK1で注文。届いた本を見て納得。いわゆるポケットブックという奴だった。文庫本だと決め付けていたのでみつからなんだのだ。昔から、ハヤカワのポケットブックというのにはあまりコストパーフォマンスを認められないと思って、チェックすることもないのだった。
なんであれ、手に入ったからには読むしかない。「フランスのディクスン・カー」が創り上げたミステリ世界はいかがなものかと、恐る恐る読み進める。まえにこれが見つからなかったので、ディクスン・カーそのものを買ってきて読んだのはいいのだが、あまりの瑣末的理屈合わせに終始する内容に、かなり辟易した覚えがある。ああした理屈の上だけで謎が解明されているようなのは、そのゴチャラゴチャラしたとこなんか読んでる先から忘れてしまって、結局なんだかよく分からないのである。多少の矛盾ぐらい、力技でねじ伏せて読者を納得させるようなタイプのほうが私ごのみ。
読み終わった結論。これ、なかなかイケるではないの。なんでこの人が「フランスのディクスン・カー」なんだろう。むしろ一時凝ったことのある、都筑道夫を彷彿とさせるものがある。「フランスの都筑道夫」と呼んだほうがいいのでは。どこに共通点があるかというと、フェイクだと自覚している「照れ」が全編を覆っていること。いつも「なんちゃって」が語尾に来るのである。それもなにせ、この作家が小説というものを書き始めて第二作目ということもあるのか、ちょっとずれたようなイギリス中流家庭の描写と、牽強付会な奇術師フーディーニ伝説を無理やり絡ます一発ネタのぎこちない同居の不安定さが、いやでも異化作用をおこさずにはおかない。
もちろん、大真面目に書いているのに結果としてこれになった可能性もあるわけで、今後訳出されるものを注意深くチェックする必要はあるとおもう。妙に勘違いされたら、ちょっと付き合いにくいものばっかりになるかもしれないわけで。とにかく、読んでるあいだずっと、頭の中でオーネット・コールマンの「泣く女」が流れっぱなしになるという、みょうな読書体験だった。そういえば、オーネット・コールマンは天才なのかタコなのか、という昔あった論争はどうなったのだろう。
なお、この話のあらすじを変にかくとネタバレになるので、本職のまとめを読んでいただくのが一番いいような。
全然大筋とは関係ないが、登場人物の一人が、外国から帰ってくるというところで、あるところでは飛行機で帰ってくることになっているのに、別のところでは船になっていて、訳の問題かもともとなのか、ちょっと頭をひねる。どっちだっていいんですが。
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2002/12/15 |
「ゆでガエル」という言葉をご存知の方は数多いであろう。変化していく状況に対応せず、安穏と毎日をルチーンワークの連続ですごしていたら、やがてその組織は取り残され、機能しなくなるというような、ビジネスの分野でよくつかわれる警告のようである。検索してみると「『ゆでガエル現象』が会社を潰す」などという本が出ていたりするし、企業トップがこれを自戒の言葉とされているケースも数多い。ビジネス界ばかりでなく、環境汚染への対応とか、健康対策などにもこの比喩は使われるようだ。
いまひとつ上品とはいいがたいこの言葉がよく使われるのは、「ゆでガエル」という現象が事実であるという信念がまずあるからに違いない。以前似たようなもので、「地獄鍋」伝説をとりあげたことがある。ドジョウを生きたまま鍋にいれ、火にかけると苦しみだすので、そこに豆腐をさっと入れるとドジョウはみなそこにもぐりこみ、そのまま豆腐の中で煮あがってしまうという伝説的料理である。
ここにはふたつの前提がある。まず、ドジョウは温度環境に敏感で、危機を察知して合理的安全確保行動を的確にとるというもの。その次は逆に、いったんその行動をとると(つまり豆腐にもぐりこむと)、外に出ればもっと早く死ぬことになると観念するのか、それ以上の危機回避行動はとらず、おとなしく豆腐の中で死をむかえるというもの。やたらに説明がアド・ホックなところがこの料理の実在性を強く疑う根拠になるし、実際そんなものはないのである。
今度は変温動物というのでは同じカエルで、ゆっくり温度をあげていけばそのままゆであがるというのだ。なるほど、地獄鍋がウソだったのはこういう理由によるのか、と納得してしまいたくなるところだが、こちらもなんとなく疑わしい感じが付きまとう。先ほど例にあげた本の著者や企業関係者にはもうしわけないが、個人的体験としては、この言葉をつかって「状況への即応性」を呼びかける連中にロクな奴を知らないのである。
みな軽薄野郎ばっかりで、ちょっと聞きかじったようなことをもって組織改革などといいたて、手前自身が現に役にも立たないお荷物であることをごまかそうと目論んでいたり、どこかの業者と組んでいりもしない物品やシステムを導入しようとする、マイルド背任志向の持ち主だったりする。経営トップがこれをいいだせば、まず業績が左前になってきている責任を部下に押し付けて、労働強化とリストラを目論んでいるとおもって間違いないのではないか。
この言葉を口に出す奴らが気に食わんからこの言葉自体もウソだ、というのは少々乱暴な理屈だが、実際、「ゆでガエル」現象というのは科学的事実ではないのだ。いくら変温動物とはいえ、カエルは自分の温度環境にはとても敏感で、はじめから熱いところにいれようが、じわじわ熱くしていこうが、危険のあるところからは必死になって逃げようとする、というのは生物学的には自明のことのようだ。専門家からすればバカバカしくて反論する気にもならないので、素人がつかう比喩表現がそのまま一人歩きしているということに過ぎない。
なんていっているのだが、私自身、この比喩表現をいままで胡散臭くは感じていたものの、インチキだと断言できる根拠はもっていなかった。たまたま英語圏都市伝説蒐集サイトであるここの最新更新にこれが取り上げられており、そこで引用されている生物学者の、これがウソだという説明をよんで、やっといままでのどっちつかず感が解消された、というわけ。
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2002/12/14 |
考えてみれば昨日は13日の金曜日であった。これに言及した論文が新しく出ていないかチェックする、恒例作業をころっと忘れていたではないか。一日遅れで早速調べる。すると、出たばっかりホヤホヤの論文を見つけることが出来た。それもThe American Jounal of Psychiatryという一流どころに載ったものである。
「交通事故死亡と13日の金曜日について」、フィンランドの研究者によるもの。著者は1971年から97年までの男女別交通事故死亡を調べ、その間の13日の金曜日の死亡数と、それ以外の金曜日のそれとの比較をおこなった。ほかの日すべてと比べなかったのは、週末で気が緩んでいて、なおリゾートに向かうような事情で事故が増えることを考慮したのであろう。
その結果である。男性の場合、13日の金曜日の訂正交通事故死亡率は、他の金曜日とくらべ、1.02倍であった。しかし、女性の場合はじつに、1.68倍を示したのである。著者はこの原因として、女性は迷信に対する不安が強いため、よけいに事故を起こしてしまうのだ、としている。
「この日の交通事故死亡の3分の1は減らすことが可能かもしれない。もっともそれで助かるのは、13日の金曜日全部を足しても500万人に1人という少数ではあるものの」という結び。
著者はオウル地区労働衛生研究所というところの研究員らしいのだが、なぜにこの内容の論文を米国の精神医学雑誌に投稿したのか、謎というしかない。
Simo Nayha, M.D., Ph.D.
"Traffic Deaths and Superstition on Friday the 13th ."
Am J Psychiatry 159:2110-2111, December 2002.
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2002/12/13 |
ペットの汚物処理会社社長、荷を奪われる−サン・センチネル紙より
ダラス発12月12日:マット・ボスウェルはクリスマスの買い物をしていた。ショッピングモールに止めたトラックの周りに怪しげな連中がうろついており、そのうちの一人がトラックの荷台からプラスチック袋を抜き取り、待機していた車に乗って逃げるのを目撃し、マットは大声で叫んだ。しかし彼は追いかけることも、警察を呼ぶこともしなかった。
理由その1 その袋は単なるペットの糞だったから。
理由その2 「驚きのプレゼント」の季節だから。
「奴らがあの袋を開けるところをみたかったな」、ペット汚物処理専門業者のマットは言う。あのプレゼントの包みには、街中の芝生から集められた25ポンドの犬の糞が入っていたという。
------------引用(かなり間引き)終わり。
こんな記事があったのだが、これ、ホントの話だろうか。役にも立たないものとか、汚物を盗む泥棒というのは、都市伝説に昔からあるパターンなのだ。死んだ猫を葬るために、ショッピングセンターの袋に入れていたら途中でひったくられる話とか、旅行途中で死んだ老人の死体を、寝袋にいれてルーフキャリアで運んでいたら盗まれた、などというひどい変形版まである。あとのほうはブルンヴァンの本にも入っているので、もしかしたらこちらのほうが本家かもしれない。
あまりにも都市伝説と同じパターンなので、ちょっと怪しい。原文も新聞記事とはとても思えないほど事実関係があいまいで、オチを意識しているとしかおもえない書きかた。埋め草にこの手の罪のないでっち上げ記事をのせるってのは、どこの新聞でもやってそうですが。サンゴに落書きして捏造記事書くよりはよっぽどまし。
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2002/12/12 |
「他人と深く関わらずに生きるには」(池田清彦:新潮社)
構造主義生物学者、池田清彦氏の新刊である。いまどき、何とか「主義」というラベルを(もっとも構造主義は政治的立場を表す言葉ではないけれど)自分の仕事につけるという、いささか時流に反したスタイルを貫かれておられるので一目瞭然なように、この方も団塊の世代後半の偏屈者である。
出版社の著者紹介によれば、「構造主義科学論とそこから導かれる多元主義、そしてリバータリアニズムの考えをもとに」著作活動をおこなっておられるというのだが、前半はいいとして、「リバータリアニズム」っていうのはこういう立場をいうのだろうか?リバータリアニズムって市場至上主義のくせして、個人の権利とかにはえらくこだわる、いいとこ取り主義のことなんだと思っていた。有名な解説本を和訳したのがえらく胡散臭い人で、訳もかなりお粗末だったからちょっと偏見がある。
この人の立場はマイルドなアナーキズムなんじゃないですかね。規制をとっぱらうというのは同じだが、具体的な有用性によってのみ結ばれるような経済体制と、犯罪行為のチェックという機能だけに限定した権力というのは、リバータリアニズムとはかなり違うと思うのだが。まあどうでもいいけど。
とにかく池田氏の理想とする生き方は、他人から余計な指図をされず、またそうしないというもの。前後編に分かれているこの本の、前半の章立てをいくつかあげるだけで、ほぼその内容は想像され、現に想像通りなのである。「濃厚な付き合いはなるべくしない」「車もこないのに赤信号で待ってる人はバカである」「病院にはなるべく行かない」「心を込めないで働く」「ボランティアはしないほうがカッコいい」「自力で生きて野垂れ死のう」などなど。
妙な理想原理主義に拘泥するのはやめて、ホントに自分が興味を持てることのために生きていこうよ、というごくごく当然の主張なのに、それがかなり奇矯なものになってしまうのがいまの時代の問題なのだろう。例えば「病院にはなるべく行かない」で、著者はおおむねこういう主張をしている。怪我と感染症以外は病院にいったとしても治るとは限らず、まして自覚症状もないのに検診などでデータ異常を言われただけで病院に行くのはナンセンスだ。それは健康は正常で善であり、病気は異常で悪だといういう健康原理教の信者になっているだけのことだと。私もそのとおりだとおもう。付け加えるなら、そういう健康原理教信者に限って、医師のいいつけとか、一般化している健康神話のためなら、大変な苦行をすすんで受け入れるのである。どうにも訳がわからない。
この本の後半は、著者がいうような生き方が可能な社会をつくるにはどうしたらいいか、という提言である。だいたい、この本がかかれたのは、日本が陥っている消費不況と雇用不安の悪循環への解消策という意図だったという。その具体策についての評価はさけるが、そういうものを実現させようと努力することは、少なくとも「他人と深く関わら」ない生き方からは導かれない、というのはどうにも致し方ない根源的矛盾。
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2002/12/11 |
一昨日前の大病院見学の感想など。
ふつう医者というのは研修医のころの大学病院勤務を振り出しに、だんだん規模の小さな医療機関に流れていく宿命があるものだ。現に私などは途中に例外があるものの、設備や規模、その対外的な医療水準評価にしても、年とともにレベルが落ちるといわれても仕方ないところで働くようになってきている。知識水準はおちるし、テクニックは時代遅れになるし、これはどうしようもない。たいがいの医者は最後は開業ということを目的にしていて、これは言うならば巨大商社に勤めながら、最終目的がラーメン屋を開くことを目指すというようなものだ。
ほかの職種のように、若いうちは地方の営業所あたりでがんばって、次第に中央で栄達を得るようになるのが普通であるのと大違いである。勿論それは一握りのエリートに言えることで、大多数のその他大勢にしてみれば、我々と同じように、そこそこのところで子会社に回されたりするから、これは世間的栄達と無関係な人間の一般的コースについては共通しているのかもしれない。医者だって、いったん田舎わたらいしてから中央に戻って上がりを目指す、ごく少数のハイパーエリートはいるわけで。
そういういささか複雑な思いがあるものだから、都心のハイテク病院などを見学するのは、私のような俗物にとっては、かなり心休まらぬ体験になるものだ。でも、一般的に都会の病院の給料は安い、というのも知っているので、どっちがましか常に考えてしまうのである。
見学した病院は、昔は三公社五現業などと覚えさせられた公的機関の一つが民営化された、超大企業をバックにしたところだ。いわゆる電子化というのでは、本当に理解しているのか、と訝しがられることのある、ちょっと怪しい推進者がいるので有名な国立医療機関と地方自治体病院についで、日本で3番目に知られた先進性を誇っている。とにかくお台場のショッピングセンターかいな、と思わせるエントランスやロビーに田舎のネズミ達はまずびびってしまい、金かけ放題の医療機器には腰をぬかすしかない。あちこちと案内されながらPCの数を数えていて、はじめの20分の1ぐらいの行程で、両手両足の指の数でとっくに足らなくなったのにあきれてしまう。多分2年もすれば買い替えになるだろうから、是非10数台は下取りしたいものだ。
とにかくシステムの出来は大したもので、これなら充分使い物になりそうである。ただ、値段がねぇ。先ほど例に出した国立と地方自治体病院は、システムだけで40億円ほどかけたので有名である(それでもしばしばハングするらしい)。いっさい収入を生まない電子カルテシステムでも、金の出所は税金なので、なんの心配もないわけだ。ここはその点、わずか30億しかかけておらず(10億も安いのはすばらしい。10億儲けるのに、どれだけの苦労がいるだろうか)、しかも自分で開発したシステムなので、ほかのところに売るという商売にできるわけ。
しかも、システム導入の事前診断をするサービスも展開しているとのことで、ほんの数千万円もだせば、どのような道筋で病院情報の電子化がされるかを調査検討し、助言してもらえるらしい。こちらはまさか、電子カルテシステムの全体予算が数千万円だ、とも言い出せず、こわばった笑顔で説明聞くのがやっと。
それほどまでに自由にできる金があれば、紙カルテをみな薄絹を着た女奴隷に運ばせ、回診はゾウにでも乗って行い、周囲にはべる三博士に口述筆記させたほうがまし、というものだ。そこまでしなくても、痒いところに手の届くカルテ記述とその処理を、医者の代わりに全部代行してくれる20人ほどの部署を作り、一人に500万円の年俸をはらっても年一億ですむ。もっともそれでは確実に病院はつぶれますけどね。
見学した病院の窓口になってくれた方はそのシステム開発の中心をになってこられ、情報の開示と患者への利便性、医療従事者(ただし医者は別みたい)の満足度をみたす環境をつくるために日夜の苦労をしてこられた、昔ながらの良心的技術者の鏡のような方なのだ。一切の幻想を持たせることなく、電子カルテなんてものは、田舎貧乏病院が見栄で導入するものではなく、金持ち医療機関のノブレス・オブリージュでこそ意味があるのだ、とほぼ言い切られるその主張にはまことに感銘をうけたものだった。でも、うちみたいなところではやはりダメですな。あえて導入しない勇気をもつための反面教師にするしかない、というのが今回の結論。
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2002/12/10 |
「白い犬とワルツを」(監督グレン・ジョーダン 93年米TV映画)
昨日TVをぼんやり見ていたら、NHKBSでこれを予告していた。えらくおぼつかない新人のアナウンサーが、「老人とペットの交流を描いたドラマ」だというので、そりゃ違うんではないか、とおもって見はじめたというわけ。ちょっとまえ、近くの本屋にもこの原作が平積みされていて、千葉はどこやらの本屋さんの手書きの紹介文がきっかけになって、口コミでベストセラーになったという由来が書いてあり、そんなアホなことがあるわけがない(真面目な本屋さんが推薦文を手書きする、ということは事実でしょうけど)、メルヘンでメルヘンを売るという出版社の宣伝戦略だろうとおもって眺めていたものだった。歳とって涙腺がゆるくなっているので、この手の泣かせで攻める卑怯千万な本など買うと、たちどころに向こうのいいカモにされる危険があり、あえて買わなかった。まあ、TV映画ぐらいだったら見ておいてもいいかな、と視聴した次第。
50年以上連れ添った妻を突然の心臓発作で失った老人のところに、白い犬が訪れるようになる。近所にとついだ娘たちが老人の世話をしに来るが、犬は見えない。老人がボケて幻覚を見ているのだ、と心配する娘や息子たちをよそに、老人と犬は仲むつまじく暮らしている。老人は自分と妻が出た学校の同窓会に、犬と一緒にこっそり出かけ、道に迷ってしまう。車を浅瀬に立ち往生させてしまい、溺れかける老人の危機を、白い犬が息子たちの前に現われて道案内し、老人はかろうじて助かる。しかし老人は肺炎になって寝こんでしまい、やがてこの世を去る。葬式の翌日、老人の墓の真新しい土には、犬の足跡がくっきり残されていた、という話。
ワンワン騒ぐわけでもなし、子供たちにも見えず、近所の犬にも気配をさとられない犬という、超自然的存在の白い犬が、やがて子供たちにも見え始め、そこで老人は妻と自分の死を受容していくという話で、死んだ妻そのものというか、死の予兆のアレゴリーと言ってもいいのか、白い犬がどうしてあんなに不可思議なものに書かれる必要があったのかいな、と思わないでもない。もちょっと普通に書いておいたほうが余韻が増すのでは、と思うのは日本人感覚かも。想像するに、老夫婦の個別的愛の物語を、永遠に至る普遍的無時間的なものへと変換する装置として、あの犬をだしたということなのだろう。実に様式的といえば様式的、手の内はさらしまくりといっていいのだが、その限定的なイマジネーション喚起をねらったやり方ゆえに、手もなくつくり手の術中にはまるしかないのもまた事実。
ましてこちらでは、先ほどの「手作りベストセラー」の物語まで付加されている。ここまでルチーンでせめられると、「感動」という奴に浸るしかなくなる。考えてみれば、感動というのはまさしく紋切り型の構図からこそ、出現してくるものであるのだから。これに似たものはどうもいつぞやどこかでお目にかかったような気がする。そうだ、「マディソン郡の橋」である。そういえば映画の中でもマディソンが出てきたような。同じ場所かどうかしらないが。
あちらのほうを「一杯のかけそば(性愛編)」と書いたように思うので、こちらを同じようにいうなら、「一杯のかけそば(死生観編)」とするのがよろしいかも。
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2002/12/09 |
今日は都内の某大病院に電子カルテシステムを見学に行くことになっていて、現地直行かつ直帰といういい加減な勤務のふりでよいという話だったので、昨夜は深夜までくだらん長文を書いたり、大酒飲んだりしていたのだけれど、天網恢恢疎にしてもらさずとはよく言ったもの、朝起きてみれば大雪である。これはいい加減な態度で生きていくことなんか許さん、いつも苦労しながら生きていくしかないのだからな、という天というか神様というか仏様からのメッセージだと素直に受け取り、1時間は早めに家を出て都内に向かうことにする。といって、とっくに出勤ラッシュは終わっているころですが。なんせ起きたの九時半で。
問題はこういうときのスタイルである。さすがによその病院にちゃんとした用事でいくので、ジーンズにTシャツの上にアノラック引っ掛ける、というわけには行かない。妥協できるぎりぎりのところとして、チノパンツとカラーシャツにネクタイ、ジャケットにハーフコートである。ここで困るのが「帽子」なのだ。ちょっとダレているとはいえ、ネクタイを締めるような格好にあう帽子というのが難しい。現に今日みたいな寒い日に、田舎でも都会でもいいから周りを見回してごらんなさい。ネクタイを締めている人間に、帽子をかぶっている人はまずいないから。
いまの日本では帽子というのは、まず若い世代のフリース帽子とか、毛糸のワッチキャップ(というんでしたかね?)みたいなのか、垢じみたジャンパーを着たおっさんの野球帽スタイルぐらいである(つまり普段の私のスタイル)。帽子というのがそこそこの正統的ファッションの範疇で使われるのはまことに稀なことなのだ。
何でお前は帽子にこだわるのだ、といわれそうだが、これが一度癖になるとやめられないのですな。ジョギングなんかが趣味の人はわかると思うが、帽子というのはじつに有用性に満ちているものだ。暑くて日差しがきついときには防暑対策になるし、紫外線を防いでもくれる。逆に寒いときには、保温対策としてあれほど役に立つものはない。そこそこの保温素材で作られた帽子なら、多分トレーナーを一枚着るのと同程度の保温作用があると体験的には思う。
「『頭寒足熱』の謎」という文章を昔書いたような気がするが、あれを書いたのは、日本人はあまり頭部の保温を考えないので、ロシアなどでは寒さにやられて、春先にはみんな頭痛もちになるという噂があるのだが本当か、というメールをいただいたことがきっかけになっている。確かに寒いところでも、保温用の帽子をかぶるというので連想するのはせいぜい「北の国から」の田中邦衛ぐらいで、ちょっと気取った男性向けファッションとしての帽子というのはまずこの国には見当たらない。でもそれは実用性とか、健康への配慮ということから考えるなら、まことに妙な態度だ。ちょっと血圧が高いとかコレステロールがどうしたという前に、いつも帽子をかぶるようにするというだけで平均寿命は2年近く伸びると思うのだが。少なくとも「脳ドック」をうけるよりましだとおもう。
アメリカでもこれは同様の傾向があり、というか、アメリカがこの無帽の風習を切り開いたらしい。その際、責を着せられるのが、J・F・ケネディなのだそうだ。彼は大統領任命式の際、それまでの伝統であったシルクハットをかぶらず、無帽のほうがかっこいい、という見方を広めた張本人だと非難されるそうだ。しかしそれは事実ではなく、JFKは任命式のとき、それまでの大統領と同じようにシルクハットをちゃんとかぶっている。大統領になってからかぶらなくなったのは事実のようだが、それはその当時のファッションの流れに従っただけのようだ。
ケネディのせいにすることは出来ないにせよ、60年代のはじめには、セミフォーマルな場面で男が帽子をあまりかぶらなくなるという傾向が始まっていたというのは間違いないらしい。その少し前のマーロウもの(だったと思うけど)なんかで、発見された死体の周りに帽子がないことをもって、被害者は自分からすすんで外出したのではないな、なんて推理がされていたのを思うと、その変遷の理由は今ひとつわからない。面倒だ、というのはわかるのですが。
どこかで書いたように、私は頭のサイズに関してきわめて不利なハンディを持っていて、普段かぶる野球帽系にはいつも絶大なる関心を抱き、間違って大きめにつくられた製品を買い込む努力を常にしているのだが、ネクタイをしめるような格好にあう帽子までは、それほど収集していないのであった。シャーロック・ホームズがかぶっているようなのでは、芸能人でもない限りキョービ保健所通報の危険があるし、ソフト帽というのも、アランドロンなら似合うだろうが、という感じ。鳥打帽というのは「ハゲ隠し」という過去の負債が重すぎる。ちょっと崩れたレインハットみたいなのが、どんな格好にもあわせられていいのでは、と思うんですがねぇ。
もしアパレル業界のかたがここを見ておられたら、ぜひ男のための帽子の復権というのを、ぜひこの冬にでもやっていただけないだろうか、と願ってやまぬ今日この頃なのであった。今日は仕方ないので、結局昔買ったけどきつすぎたので使っていなかったレインハットを見つけ、それをかぶっていくことに。向こうについて帽子を脱いだら額に孫悟空みたいな印がついていて、なんじゃこいつはと、しげしげ眺められることになりましたけど。でも、レインコートとレインハットがあれば、今日みたいなせこい雨雪程度では傘なんか持たないでいいので、これほど男性に自由を与えてくれる道具はないのですよ、ホント。
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2002/12/08 |
「テレビの黄金時代」(小林信彦:文藝春秋)
最近のTVを見ているとイライラする。タレントが集まって仲間内の自慢話をするか、やはりタレントがあつまってどうでもいいような情報をフムフムと聞くような番組ばかりが目に付く。とくに健康情報について、後者のパターンは民放・NHKを問わず放映されていて、たとえばドロドロ血液は身体に悪いという内容なら、まずタレントの検診をやってひと騒ぎ。どこやらに改善する昔ながらの方法があると絶叫しながらレポ―トする馬鹿アナウンサーが無意味に時間を引っ張り、「さてその方法とは?」でCMが入って、つぎは素人か安手のタレントがその方法にチャレンジした、という記録VTRになって、「驚きのその結果とは?」でCM入れて、スタジオに被験者をいれて皆で大仰に騒いでエンディングである。
こんなもの、血液循環を改善するにはこういう方法が効果的だそうです、と紹介すれば5分で終わる。それを1時間近い番組に薄めるのは、企画が出来ないスタッフ自身と芸無しタレントを救済するための一種の公共事業みたいなものなのだろう。なにより、みのもんたがむしろ新鮮に感じられるほど、どこの局でも同工異曲の番組を作りつづけ、発想の貧困さにあえて居直ろうとしているとしかみえないのが不思議である。作り手は虚しくないのだろうか。私がああいう仕事をしていたら、世の無常をはかなんでお遍路さんにでもなってしまうぞ。
昔はこうではなかったな、なんていうとそれはお前がジジイだからだといわれそうだが、見ている側にも作り手の熱気が感じられる時代は確かにあったのだ。この本の著者、小林信彦によれば、60年代初めから70年代初めの約10年間がその黄金時代だったという。ちょうどその時代、TVぐらいしか娯楽のない田舎で貧乏育ちしていた私にも、それは実感できる。(ここでTVとかTV番組というのは、すべていわゆる「バラエティ番組」のことをいっているが、報道やドラマを含めても、同じようなものだと言えるのではないか)
かの「オヨヨ大統領」シリーズでしられる小林信彦は、当時一部のTV番組の作り手側に入ったり、時には出演者になったりしながら、それに没入することなく常に半身で、もっぱら観察者としてTVに関わってきたという。この本は回想録ではないのだそうで、あくまでTVにかかわる人々が、ものを作り出す熱気にあふれていた時代のクロニクルを目指しているらしいが、やはり業界内幕話として私なんかは読むしかない。
この本はほとんど「光子の窓」のディレクターであり、「シャボン玉ホリデー」などのバラエティ番組のプロデューサー格であった、井原高忠という人に捧げられているといってもよく、それらの番組の放送作家であり、出演者でもあった前田武彦や青島幸男たちとのかかわりを通じて、井原の仕事、それも「シャボン玉ホリデー」を中心に、そこにクレージー・キャッツなどのタレントを供給していた渡辺プロ周辺の動きなども交えて描かれている。60年後半からは、小林自身が井原の別番組「九ちゃん!」(もちろんこれはマラソン選手ではなく、飛行機事故で死んだ歌手、坂本九の番組である)の作家の一人としてかなり中心的に動きはじめ、ドリフターズやコント55号という新しい才能がでてくるのを目撃しつつ、TVからは離れていく。
小林信彦が何を根拠にして、TVの黄金時代がおわったというのか、読んでいてもいまひとつはっきりしない。しかしTVを見るときに感じていたワクワク感が、そのころ急に消えうせてしまったのを、一視聴者である私も実感する。肥大化しすぎた渡辺プロの独占化が、渡辺プロ自身の凋落をまねいたこととか、ちょうどそのころオイルショックが勃発し、放送時間枠が削られたことなども挙げられているが、要はこのころTV放送20周年をむかえて、TVというメディアで試みられそうなことはほぼやり尽くされてしまった、ということがその実体らしい。
私は、TVが面白くなくなったのは自分が大人になったからだと思っていたが、TV自身がこのころ成人に達していたのだった。少数の映画、演劇、音楽、出版からのわけありはぐれ組少々と、大多数の素人によって作られていたTVが成熟し、老成してしまったということなのだろう。小林も挙げているが、72年の浅間山荘事件は決定的だったとおもう。10日にわたる攻防戦、といっても遠景から雪にかすんだ建物が見え、時折銃声が聞こえるだけ、という「実況中継」なのだが、これにおそらくほとんどの人が見入ったのである。それはバラエティ番組も、ドラマも真似の出来ない「現実」であった。ある現実をそのまま映し出すことが、どんな作為よりも力があることを、TV自体が暴露してしまったのである。
小林信彦はTVの黄金時代が終わり、TVの魅力がなくなって誰もTVを見向きしなくなったといっているのではなく、むしろ反対なのだ。TVというメディアは黄金時代にこそうまく飼いならされ、視聴者がそれに支配されることから逃れられていた、と彼はいう。黄金時代の後の荒廃こそが、TVによって人々の精神や文化が食い尽くされ、破壊される危機をもたらしたというのだが、それはどんなものだろう。私にはいまのTVに徹底的にスポイルされるほど、人々が愚かだとは思わないし、なによりいまのTVにそんなパワーがあるとも思えない。
おそらく危機はそんな支配−被支配などという形ではなく、「共倒れ」という形で、しかもすでに来てしまっているのだ。初めに挙げたような、どんなパワーも感じられないその場しのぎのクソ番組の数々を、タダのものに文句を言っても仕方ない、と多くの人が物分かりよく受け流していること自体が、すでにこの国の文明というものが終焉を迎えてしまっていることの現われだろう。そこには作り手の才能の発露や熱意もなければ、人々の期待もないのである。
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2002/12/07 |
忘年会オフをやってほしいというかなり一部の要請にこたえ、12月21日(土)午後6時から、いままでとおなじ西荻窪のビストロ”さて”にてとりおこなうことに決定しました。参加希望者はメールか、掲示板のほうで参加表明お願いします。参加費は一応5千円ということにさせていただきます。当日になってそれ以上になることはないと、保証いたします。フランス料理系の食事会ということで、バカ飲みしたい方も自己責任で参加していただいて可、というスタイル。連休なので、ひさびさに大酒のみに付き合ってもいいかな、という気分。
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2002/12/06 |
最近アクセスが減るばかりで、けったくそが悪くて見てもいなかったアクセス解析を久しぶりにみれば、見慣れぬところから結構まとまったアクセスがあるのに気づく。
おそらく文科系研究者か、学問業界内存在と思われる人がここのサイトを取り上げて、えらく精緻で濃い考察というか、ある種の決意性表明までしておられ、こんなに鋭い日記を書く方もいるのだな、とちょっと脱帽である。ただ、ちょっと学問と言うものと、システムとしての医療の関係を誤解しておられるのではないか、という記述が目立つのも事実である。それと、こういったら実も蓋もないが、分裂病というものをやはり「ロマン」で見ておられる面がある。
しかしその指摘内容はあまりにも高度なので、私にはとてもまとめられない。といって、部分的に引用するだけでは揚げ足取りといわれてしまうかもしれない。最低限私にも理解できて、自分の立場を明確化しておいたほうがいいと思われるところだけを取り上げておきたい。
たとえばここ。「このひと、日本の医学業界の大勢にむかい斜に構えてみせるのはいいんだがしょせん業界の人としてとどまるほかないんだろうな」
なにしろ、業界人としてそつなく控えめに暮らしていく、というのを究極の目的にしている私なのである。何のためにもならない学問的目標とか、マイナーな栄達を得るために頑張るということがめんどくさいだけで、「大勢にむかい斜に構え」た覚えはないのだ。いつもそういっている筈なので、それを「しょせん」といわれると、あれあれと思うしかない。
続いて「とりわけ気になるのが『ラカンなんか全然分からん』とか『難解ぶる著作には付いて行けない』とかの自虐的とも取れる発言で、本人の意図が奈辺にあるやら判然としないが、こうした発言は少しも挑発的ではないし、面白可笑しくもない」とのご指摘。私はべつに挑発的ギャグをかまそうと思ったわけでなく、日常的診療にはラカンもフロイト理論もいらず、現に読んでもわからないという事実を言ったまで。
本心を言えば、まるで須弥山のかなたに鎮座する有難い仏様のようにラカンなどを持ち上げ、私の理解からしても見当はずれな引用をしたりする一部の学者様にイヤミをいいたい気分はあるのだが、残念なことに、そういう連中の自閉思考に正面から切り込むレトリックなど持ち合わせていない。啓して遠ざかるより道はない。
ただフロイトに関しては、患者に対する共感力と、問題点を引き出す直観力には感服している。転移だの逆転移だのといってしまうとバカみたいなのだが、二者関係が揺れ動きつつ互いに共有されるものが生まれ出てくる過程を、さらに外から覚めた目で見続けていたフロイトの息遣いは、今その著書を読んでも感じることが出来るものだ。フロイトを読む意味は、おそらくそこにしかない。
ラカンついては一度書き始めたことがあるが、フロイトのような直観力の鋭さはまるきり感じす、結局古典的精神病理学をモダンに(ポストモダンなのかよう知らんけど)言い換えようとしただけ、としか感じない。ほっといてもいい人だと思うのですけどね。顔が横山ホットブラザースの亡くなった東六さんに似ているという興味深い点もあるので、引退でもしたら続きを読んでみてもいい。あの幻惑文体の目的は、絶対にどこかで「おじゃましました」で落とそうとしているからに違いないと思うからだ。
次にこれ、「なるほど、薬物治療により患者の容体に一定の安定は得られるだろうし、それはむろん大事なことだが、その結果、精神病理の意味それ自体は正面から問われることなく目前の患者と一緒にたちまち忘れ去られてしまう。とりあえず治せばいいんだ、という姿勢では、症例にたいする原理的な理解が深まらないのである。こちとら忙しいんだ!と言われても困る」。これはまことに真摯な呼びかけなのだが、私に言わせればもっとも紋切り型勘違いの代表なのだ。私自身何度同じことを先輩医師たちに向かっていい、歳食ってからは逆に言われたかわからないほど。(注意しておくと、これは分裂病治療の話である)
ほとんどの人は病的混沌に何らかの意味を見出せると思うらしい(現に私がそうだった)。しかし、病者の存在を脅かし、自己解体への恐怖のあまり、それと同一化することで逃避を図ろうとすることさえある未知の病的プロセスの跳梁自体には、おそらく何の意味もないのである(物質的実体はあるかもしれないけれど)。意味があるのは、おびえながらも何とかしてそれから逃れようとする病者の戦いである。勝ち目のうすい彼らに後方支援をするのが我々の仕事で、今のところ病的プロセスのほうを攻める道具がないものだから、薬物という盾を用意したり、孤立をすこしは和らげる様々な掩体を提供するのが我々のメインの仕事である。放っておけばほとんどの人が手ひどい負けを喫するのはわかっていることで、彼らが力及ばずして敗退するさまを、いまさら何ぼ観察していても仕方ないのである。
繰り返しになるかもしれないが、言語(批評子のいわれるような『人格』とか理性をふくんでもいいかも)は混沌には届かない。語りえぬものについては沈黙するしかない、なんて言うとまた話がおかしくなるが、この点では絶対的真理である。「経験」という奴は既得権に居座る言い訳に使われる場合がほとんどなのだが、少なくとも精神科医としての経験で自信を持てるのは、この一点をおいてほかはない。大概のことはゆずってしまう無原則な私だが、この点だけは譲れないのである。
それと細かなことを言えば、理論というものはなるほど大事なのだが、それは自分の便利のためにあるので、自分が患者を理解できて、彼らの戦いを少しでも有利に持ち込む助けをする役に立てばそれでいいわけだ。フロイトの資質をもってしても、今に残る意味が対象にむかう姿勢だけであることを思えば、つたない言葉遊びにおわる理論志向に何の意味があるだろう。絶望的な戦いのなかであえぐ病者たちに、有効な援護射撃ができたと実感できれば、業界人としてこれに勝る満足はないのである。ただしそれは絶えざるフィードバックによって理論化されていくようなものでなく、ベイトソンのいうキャリブレーション*みたいな過程を踏むしかないものだとおもう。
だらだら書いてきて、案の定脈絡が失われてきているのでここらで終了。いずれにせよ、ちゃんと批評してもらえるというのはうれしいものだ、というのが正直な感想である。でも、「病院広報の埋め草のレベルで終わってしまう」って言われても、もともとそれで始まったのだから仕方ないんですけど。
*G・ベイトソンはしょっちゅうそのダブル・バインド理論なるもので持ち上げられるのだが、あんなもの、言ってることと態度がちがうなんて、大概のコミュニケーションで見られることを大層に持ち上げるスカ理論としか思えんのですがね。彼は人が経験を自己に取り入れる二つのやり方(フィードバックとキャリブレーション)の対比によって評価されるべきだと思うのに、誰もそれを言わないのが不思議。
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2002/12/05 |
今夜も言語ネタ。
キョービの中年後期男にありがちなように、私は映画「カサブランカ」が大好きである。これと「第三の男」、おまけとしてゴダールの「勝手にしやがれ」あたりへの思い入れ複合が、この世代の男が感じる「粋」とか「ダンディズム」、さらにはちょっと恥ずかしいながら、友情とか異性観をもかたちづくっているのではないか、と私は思っているのだが違うだろうか。
なんであれ「カサブランカ」である。TVでもよくやられるし、古典作品なのでビデオやDVDも廉価版で買える。何べん見たかわからないほど繰り返して見ているのだが、DVDで見るようになって、ちょっと引っかかっているセリフがあるのだ。繰り返して見ているといっても、私の集中力はかなり散漫なので、ビデオ版やTV放映のときもそうだったのかどうか覚えがない。それは主人公の酒場経営者リックの履歴をルノー署長が調べてあてこする場面で、ルノーが「君は1935年にはエチオピアに武器を密輸し、36年にはスペイン内戦に王党派として参加している」というところだ。
この映画はラブロマンスとはいえ、反ナチスの戦時戦意高揚映画でもあったので、反侵略戦争反ファシズムの姿勢は一貫していて(もちろん米国に都合のいい範囲で)、ちょっとシニカルな態度を取っているリックも、「自由と民主主義のために戦う闘士」であるのが前提である。35年の武器密輸というのはリックが単なる密輸屋であったといっているのではなく、イタリアに侵略されていたエチオピアのレジスタンス支援をしていたということだ。それがスペインでは「王党派」というのがわからない。
ご存知のように、30年代のスペイン内戦というのは、ほとんどフロックで成立した左翼人民戦線政府に対して、フランコ将軍をリーダーとする軍部がクーデターを起こしたもので、クーデター派を構成するのは当然アンシャンレジュームを目論む旧勢力である。「王党派」はその名のとおり、国王を中心にすえた体制を理想にしている連中だろうから、リックはスペインでは突然反動派に鞍替えしたことになってしまう。もしかしたら、スペインでは国王派が改革勢力だったという経緯があるのか、あるいは一種の皮肉として、人民戦線側のことを「王党派」とよぶ慣習があるのだろうか、などと合理化しようとしていたのだ。
ウェブで調べてみると、映画のセリフで英語を勉強しようという趣旨のここでは、"the Royalist's side"というセリフを引き、「王党派側」と訳し、そのまま「スペイン内乱時の反フランコ派」と書いている。自作小説を公開しているここでは混乱はさらに極まっている(もちろん作者にその自覚はない)。その小説の主人公たちは、スペイン内戦が背景になった学園演劇をしていて、それは共和派と王党派として反目する二家族の息子と娘が恋に落ちるという、ロミオとジュリエットの焼き直しなのだが、これが実に妙。「戦局は、共和派がヒトラーの援軍を要請したことから、一気に転換期を迎える」などと書いてある。この作者は完全に「王党派=反フランコ、共和派=ファシスト」というつもりで書いているらしい。小説そのものへの意見は控えるものの、共和派がナチスと組むというのはいかにもおかしい。
ここはもう一度スペイン内戦についておさらいするべきだと、解説サイトを探してみるがなかなか適当なものがない。ならば海外サイトを、と一つ二つあたってみたら思わぬ発見をした。ここの文章のすでに一行目にそれはでてくる。"Then war was fought between Nationalists and Loyalists ."内戦は国家主義者(Nationalists)と(共和制)忠誠者(Loyalists)との間で戦われた、という一文である。どうも反フランコ共和派をLoyalistsと呼ぶのが、慣例として定着しているらしい(例えばこれなど参照)。リックを「王党派」であったというのは、早い話がLoyalistとRoyalistを混同しただけのことなのだ。(私の使っている辞書ソフトであるBabylonも、Loyalistを王党員と訳してくれるので、この誤りはかなりあちこちに拡がっているのかもしれない)
何の事はない、日本人が苦手なLとRの区別の問題なのであった。さきの「映画で英語」サイトの管理人さんなどは、英語にはかなり堪能なかたであろうと想像されるが、それでも間違うほどの困難さがあるということらしい。もしかして、脚本の段階から間違っているってことはないかと確認してみたが、元セリフはちゃんと"Loyalist"となっていた。このページをひらいて、"Loyalist"で検索してみれば一目瞭然である。字幕作成者が脚本をいい加減に読み流したか、耳だけで聞いてそう訳したかして、一部にリック=王党派という誤解がつたわり、反ナチのリックが王党派なら、それは反フランコ側なのだろうという、かなり無理のある類推がそれに続いたということのようだ。もうちょっと複雑な事情があるかと思ったが、なんだか腰砕けというしかない。
教訓:日本人はRとLの区別がつかないという人種的欠陥があるので、恥をかかないためには、せめて一般常識を磨くようにしよう。
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2002/12/04 |
言語ネタ関連。
昨日のトヨタカップを見ていた人で、「レアル・マドリッド」の「レアル」とは何の意味なのか知っている人はどのくらいいるだろうか。英語のrealと同じ意味にとって、「真実のマドリッド」だと思っている人が身近に何人かいたが、サッカーに詳しい人なら常識であるように、あれは英語なら"Royal"という意味なのだ。王様のチームというわけ。はじめは単純にマドリッド・フットボールクラブだったらしいが、1920年だかに、当時の王様から直々その名を戴いたそうな。サッカーの熱心なファンでもない私が、この意味を知っているのには、ちょっとした経緯がある。
さっき泥縄で調べたことをひけらかすと、レアルの語源はラテン語の"regere"(支配する)で、英語ではそれがroyalになって、スペイン語ではrealになったらしい。英語のrealもたぶん同語源だろうが、なんで真実という意味を獲得したのかは知らない。ただ一つの原則に支配されることが真実ということかな?スペイン語でも英語と同じ意味で使われることはあるが、ふつうはレアルというと王室関係の意味が優勢で、外国語といえば英語のことだと思っている日本人にはややこしい。
何年か前にマドリッドにいった時のこと。真夜中に空港に付き、レンタカーを借りてホテルに向かおうとしていた。長時間のフライトから解放された安堵感で、ほとんど頭が空っぽのままである。そして、市内に向かう道路を走りだして気がついた。マドリッドなんて初めてだし、スペイン語も出来ない。それなのにホテルの名前と、ガイドブックでそれが王宮の隣あたりにある、ということしか知らないのだ。レンタカー事務所で地図はもらったのだが、やたらに詳しすぎて、どこにどうつながっているのかがわからない。
地元の人に聞けば王宮ぐらいは知っているだろう、いくらスペイン人とはいっても、カタコト英語ぐらいは話すだろう、と思っていたのだがこれが大間違い。そもそも、夜中の0時ごろだったので、空港のあるような周辺部には、人っ子一人いないのである。街の中心部は西のほうだ、というのだけはわかっていたので、海外旅行の時にはかならず持っていく磁石(本当なんです)で確かめ、とにかく西に向かう。
道端にコンビニのような店があったので、そこで車をとめて聞くことにする。店にいたのはいかにもラテン系のデブオヤジで、この人がまた全然英語が通じない。ホテルの名前と地名をかいた紙を見せても、知らんなあといってる様子。仕方ないので、王宮にはどう行くのだと聞くことにする。パレスぐらいは通じるだろうと思ったが、きょとんとした顔をされるばかり。「キング、クイーン、スリーピング ゼア」などとジェスチャー混じりで言ってみたり、パラチオとかパラシオなどと、スペイン語っぽくなりそうな言い方をすると、向こうの返事の中に、「レアル」というのが聞き取れる。
不動産屋にでもいって聞け、といっているのかと思ったが、それにしては態度が親切げ。困惑して立ち尽くしていたこのとき、「レアル・マドリッド」というサッカーチーム名が、まるで啓示のように私の頭に浮かんだのである。もちろんその時、チーム名の意味など知らなかったが、その状況からレアル≒ロイヤル≒王宮という連関がたちどころに出来上がったのである。それはまさしく、意味の発見という喜びに満ちた体験であった。
私はオヤジの腕をとって小躍りし、レアル、レアルと連呼したあと、地図を書いてもらい、そのあと多少の困難はあったものの、約30分後には何とか王宮を発見し、その隣のホテルに行き着くことが出来た。真夜中に道もわからずウロウロして、追いはぎにもあわず、親切な人にめぐり合うというのはラッキーそのものであったが、それ以上に、「レアル」の意味を体感できたときのうれしさは、つい昨日のことのように思い出すのである。
レアル・マドリッドよありがとう。その名のおかげで、見知らぬ土地で野宿しないですんだ日本人がここにいるのだ。金の力で有力選手を独占するそのやりかたは、どこやらの野球チームを連想させるのがいけないが、いつまでも忠実なサポーターでいることを約束するからね。
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2002/12/03 |
昨日の記載で、でたらめ書くんじゃないよ、といわれてもなんなので、補則しておく。そもそも、"bi"という接頭語には、「ふたつの」という意味合いがあるわけだが、それは日本語などでははじめから不得意な、序数と個数の区別以前のかなりプリミティブな数感覚にもとづく「ふたつの」であるようなのだ。
例えばbiannualの場合は二年に一度なのか、一年に二度なのかはもともと全然区別がついていなかったらしい。そこに"semi-"という、本来は「そこでたまたま二回」という表現が混入し、"bi"+期間表現言語というのが、ある期間に二度というのと、その期間を二回ごとに、という意味に別れていき、場合によっては片方だけが固定したという経緯があるようなのだ。Biennialなんて、絶対ほかのヨーロッパ語彙から借用して意味を分離したのだと思われる。
実際、辞書によっては biweeklyにも、半週ごとという意味と、二週に一度という意味両方が書いてある。 bimonthlyの場合など、「かなりまれに、月二回という意味もある」と書いてあったりする。実際は昨日の投稿にあるような意味として、一般的用法は固定しかけているらしいが、そうでない使い方も間違いではないわけ。
例えば商売上の契約で、週に二回と二週に一度の区別があまりつかない、というのはトラブル続出の原因になるように思い、何であの国にあんなに弁護士が満ち溢れているのかという理由の一つがわかったような気もする。英語教師の方に昨日の問題をそのまま出題するように勧めたのは、ちょっとまずかったようなので、取り消し。
勿論、以上は素人が適当に上っ面だけを調べて、いいかげんに考えたことなので、まるっきり間違ってる可能性は大。
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2002/12/02 |
こちらの掲示板にあった投稿。
次の単語の意味を述べよ。
semiweekly biweekly
semimonthly bimonthly
semiannual biannual
答え
(半週ごと) (二週に一度)
(半月ごと) (二月に一度)
(半年ごと) (年二回)
あんたは絶対、3行目の後のほうの意味を間違うはずだ、というもの。
二年に一度という意味なら、Biennialになるそうな。学校で英語の先生などしておられる方が読んでおられたら、嫌味な試験問題にでも使ってください。この投稿に対しては、より細かな用語上の反論がされていたけれど、英語をつかう人間同士の話が私にわかるはずもなく、そこまでは付き合いきれませなんだ。
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2002/12/01 |
なんだかんだと言いつつ、もう12月である。馬齢を重ねる、という言葉があるが、あれほど私なんかの中年後期群の日常をうまく言い表している表現はないような気がする。あまり的確すぎて、馬に失礼ですらある。
身体はあちこちガタがきはじめ、乏しい知力はさらに衰えるばかり。コンピュータに責任転嫁できるからまだいいものの、漢字がまるきり書けなくなってきて、本当に参っている。外来の診察の時などは、電子カルテシステムになっているわけでもないのに、目の前にノートパソコンを開いて、グーグルで忘れた薬の名前を検索していたのだが、最近はもっぱら忘れた漢字の表示用である。この前、土屋賢二氏の本を読んでいたら、「ぬ」というひらかなの書き方を忘れた話が書かれていて、土屋氏の意図したギャグとしてではなく、同じような自分の体験を思い出して身の毛がよだった。
痴呆性疾患の発病因子についてはいろいろ語られる。身体的な指標については、酒とかタバコ(もっともこれにはボケ予防になるという意見もある)、栄養障害などという、一般的健康に関するものと同じようなものである。それ以外の、病前性格やら生活パターンについては、感情を内閉化して外に出さない傾向があるとか、感情をおもむくままに表現する人が多いとか、行動が活発で積極的だとか、何に対しても及び腰で、消極的だとか言われる。要は全然意見の一致はない。痴呆初期には、もともとの性格傾向が先鋭化して現われるようになるので、病像を彩る元来の性格がなんとなく発病要因の一つのように誤解されてしまうのだろう。
したがって、痴呆疾患の病前性格や生活スタイルに特徴的なものはない、というのが私の意見。当然、「ボケ予防」に有効な対策もないと思っている。ツッコミの人であろうが、天才的頭脳の持ち主であろうが、知的障害がはじめからあろうが、ボケる人は呆け、ボケない人は呆けない。
ただですね、こんなことを私の立場でいうと怒られるかもしれないが、私はいろいろな痴呆性疾患の持ち主に、共通している一点があるように思われるのだ。それは何だというと、徹底的なまでに今現在の「我」へこだわることである。そうだったからボケたのか、ボケたからそうなったのかは別として。(もっとも私らは、家族や介護者を困らせるという事例性がないところでは痴呆疾患をみないわけで、こう思うのは、現代医療システムという、バイアスのかかった視点でしかないのかもしれないけれど)
彼らの圧倒的な「我」の奔出を見ていると、あれで正常な知力が維持されていたらもっと悲惨だろう、と思わざるをえない。死ぬときにも前のめりになって死にたい、というのは誰やら有名な人の言葉らしいが、それは死という運命を対象化できているからこそなので、その覚悟が難しいところでじたばたするというのは、知力があろうがかなり困った事態を引き起こすのではないか。痴呆疾患にみられる行動異常のほとんどは、そういう機序として理解できるとおもう。少なくとも、その葛藤を持続する意識の上で体験する苦痛からは免れている(らしい)ところが、痴呆性疾患のある意味での福音であろう。
ほとんどの痴呆疾患の持ち主は、長い人生から見ればそう長期ともいえぬ時間を経ればその行動は落ち着き、穏やかな晩年をむかえるようになるものだ。介護に疲れた家族たちも、この時期にはおおらかに見守りと看取りをする余裕を取り戻す。医療が提供すべきものは、予防や治癒へのはかない幻想などではなく、適切な環境とマンパワーの配備によって、本人が穏やかな最期を迎えるにいたる道筋を用意することと、永遠にいたるつながりを家族が取り戻すことの手伝いであろう。
なんかえらく悟ったような結論になってしまったが、元の意図は、このまま覚悟のない人生をダラダラ過ごしていたら、ボケることは間違いないだろうという、私自身の危機感であったのだ。