更新日記
こちらも時々書いてます。
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2003/01/31 |
/.jpからの情報。ニュージーランドの呼吸器専門医が、最新の"European Respiratory Journal"に、PC作業によって誘発された深部静脈血栓症の、世界初の症例報告をおこなったたとの報道。あちこちの報道サイトがいっせいに取り上げているので、直接研究者本人から取材している可能性が高いNZの新聞サイトの記事にリンクしておく。以下抄訳。
(ドミニョン・ポスト 1月30日)PCユーザーに死の危険が
e-血栓症と呼ばれる疾患に注目が集まっている。ウェリントン大学医学部教授であるリチャード・ビアズレイ氏によれば、この患者は32歳の男性で、まずはじめにふくらはぎ部分の腫れと痛みが10日ほど続き、次第に呼吸困難が進行し、その後意識消失をおこして入院したという。
原因は下肢静脈に出来た血栓が飛んで肺動脈につまったというもの。死亡率が高いことでしられる深部静脈血栓症であった。これは長時間のフライトの際に乗客に起こる、「エコノミークラス症候群」と同じものである。
ビアズレイ教授によれば、この患者はPCによる在宅勤務をしており、毎日12時間から長いときには18時間をPCの前で過ごしていた。なお、この男性は現在完全に回復している。教授は、この症例報告発表によってこの状態に注意が向けられ、発症予防が図られることを希望すると述べている。PCユーザーは時々立ち上がり、あたりを歩き回るようにと。
以上。「e-血栓症」"e-thrombosis"というのは誰が言ったのかははっきりしない。"i-thrombosis"と呼んでもよさそうで、ちょっと迷うところですな。地元の新聞が取り上げているのだから、ガセだとは思わないのだが、"European Respiratory Journal"のサイトで今年早々に出た最新号の目次を読んでも、そんな症例報告は出ていないというのが、ちょっと気になるところ。
あちこちの報道サイト記事を読み比べると、どうも段々尾ひれがついて行く傾向があるようで、上の記事では「まあ滅多にあることではないと思うけど、注意はしておこうね」というニュアンスだったのが、ほかのところではPCおたくはみなこの疾患の予備軍、てな書き方になっていたりする。この教授についても、エコノミークラス症候群の専門家だと描いてあったり。Richard Beasley 教授がウェリントン大学の呼吸器疾患研究グループのトップであるのは事実だが、もっぱら喘息が専門みたいなんだけれど。
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2003/01/30 |
某ニュースサイトからたどり着いた雑誌記事。米国の科学雑誌"Popular Mechanics"(「みんなの技術」とでも訳しますか)の昨年12月号の特集である。「イエスの本当の顔」と題したその記事は、我々がいつのまにか信じ込んでいる、細身で長い金髪の白人というイエス・キリストのイメージを覆すものだ。
自然人類学から分岐した、法人類学という新しい分野で、英国とイスラエルの研究者が協同して発表したこの研究は、次のような推論過程を踏んでいる。まず、新約聖書にはイエスの風貌についての記載が一切ない。唯一、多少でも触れているのは、マタイ伝のなかで、ゲッセマネの園でイエスがピラトの兵に逮捕される場面だけといっていい。この時イエス逮捕に向かった兵士たちは、肝腎の容疑者本人の顔を知らなかったため、イスカリオテのユダが、こいつがイエスだぞと、わざわざ指し示しさなければならなかったと書かれているのである。つまり、イエスの顔貌は、当時のユダヤ人のなかではかなり平均的なものだったということになる。
そこで研究者は考古学資料から、当時のユダヤ人の遺骨を収集し、サイズを平均化した頭蓋骨モデルをもとに、犯罪捜査で使われる復顔術の技術でその顔貌を再現した。髪の毛とか目の色に関してはこれではわからないのだが、こちらは中世からルネッサンス絵画の伝統どおりの、黒めの髪の毛とひげ、そして黒い目をセットにして取り入れた。髪の毛の長さに関しては、使徒の聖パウロが「男はさっぱり短髪にしていないとカッコわるいぞ」というような言葉を残しているらしく、まさか尊師にいやみをいったのではないだろうと、短髪だったという解釈を取り入れた。
そして完成したイエスの顔はこれ。身長は約1m55cm、体重50kgたらず、というところだったらしい。60年代の米国黒人解放闘争で、イエスは黒人だったというような主張があったことなどを思い起こさせてくれて、なかなか興味を喚起してくれる画像である。ちょっと前に秋葉原で会った、割れ物売りつけようとして来たイラン系の人にそっくりというのが個人的感想。
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2003/01/29 |
知人がたまにはこんなのも読んだらと、漫画「ブラックジャックによろしく」(佐藤秀峰:講談社)の1〜3巻を貸してくれる。医療業界的リアリティへの意見も聞きたいというのだ。この漫画はたしか週刊漫画誌のコミックモーニングに連載されているのは知っていたのだが、私はこういうクドイ絵が苦手なので読んでいなかった。老眼進行が激しい世代には、この手はちょっときついのである。モーニングで何とか読めるのは、四コマ漫画以外は「ギャンブルレーサー」だけ。絵がシンプルだし、主人公に対してわがことのように思い入れが出来るし。
ともあれ、せっかく貸してもらったのだから、絵がクドイなどというような低次元の文句は引っ込めて読んでみる。永禄大学という、多分慶応をモデルにしたのだろうと思える大学医学部を卒業したばかりの、えらく激情あふれる研修医の苦闘を描いた漫画である。医学研修のありかたとか、大学での医学臨床のあり方自体に未熟な研修医が感じる疑問と、システムとの軋轢というか、一方的負け試合のなかで成長する主人公を描いた意欲作、というところなのだろうか。
残念なことに私は、こんな風にあるシステムに対してすれ違いの戦いを演じつつも、そこにこだわるというような生き方が全く理解できず、さっさとやめて納得のいく研修先をなんで見つけようとしないのか全く訳がわからない。二千万という多額の奨学金をもらっているので、出身大学での研修しかできないという設定になっているのだが、防衛医大や自治医大ではあるまいし、そんな制度を採っているところがあるのだろうか。ちょっと信じがたい。銀行に相談したらおしまいでは。実家にはけっこう土地があったじゃないか。取りはぐれはまずないのだから、いくら不景気でも銀行は形式的にでも担保にしてくれると思うけどね。
とにかくやたらにせこいヒューマニズムに燃えるくせに、その妙な大学のルールだけは越えられない主人公をみているのがやたらにいらつく。「ここを飛び出れば、民間病院のはぐれ医者にしかなれない」と同僚にいわれてびびってんじゃないよ、とそれこそずっと「はぐれ医者」をやってきた私は思ってしまい、どんな立場でもそれなりのことができない奴は、大学医局のヒエラルキーに従う生活しようと、どうせまともなことなんか出来はしないよと毒づきたくなってしまうのだ。*
そういう構造は入れ子になっていて、主人公は大学医療のありかたに疑問を感じながら、医療幻想ということには全く無頓着なのだ。例えば一巻の中ごろ以降に登場する冠動脈閉塞患者のエピソード。大学の心臓外科では手術件数が多くないことを知り、なおかつ非代償期肝硬変まで合併していることを知った主人公は、アメリカ帰りだがアカデミズムからは疎外されている名医に手術を依頼しに行き、大学の心臓外科医局とトラブルを起こす。
そんなもの、なんで「名医が手術すればいい」という結論になるのだ。肝硬変が進んでいれば血液凝固能も落ち、まず手術なんかできはしないし、そもそも冠動脈閉塞だって進行しにくいだろう。重症だから、名医のもとで手術すればいいというような主人公の理屈は、まさしく医者がすべてを握っているから任せればいいのだ、というパターナリズムの強化論理でしかない。
ほかにも、初めてのバイト先で、重症外傷患者を前に、とにかく外科医を呼び出そうと患者を放り出して電話をかけ続けるところなんか、これ、間違うと医療訴訟ものだなと思う。まず出来ることをやれよ。まず血液検査とか、体表の止血処置とか、呼吸管理とか、疼痛処置とか。何よりも出血部位の確認をやらないと、外科医が来たってどこ切ったらいいかわからんだろうが。何にもせずに酸素マスクだけつけさせてバタバタしてるんじゃない。
ところどころに医療へのそれなりに深い切込みがあるのかなと、思えるところはあるのだが、全体的にはむしろ医療幻想が目立ちすぎる内容といえる。思い入れが出来る登場人物は、唯一、何もしない街の開業医道場老医師ぐらいだった。その次は医局のヒエラルキーを上り詰めることで、腐った環境の変革をもくろむ第一外科の指導医というところかな。
*主人公は教授のいう、大学病院は治療ではなく、まず研究を重視するべきなのだという言葉に反発するのだが、それはアンタも教授もおかしいと思うよ。大学病院で重視すべきことはなによりまず教育であって、その次に研究、個別の医療はそれよりずっと下に位置されるのは当たり前のこと。ただし、主人公のいびつな正義感も正せないあそこの教官連中に、教育なんてことをいう資格はなさそうだけれど。
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2003/01/28 |
昨日の記事の中でちらりと触れた、昨年5月終わりに起こった事件の当事者となってしまった医師のその後について検索していたら、かなり悲劇的な結末となったことがわかり、ちょっと気分が沈みがち。その医師の名前と、出身大学でしらべたところ、ご本人は昨年11月に亡くなられたらしいのである。事件の時の怪我が原因にしてはちょっとおかしく、逝去をつげる文面のあいまいさなどから、自殺なのではないかと私は思う(あくまで想像なのでご注意を)。
都内で精神科デイケアを大々的に展開し、アニマル・セラピーを導入したり、障害者の地域文化活動を支援したりと、精神科医療の枠にとどまらぬ積極的な事業を展開していた人が、泥酔して自己破壊的行為にはしるにいたる経緯については、近しかった誰かがきちんとまとめてあげるべきではないかと思う。私も中途半端なネタ話にしてしまったことを反省し、及ばずながら協力したいものだと思う。
ただ、ひとつだけいうなら、精神科医療にデイケアや自助的活動サークルなどの、さまざまな道具立てが揃うのは有用なことではあるものの、それらはあくまで限られた補助的手段でしかないことはプロなら自覚するべきである。あのクリニックが展開していた、かなりの努力がないと維持していけないであろうさまざまな活動が、ご本人には重荷になっていたのではないかな、と私は想像するのである。
確かに、病気になった運の悪さに引き加えて、治療を受けるのに苦痛を感じるような医療機関にいく不快まで忍ばねばならぬは最悪だ。治療の場がいい雰囲気であるに越したことはないのだが、だからといって、それは問題のごく一部でしかない。癒しや助け合いで目に見える効果が現れるほど、精神科疾患は甘くないのである。延々と続けなければならない基本的治療行為の質を、どう維持していくのかという視点が必要だ。若いときなら多少の無茶も続くが、いい年になるとそうもいかない。あくまで外在者としてかかわることに徹するべきだと思う。
そんな限界なんか承知の上で、あんなのポーズであって、商売のいい風鈴になってるよと、笑って左うちわで力を抜いた診療を続けていたほうが、こういう結末になった今、彼の診ていた患者さんたちにとっても絶対にましであったのは間違いない。でもおそらくご本人は本気だったのだろう。自分の信ずる方針を突き詰めても、結果が出ない苛立ちにさいなまれていたのではないか。
あの程度の事件なら実刑食らうこともないはずだし、今の制度なら、医療行為の問題ではないのだから免許の取り消しもまずない。一〜二年どこかで静養して、田舎の病院あたりでやり直せばよかったのに、そういう切り替えができなかったらしき決着のつけ方に、まことに暗澹としたものを感じてしまうのである。
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2003/01/27 |
同業者の高名サイト、「サイコドクターあばれ旅」が長期更新停止になっているが、あんたはどう思うのかという質問メールが来る。人が作っているサイトをどうしようが人の勝手で、はたからどういうものでもない。忙しくてやってられないのかもしれないし、もっと面白いことを見つけたのかもしれない。
正直いうとネタ切れのときに私も何度か参考にしたし、「黄色の救急車」についての内容については何度かメールのやり取りをしたこともある。それで知った範囲のことだが、彼の臨床スタイルは私なんかよりも、よっぽど正統的なものであるようだ。彼が直接師事したかどうかはしらないが、かって彼が属していた医療機関の責任者だった有名研究者には何度となくお目にかかり、かなりディープな接触もした。もしかしたら向こうは「つるし上げをされた」とか「恐喝された」と感じているかもしれないが、多分それはちょっとした勘違いというものである。
彼らの世代は、そういう私らみたいな一世代前の無作法に対して、えらく拒否的かつ否定的であるのが普通である。我々の世代のように、とにかくルール違反の暴れまわりができる口実さえ見つかればよし、という態度と大違いである。しかし、たかが10年やそこらの世代違いで、急に世の中のルールに従うのが一番、なんていう風な価値転換がなされるはずもないのである。彼のサイト名をみたって、本当は暴れまわりたい内心が透けて見えているではないか。かなり無理な既成価値感への妙な従属、そして時折の無意味な暴発というのを、私はこの世代に共通のものとして感じてしまうのだが、どんなものだろう。
彼が長期にわたって更新停止しているホントの理由は知らないのだし、何であれそんなもの人の勝手だとは思うものの、彼が「人間として許されない」とか、「やれやれ」などといって批判していた、彼と同世代のアホな精神科医たちの不始末を、自分にひきつけて論ぜられるようにならないと、やはり臨床家としてはちょっとスキができてしまうような気もしないではないのだ。
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2003/01/26 |
掲示板やメールでいま全世界を駆け巡っているワーム、32.SQLExp.Wormのことを教えていただいた。メールに仕込んだりするのではなく、SQLサーバーのセキュリティホールを利用して、特定ポートに一種のDoS攻撃を連鎖させるものらしい。たった376バイトでそれだけのことをやるのだから、よく考えたものだ。
テロ目的などの効果があるとは思えず、単に人が困っているのをみて楽しむ愉快犯なんだろうけれど、どうにも理解しにくい心情である。そこまでのスキルをもつ資質があるなら、自分の主張を鍛えてどーんと世界と対峙してみんかい、といいたくなる。
職場のへなちょこSQLサーバーのことが心配になったが、たしか去年の夏ごろパッチをあてたような記憶が。ルーターまわりはプロが設定していて、かなり絞られているので、まず大丈夫だとは思うのだけれど。それにしても、パッチなんかあてずにほうっておく人は、プロでも結構いるということなんですな。
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2003/01/25 |
夕方、メールチェックをしようと思うと、このサイトのメールサーバーにつながらない。サイト閲覧すらダメの様子。ちょっと前までこういうことはしょっちゅうあり、安サーバーだから仕方がないから、しばらく様子をみるしかないと思っていた。そうしたら6時のニュースのトップが、「全世界的ネット障害」である。
なんでもMS社のSQLサーバーの欠陥をねらったワーム攻撃だというのだが、知識のない人間にはどんなことが起こっているのかよくわからない。ワームというからにはメールで送るのだろうか。それがなんでSQLサーバーなんぞを攻撃できるのだろう。自分の職場で使っているような初歩的利用様式では、とても想像つかないんだけどな。
クライアントを装って妙なデータを送り込むといっても、メールからどうやったら入り込めるのだろう。新聞系のニュースを見ても、まったく何もわからず、「ネットで変なことが起こっている」ということしか報じられていない。はじめはいよいよ米軍のイラク攻撃で、いろんなデータがあふれかえっているのかな、なんて思いましたけどね。こちらにしてみれば、いつもの安サーバーの挙動不振ですんでしまえる事態ではあるものの。
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2003/01/24 |
ある入場者限定掲示板での書き込みに関することなので、こんなところで書くのは心苦しいが、思い切りあいまい化することでカンベンしてもらおう。
ある女性の体験である。その人はある男性と不倫関係にあった。ある有名女優が死んだ直後、その男性が彼女にこういったという。街を歩いていたら白髪の老婆に声をかけられた。「姫様とあなた様は今生では会えなかったが、来世には必ずとの姫様からの伝言でありまする」と。その女優と男性は輪廻転生を繰り返しながらも、あいまみえられない運命の関係だというのだ。
不倫相手に、こんな素敵なケツまくりの言葉がはける、その男性のダンディズムが素晴らしい。おそらく相手のナイーブさとか、それを切り出すタイミングや雰囲気まできっちり計算したに違いない。ちょっと間違えれば大笑いのあと、しばき倒される恐れすらある。
こういう百戦錬磨の色事師が世の中にいるのである。アマチュアが変にそういう領域に手をだしたらひどい目にあうよ、という教訓として読むべきだろう。それにしても、その設定がどうも記憶のどこかに引っかかるので、「女優 不倫 転生」などと必死になって検索してみて思い出した。シャーリー・マックレーンの「アウト・オン・ア・リム」あたりからの脚色なんでしょうね。いやー、いいもの読ませていただきました。
(偶然ここを先の掲示板関係者が読まれることがありましたら、ひたすら許しを請うばかりであります。ID削除しないでね)
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2003/01/23 |
街角の小劇場で素人芝居の公演準備をしている、という夢をみる。
街は昭和30年代の住宅街という雰囲気で、焼杉板の塀とか、タールが塗られた木の電信柱に公演予告のポスターを貼って歩いているのである。そのポスターというのがやたらに妙で、でっかいピンク色のカットバン、つまりサビオの拡大模型みたいなものなのである。
芝居の題名は「恋するサビオ」。一緒にポスターを貼って歩いている男がどうも脚本兼演出家のようなので、一体どんな話なんだとたずねると、「実は脚本が全然出来ていない」と打ち明けられるのである。でっかいピンクのサビオをポスターにするというのを思いついただけなのだ、と。でもこんなものは勢いの問題だから、こうしてポスター貼りをやって雰囲気が盛り上がってくれば、芝居なんておのずから形になるものなんだ、とも。
あきれて、役者たちにどう説明するつもりなんだと問い詰めると、「心配するな、役者はまだ集まっていないから」と涼しい顔をしている。こいつの行き当たりばったりに付き合わされて、どうも大恥をかかされることになるのだなと観念したところで、その脚本家というのはじつは自分自身のことなんだというのに気がつき目覚める。
その場を取り繕うだけの日常に対する、それなりの危機感が表明されておるのですかな。「恋するサビオ」という題名と、でかいサビオのポスターというアイデアはけっこういいような気がするので、パクりたい人は御自由に。
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2003/01/22 |
バイト医者が医局に置いていった「サンデー毎日」に、「うつ患者急増!『2時間待ち5分診療』 『玉石混交の心療内科』…精神医療のお寒い裏事情、信頼できる医者選びのポイントはこれだ! 」という長々しい題のついた記事があった。
5分診療というのはそんなにイカンことなんだろうか。初診ならそこそこ時間はかかるだろうけれど、別に服を脱いでもらうわけでもない精神科心療内科系の診察に、そんなに時間がかかるわけがないと思うんだが。うまくいっているなら「どないでっか」「ボチボチでんな」「まあおきばりやす」で充分ではないか。この場合、処方箋書きの時間をいれても1分かからん。
状態の変化などはまず非言語的なチャンネルで十分伝わるもので、いままでの治療枠組みに修正を加えないといけない事態がおこっていれば、そこで探索モードに切り替えればいいこと。ダラダラ時間をかけて友達ごっこをしてみても、なーんの役にも立たない。診察などは3分診療が理想なのであって、患者に無用の緊張を長々と強いるような治療者こそ、その腕が問われるべきなのである。
お勧めの医師というくだりで、「最低30分は診察時間を取る」というのがあったが、そんなことしていたら、飯も食わず午前午後フルにつかって10数人しか診療できないではないか。そんなトロくさい仕事しかできないような医者には、間違ってもかかるべきではない。ちょっと考えればウソであるのが丸わかりなのに、平気で記事にする記者のバカさ加減にはあきれ果てる。
個別患者の細かな環境要因について、すべて把握しないと精神科診療が出来ないような迷信についても、ひとことふれておきたいのだが、それはまた別の機会ということで。
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2003/01/21 |
昨日の日記だが、テニスとドラマを一日で見ようとおもって録画していたので、全部見終わったらえらく深夜になってしまい、ちびちび酒なんかも飲んでいたのでほとんどグデングデンの状態で文章を書いていたらしい。どう読み返しても意味がつかめないので、ある程度意味が通るように一部書き直しておいた。
要は銀粉蝶さんをもっと大切にしてほしいな、というだけのことなのであまり気にされないよう。調べてみれば、このひとけっこうお昼のドラマなんかで、年老いてもなお女のサガから自由になれないような設定の、主人公の母親あたりの脇役なんかやってるんですねぇ。(ここの「人物相関図」から松川敏江(61)を参照のこと。なんぼなんでも61才というのはあんまりなような気が。実年齢とは乖離してないのかもしれないけど)
それにしても東海TVというのは、なんであんなにディープなお昼ドラマばかり作るのだろう。リアルで「真珠夫人」なんかを見られなかった私なんか、悔しくて仕方ないよ。ぜひ総集編をゴールデンタイムにやってほしいものだ。
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2003/01/20 |
NHKの「緋色の記憶」というドラマの一回目だか二回目をたまたま見て(といって同じ日にやってたんだけど)、なんとなく惰性で見てるのである。原作はトマス・クックというミステリィ系の人だとのことで、ようわからんながらも、記憶の中の体験の多義性みたいなところをミステリィ仕立てしている話のようなのである。ミステリィとしてはすこし邪道なように思わなくもない。
もちろん金をかけずにいい加減な企画で視聴率だけを狙っているような、バカ民放番組と比べると圧倒的に出来はよく、来週には最終回をむかえるらしき、すんなりした展開もそれなりに素晴らしいのであった。このあらすじを説明しようとするとおそらく10KBではすまないと思われ、少なくとも私はそういうレベルで付き合わなくてもいいようにしたいのである。
その筋立てなんかは関係なく、問題はキャストの「銀粉蝶」である。今のところ、なぜか昏迷状態でベット上だけにいる存在なのだが、この人がいわゆるミステリィとしての鍵を、たぶんすべてにぎっている。しかしなによりこの人は70年代初めごろの小劇団運動では高名な人なのである。自分がジジイになって、社会の片隅でくすぶっているのは時間の風化作用としてそう苦にもならないのに、昔の有名人が中途半端な扱いをうけているのはなんとなく許しがたいのである。
ドラマ展開には何の文句はないのだけれど、「銀粉蝶」にしてベットにねているだけの役しか与えられないNHKの内情がちょっと怖い様な気がする。それだけでもすごい存在感を示す、ということでキャステイングされたということならわからんでもない。ほかのキャストにそう文句があるわけではないのだから、ああいうマニア系役者の扱いには多少の注意をしてほしいものだ。といって、もちろん天下のNHKはそんなこと承知でつかっているわけで、一般視聴者が妙なオバサン女優だなとかんじる感覚ずれをスタッフが楽しむ、内輪趣味系ドラマなのかもしれないな。
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2003/01/19 |
「世の途中から隠されていること」(木下直之:晶文社)という本がアマゾンから届く。著者は日本美術史を専攻しておられ、とくに正統的歴史からこぼれおちた見世物とか、展示品、イベントみたいなものを対象にして研究している人らしい。いってみれば路上観察学(トマソンね)に連なる系譜か。
内容については別に触れることがあるかもしれないが、ここではその題名についてだけ言及したい。この題名は当然ルネ・ジラールの「世の初めから隠されていること」という本のパロディである。著者はジラールの本をはじめとする、難解書ばかり出している「叢書ウニベルシタス」(法政大学出版局)の「よき読者ではないが、そのタイトル群のよき読者で」あるという。「しばしば書店でこの叢書の前に立ち、ひたすら背表紙を眺めては茫然自失としているからだ。誰がこんな難解な本を書き、誰がそれを読むのかと」。
ああ、ここにも同志がいたのか、と握手を求めに飛んでいきたいような心持である。その無知をあざ笑うかのような難解タイトルの数々と、ずっしりとした装丁はいかにアホな学生やへっぽこ大学人を威嚇し続けただろうか(この類には当然『みすず書房』の書籍群も含める必要がある。その点、岩波の本はいうならば学問業界の実用書といえるので、あまりインパクトは強くない)。たとえばこういう風に軽やかにこの手の本を読んでしまえる人の文章などに接すると、ひたすら恐懼修省するばかりで、その解説自体がこちらには(多分、誰にも)何の役にも立たない知的遊戯でしかない、というところまでは見えないのだった。
私の場合、こういう荘厳書籍群の威嚇から自由になれて、まだ日は浅い。あくまで自分の必要性と興味に引き寄せて本を読む、ということはなかなか難しい。もちろん古典にひたすら学ぶという姿勢も一方では必要だし、そのあたりのバランスはいまだに体得できていないともいえる。
いずれにせよ、うまいタイトルであるのは間違いないにしても、いささかこけおどし的でもある「世の初めから隠されていること」に対抗し、この「世の途中から隠されていること」という看板をかかげた著者にひたすら声援を送りたい。「世の初め」なんていうような大仰さを、いくら難解なレトリックでつづって見せたとしても、そんなものはこの著者がいうとおり、「すべて『世の途中』で行われる作業なの」だから。
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2003/01/18 |
年末たっぷり楽しませてくれたBMJの今年2版目より。
1515年の作者不明の絵画「幼きキリストへの礼拝」をみて、そこに書かれた幼子キリストの描写が、扁平な顔面、内眼角の贅皮、目じりのつりあがり、上を向いた鼻という、いわゆるダウン症に典型的な描き方になっていることを指摘し、ダウン症においては知的障害などがそう表に出ない一方で、その性格的な穏やかさが目立つことから、一種の神性の表れとしてみなされ、こうした絵画のモデルになったのではないか、という考察がされている。ダウン症は近代の疾患であると普通みなされているが、そうではないことのよき反証だというのだ。そういわれても、論文に示されている写真からは、妙にひねた赤ん坊であることしかわからんですがね。
そういわれればルネッサンス期以降の幼子キリストや天使の描写というのは、ダウン症的かもしれないなぁなんて思ったりするわけだが、考えてみれば赤ん坊なんてみんなおんなじに見えるような気もするのだった。それに、私もけっこう長く知的障害児施設の顧問医をやったことがあるが、知的障害一般はもとより、ダウン症の人が天使的性格を持っているなんてのは、全くの出鱈目というか、神話でしかないのは実感しているのだった。彼らもまた、彼らの現実をふてぶてしく生きる人間なのだ。
この論文にはすばやいレスポンスが寄せられていて、昔の人がダウン症に神性を感じていたとして、身体的合併症の多さとか、その短命傾向を知っていればそういう感慨をもてただろうか、なんていうような反応がある。でも、キリストだって死んだのは33才だものねぇ。あっさり死ぬというのは神性のかなり重要なところであったのは間違いない。
わかりやすい絵はここにあるよ、といいうような親切な書き込みまでみていると、医学雑誌もいまや2ch並みに変身遂げつつある時期なのかとおもったり。
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2003/01/17 |
昨日紹介した記事が気になったので、その後どうなったかとドイツの新聞サイトを調べたのはいいが、どこにもあのデモンストレーションの記事が出ていない。調べたといっても、検索で出てきたドイツの新聞リンク集をたどって、紙面アーカイブをヨハネス・ブルック医師の名前や"Fettabsaugen"などのキーワードで検索してみただけなので、見逃しはあるかもしれない。
しかしかなり奇妙な示威行動とはいえるので、実際にやっていればマスコミは飛びつくように思うし、検索で苦労するような結果になりますかねぇ。ベルリンにあるマルチン・ルター病院の形成外科主任医師がヨハネス・ブルック氏であるのは間違いなく、彼自身による診療案内記事も読むことが出来る。
ただしそれを読む限り、ヨハネス・ブルック医師が専門にしているのはオーソドックスな再建外科で、例えば乳癌によって乳房切除術を受けた人へのケアとか、神経障害による麻痺への神経接合手術などであって、あやしい美容外科がやるような脂肪吸引術などやっていそうにはない。原則から逸脱しつつも、日銭稼ぎのためにはそういう汚れ仕事もやらにゃいかんのかもしれないけど。
というわけで、どうも昨日の記事はガセの疑いが濃い。だいたい、南アフリカのネットニュースだけが報じるドイツ国内ニュースというのが、ちょっと不自然だったものねぇ。形成外科→美容外科→金持ちあいての胡散臭い荒稼ぎ→あぶく銭つかんで、身勝手な減税と金持ち優先の保険制度改革要求→奇妙な示威行為、てなストーリーというところかも。
もちろん本当である可能性もあるけれど、麻酔もかけないといけないだろうし、なんぼ脂肪吸引術だといっても、街頭示威行為にこれをやるのはちょっと無理があるような。
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2003/01/16 |
妙なニュースサイト経由でひろった記事から。
[ベルリン発、1月9日]
この日曜日正午、ヨハネス・ブルック医師はベルリン再開発のシンボルともいえるポツダム広場に、借りてきた軍用の移動医療診療車をとめておく予定だ。マルチン・ルター病院の形成外科主任医師である彼は、そこにやってきた希望者に早い者勝ちで脂肪吸引術を行うという。
ブルック医師の主張は"Fettabsaugen fuer Deutschland" というもの。「ドイツのために脂肪をすいとる」という意味だ。これは彼が主宰する「ドイツ改革促進連盟」による初の抗議活動として行われるものだ。この団体は医師に対する減税と、医療保険制度を私的医療保険に一本化することを主張している。貧富の差なく、同一保険料を課するべきだというもの。この団体は、それがドイツの医療システムを救う唯一の道であると信じている。
この行動を皮切りに、2月からはドイツ各地で同様の無料脂肪吸引術活動が展開されるとブルック医師は述べている。
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こういうところをみると、ドイツの保険医療制度はえらくうまくいっているようなことが書いてあるんですけどねぇ。それにしても脂肪吸引術というのは、ぶらりとやってきた人に対して、その場ですぐ始められるほど気楽な処置なんだろうか。
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2003/01/15 |
職場の新年会。いやいやながら出席したものの、危惧どおり討ち死に。大体、夕方7時から9時半までの時間設定で、8時半になってもまだ地元の町会議員あたりが来賓挨拶をしているというような構成がすでに受容不能。今後何があろうが絶対出席しないという決意を培われたのはいいとして、先にわかっていないと意味がありません。
冷え切った料理とぬるくなったビールを30分ほどで詰め込んだおかげで、どこかでなにか悪口でもいわないとすまない気分になり、ふてくされ系の職員たちと2次会3次会に繰り出した覚えはあるのだが、どうもあんまりはっきりしない。どうも正月早々政治的立場をどっとまずくしたような気がするが、それはまた成り行きの妙ととらえておこう。
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2003/01/14 |
今日の毎日新聞に折り込まれていた「PR版」の記事から。
嶌信彦という記者がコラムを書いているのだが、それがワールドカップの時カメルーンチームを受け入れた、大分県中津江村に関すること。何であの村があんなに注目を集めたのか、という分析などがされているのはいいとして、一番面白いと思ったのが、中津江村では、村の大半をしめる老人たちがサッカーファンになって「次のドイツ大会に応援に行こう」と蓄財や組織作りに励むようになり、医療費が半減したということ。嶌記者が対談した村長がいっているのだから事実なんだろう。
何であれ、「病院にいかない」というのが大事なことのようだ。少なくともその点では、くだらん早期発見早期治療の掛け声よりも、熱中できることができて医療なんかに頼らなくなるというのが、いちばん効果があるようだ。多分、それで医療が中途半端になって、ばたばたとあの村でじい様ばあ様が死に絶えるということはおそらくないだろうと、そう根拠はないものの、かなりの確信をもつものだ。病院にしつこく行くということを、なんだか健康を守る行為であるかのようにいい募って、くだらぬ未病指導士なんてものまでつくろうとしている連中は、ぜひ今後あの村で起ることについて、学術的な調査をすべきだ。
ちまちまと、どうでもいいような検査結果のの逸脱について、いらぬおせっかいをすることが「健康」に役立つのか、好きなことを見つけて熱中するほうがいいのか、確かめる絶好のチャンスではないか。もちろん、絶対にそういう医療系商売に否定的な結果がでる可能性のある調査などなされないのは、明らかですが。
仮にサッカーフリークになったら早死にする結果が出たとして、晩年を楽しく暮らせてよかったじゃないか、と私なんかは思うのですけれど。
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2003/01/13 |
日本未病システム学会なるところが、「検査で異常な値が出ても本人の自覚症状がない『未病』の人をサポートする『未病指導士』の認定制度を導入する方針を決めた」との報道。必要ない人に商品やサービスを売りつけるという、エグイ商売の基本をおさえた新機軸がいよいよ医療に登場というわけ。独居老人に必要もない家のリフォームを勧めて、大金騙し取る手口と同じ。こうまでして、患者を確保しておかないと、自分らの利権は危ないと思っておるんですかね、この人たちは。
こういう連中に何をいっても、都合のいいように歪曲した統計をもちだして、早期発見早期治療が寿命を延ばす(ただしQOLまでは保障しないけど)のだから、いったん検診などで引っかかったらおとなしく医者の軍門に下って生活を管理するのが当然という押し付けがましい意見に疑問など持たない。人は自分の商売に最適化した行動をとるべきだ、といってるだけのことなんですがね。
私としては本人の自覚症状があるのに、検査で何の異常もないからと相手にされず、インチキ民間療法やエセ宗教のカモにされる多くの人にこそ、エライ先生方が頭を絞って対策考えてやるべきだと思いますがねぇ。人の健康幻想なんかに付け込まなくても、誠実に必要とされる医療サービスを行っていれば、食いっぱぐれることなんかないと思うよ。
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2003/01/12 |
CNNは、米軍とその情報部門が1月9日をもって対イラクへの直接行動を開始したとの非公式発表をえた。それはイラク国内の重要な位置をしめるさまざまな人物にたいして、米国への敵対をやめ、フセイン大統領に反旗を翻すことをすすめるメールを送ることなのだそうだ。すでに数千のメールがさまざまなルートを通じて送られたという。
「【未承認広告】 あなたも一国のあるじに!!
わがままな上司や物分りのわるいボスに苦労していませんか?自分の実力はもっと認められていいはずだと思うすべての方に耳寄りの情報をお届けします。いま米軍はフセイン大統領に軍事クーデターを起こす人に特別なサポートを提供しています。充分な資金と豊富な武器、熟練した傭兵までおそろえしてすべて無料!成功の暁には、あなたの権力基盤の長期サポートも誠意を持って行います。いまなら極秘ハーレムに美女取り揃えの大サービスつき!返信いただければ、係員がすぐさま秘密に自宅訪問いたします。Now Get A Chance!!」
というようなメールが飛び交っているということだろうか。
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2003/01/11 |
昨日毎日新聞の記事のことに触れたので、あの新聞が昨年暮れに展開した毎日のベテラン記者、佐藤健氏の死に様に関する同時進行的特集記事についても語りたいと思ったのだが、考えてみればある事情から、彼の医療との関わりについてそう詳しく書きしるすわけにもいかないのだった。ちょっと職業倫理に反する部分が出てくるので、あえて新聞で公表されたことだけを材料としたい。
はじめに一つだけいうなら、近藤誠氏の本の題名ではないが、やはり「ガンほど付き合いやすい病気はない」ということ。もし佐藤記者が肝硬変とその一般的合併症だけで人生を終えていたら、あの特集記事のような感動を呼ぶ体裁には決してならなかったであろうことは間違いない。肝疾患というのはなかなか物語になりにくいのだ。
昨年一年をとっても、私がみていた範囲で(すべて主治医ということではありません)、肝疾患の末期で死亡したアル中患者は数人に及ぶが、残念なことに誰一人明確な肝癌の所見を示さず*、ずるずると緩慢な死におちいる経過をたどってくれたし、少数の人は最後に派手な吐血などをおこして散々あたりを騒がせたうえでみまかってくれたものだった。
*ガン特約の保険に入っている人が多いので、なにかそういう所見があると家族は助かるわけ。
何をしようとどうせ無駄といってもいい経過の中で、かなりのスキルを要する処置だけは要求する死に様というのは、私らの立場からは正直いってあまり歓迎されるものではない。おかげで妙なチューブを挿入する手技だけはいっぱい覚えさせていただきましたけどね。多分普通の消化器内科をやっている人よりも、私の方が肝硬変末期の経験は多いのではないかなぁ。それも楽しい処置ではないので、出来たらやりたくはない。間違うとこっちが血まみれになってB型、C型肝炎に感染する危険すらある。
その点、途中で肝癌を発症してくれれば末期はきれいになるし、経過はわかりやすいし、保険は通りやすいわでいうことない。新聞記事で語られた事実だけに依拠して書くなら、かなりのアルコール症といってもいい問題を抱えていたらしき佐藤記者が、最期はかなり安らかな経過にいたれたのは、彼の手になる一連の宗教キャンペーン、「宗教を現代に問う」シリーズがもたらした功徳としか思えない。あれがなければ、多分今頃彼は誰からも愛想付かされてホームレス化していても不思議はない。要は印税がその功徳の本質か。
佐藤記者が臨終に至ったとき、見守っていた家族や同僚たちは拍手でそれを見送ったそうだ。多分1〜2割ほどはその死を賀する気持ちがあったのは間違いないと思うのだが、そこには触れずに「雄々しく病と闘った」という物語に収拾させなければならないのは、つぶれかけとはいっても既成マスコミの限界的枠組みというものなのだろう。
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2003/01/10 |
今日の毎日新聞朝刊の生活欄に、パニック障害を抱える妻と、それを支える献身的な夫の話が出ていて、おいおい、やさしさ物語はいい加減にしてくれよとちょっと辟易。肝腎の新聞がいま手元になく、細かなことはよく覚えていないのだけれど、かなり長期にわたってパニック障害が続いていて、それを今の夫とめぐり合うことでようやく理解してもらえてどうのこうの、というような話になっていた。
パニック障害という、結構厄介なものに対処しなければならない立場を理解してあげて、その人がよりよい治療をうけられるように援助することは大事なことだろうが、なんだか生き方だの人間としてのあり方からこの状態が起こるような書き方して、周囲の人がとにかく尽力的顧慮で接するのがすばらしいことのようにいう記事はどんなものだろう。結局その状態を抱えた人を特殊視しているだけのことではないか。差別の裏返しである。
世の中にはいろんな人がいて、二者関係で絶えざる奉仕と献身を一方的にしていくことが可能な天使のような人もいるのだろう。でも、私は残念なことにそういう人を見たことはない。一方的な献身はしばしば破綻をみせ、突発的DVの原因になったりするのである。もちろんそのDVは深い悔恨をよび、さらに一方的献身の構造は深まっていく。これは一種の支配関係といってもよい。決して健康的な関係ではないのである。
そもそも、パニック障害ごときを、まるで不治の疾患であるかのように書くのが解せない。結構長く薬物療法が必要になる例もあるとはいえ、ほとんどの例はコントロールが可能であるはずだ。少なくとも私が見ている例では、まず治療開始後3〜4週間でなんとか普通の生活が可能になる。あとは薬物減量のタイミングとかが問題になるだけ。どうしても薬物がいやだ、という人もいるが、その場合だって認知療法がかなり奏功するはずだ(もっとも私はそんな悠長なのに付き合っていられないイラチなので、よそに紹介しますけど)。
確かに十年一日の如く抗不安剤の処方を受け、症状はまったくコントロールされず、その過程でまるで敗残の王とその臣下のごとき関係が固定した家族に出くわすこともある。そういう例でも、適切に薬物の調製をおこない、症状が改善されてくるとそこそこ普通の関係に戻って行くものだ。
妙な関係に落ち込んでいることをもって、人格障害だの病的関係性だのと診断したがる人もいるのだが、私はそういうのにはかなり懐疑的。理由もなくパニックがおこってそのたびに死ぬ思いを続けていれば、他人が助けてくれないのはおかしいと、ふてくされてしまうのも当然だと思う。ただ、一部には明らかに回復を恐れているとしか思えない人もいるのは事実で、よくなりかけると「副作用が怖い」などというような理由をつけて、わざわざ悪化させようとしているかの態度を示す人もいる。
やはりそれは女性例におおく、そういう人の旦那は例外なくやたらに優しい。そして先ほどいったように、時折のDVとか、かげで不実を働くとかいった問題を、まずお約束のようにやるのが興味深い。病歴とっていて、向こうがいいにくそうにしているとき、こちらからそれを指摘したりすると、けっこうびっくりしてくれて楽しい。われながら趣味が悪いとは思うものの、そうしたほうが診察が早くすむからね。
とにかく、わざわざつっけんどんに付き合うことはなく、優しい言葉の一つでもまずかけるというのは基本だとは思うものの、優しさが病気を治すわけではなく、ちゃんとした治療ができる医者を見つけるのがこの状態への対処の第一歩なのだ。毎日新聞の記者にはその当たり前のことがわかっていない。記事になったご夫婦には、まともな医者を早く見つけ、当たり前の関係を取り戻して、人生を豊かに生きていってもらいたいものだと思う。
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2003/01/09 |
西暦が始まったばかりのころ、中東にその地の既成宗教系原理主義的武装コミューンがあり、少数派ではあったもののきわめて過激な行動で知られていた。彼らは無学な若者を主な構成員とし、大麻を中心とした薬物乱用や性的乱交を売り物にしてメンバーを勧誘していた。働き者の子供たちをこの武装教団に奪われたとして、親たちは当局に訴えたりしていたらしいが、今も昔も宗教や政治活動に介入したくないのは行政の常、有効な対策は打てなかったようだ。
今に残る記録には、この集団がしでかした事件はあいまいにしか書かれていないのだが、数を頼んでの食料強奪とか、首都の繁華街での無差別破壊活動などは、そういう断片的記録を通してもある程度知りうる。彼らの宗教的秘蹟と称するものはもっぱら大麻をつかった儀式で得られていたようで、指導者が幹部たちに大麻オイルを塗りつけ、幹部たちが信者にその秘儀を引き継ぐという描写が記録にも残っている。
教団内部に内通者もあって、最終的には警備当局は彼らが根城にする首都周辺のスラムに掃討部隊を送る。一部の構成員は武器を取って激しく抵抗し、治安部隊にかなりの被害をあたえるが、武力弾圧がさけられないものと知った教団指導者は、軟弱にもあっさり投降し当局と取引を図るものの、あえなく死刑となってこの事件はけりとなる。
指導者の情けない投降に忠誠心を失って逃亡した幹部たちは、逆にあの軟弱さを売りにして教団再興が図れぬかと考え、指導者の復活というデマを流すことで、武装原理主義教団から、女子供受けする「愛の宗教」への転換をはかる。以前のテロ活動への警戒がすぐにはおさまらず、「愛の宗教」への転換主張後も元幹部やその後継者の逮捕処刑は相次いだが、10世代ほどが過ぎた後、この目論見は大成功し、最終的には普遍的「愛の宗教」は世界的な広がりを見せるのである。もちろんそれは現在「キリスト教」と呼ばれるものだ。
以上は マーヴィン・ハリスという人類学者が、そのどれかの著書で書いていたこと(どれだったか忘れたし、本棚捜索する元気がない)をもう少し断定的にまとめたもの。唯物論的人類学という彼の立場は、あまりに機械論的で、例えばジャレド・ダイアモンドの「銃・病原体・鉄」にあったようなそこそこの実証性(これだってかなり怪しい)を取り繕うことすらしないようなものなんだけど、トンデモと紙一重の最初期キリスト教にたいする彼の創作的成立史は、なぜかとてもリアリティを感じつつ読んだものだ。そのおかげなのか、いわゆるオウム教団事件に接したとき、これはいつかどこかで誰かが予言していたのではなかったっけ、という感じが払えなかった。
だから何をいいたいのか、というわけではない。ガーディアンのこの記事、最初期キリスト教団が大麻によるヒーリングを売りにしていた団体だった、というのを読んで、マーヴィン・ハリスの本を思い出したというわけ。などといいつつ、二千年前と比べて歴史進行は加速されているようにも思うので、数十年もすれば現アレフが日本のもっとも正統的宗教になっている可能性に、一万ガバスほど賭けてもいいような気になっているのは事実。(私みたいに短絡的に誤解する人がいるといけないので書いておくと、旧オウムが大麻や薬物に関わってたなんて書いてるわけではないので注意。あくまでM.ハリスの書いてることがなんとなく暗示的だった、というだけ)
一部のバカなマスコミが旧信者に尊師奪還計画があるのないのなんて書いてたことがありますが、そんなもの全くの意味不明。私が関係者なら、尊師の最期に何らか気の効いた物語が生まれるような工夫を仕掛けますなぁ。あ、なんとなくまたダークサイドに陥りかけているようなので、ここらでおしまいに。
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2003/01/08 |
巷間騒がれているゲーム脳というものに知人が興味をもち、自分の脳波を見てみたいというがどうすればいいだろうかという内容のメールをいただいた。
こんな風に真面目に取ってしまう人もいるのだから、あの森教授という人も罪作りだ。脳波というのは一般にかなり誤解されているもので、なにか思考内容が電波にのって出てきているかのごとき理解をしている人も多い。昔、オウム真理教の信者が麻原の脳波パターンを自分に埋め込むとかいって、妙な電極帽子をつけていたりしたが、あれは彼ら独自の妄信などではなく、一般的誤解がああいうかたちで結実しただけのことだと思う。
脳波というのは要するに、脳内の約150億ほどの神経細胞の電気活動の総和である。たくさんの脳細胞が基本的にはランダムといっていいような形で短時間の電気的興奮をおこすが、その総和はある程度の周期性を持つように観測されるわけだ。大ホールで人々が口々にしゃべりあっているのが、「わぁわぁわぁわぁ」という周期的擬音語で表すのがちょうどいいように聞こえるのと同じこと。
活動している細胞の数が少ないと、全体的に同期する傾向になって周期が長くなる。活動数がおおくなるとその反対。あまりいい比喩でもないのだが、凪の日に海岸に出ると海面に吹き付ける風がすくないので、ゆっくりとした波が打ち寄せる。ちょっと三角波がたつような風が吹けば波の周期は早めになる。そして、もっと激しい風になれば、その作用は逆にもっと同期することになって、周期の長い大きな波になる。イメージ的にはこれがα波、β波、δ波の比喩。単純に波が早くなるだけではないところに注意が必要。(睡眠時のように神経細胞活動の減少で同期がまして、大きくゆっくりした波になるのを説明するのがこの比喩ではちょっときつい)
そのほかにも、沖を大きな船が通れば波の周期や大きさは変わるし、遠いところに台風があっても微妙に変化する。いうならば脳波診断というのは、波をみて天気の変化や沖の様子を知る漁師さんがつかう素朴なテクニックに一番近い。もちろんこういうものには、それなりの名人芸というものもあるのだが。少なくとも波自体がなにかを直接表しているわけではなく、海(脳)の状態の反映でしかない。
ゲームなどしていれば意識集中しているのでβになるはずが、ゲーム脳ではαになるからどうのこうのと例の大先生はいうが、どんな作業でも慣れれば集中とリラックス双方の態度でこなせるようになり、次第にα波になるのは当たり前のこと。熟練作業者なんかはみんなゲーム脳だということになってしまう。そもそも森教授と同じような(むろんもうすこし厳密だが)実験は、30年以上前にすでにやられている*。
それは禅坊主をつかってやられたので有名で、禅を組ませて公案をあたえると、いわゆる三昧の境地でα波がでるというもの。そこではもちろんα波が出ているのをポジティブにとらえているわけで、「禅脳の恐怖!」などとされたわけではない。しかもその程度のこと、誰でも予想が付くしちょっと大層すぎる言い方だったので(大体α波ぐらい、目閉じて雑念払えばすぐ出るわけで)、発表されてもマスコミ以外は真っ白けだった、というのがおまけ。
最近のゲーム脳云々は、その価値判断を逆にして、しかも実験設定がやたらに妙なのに、本来の専門家は何もいわない。学界というところは明らかにレベルが下がっているといえる。それとも、ああいう大先生でも素人をだまして本を売らないと生活が大変なのだな、とみな遠慮しているだけなのかも。
というわけで、メールの返事は「そんなことしても意味はないが、どうしてもとりたければ病院にいって『てんかん発作を起こした』とウソついたらいい」という、はなはだ木で鼻をくくったようなものになった。気分を壊されないかが心配である。
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2003/01/07 |
ここを読んでいてくれる知人が、最近皮肉と悪口がさえていますね、などと評してくれて大狼狽である。というのは、この日記をほぼ毎日書き出すに当たって、決めていたことがある。それは決して否定的にならず、すべてを肯定し受け入れるということだ。いかに逆境にあろうと、世をすねたような態度は決してとらず、どんなにおかしいと思えるようなことの中にも、なにか認められるものを見出すようにしようと思っていたのだった。自嘲というはなはだオチがつけやすい型式も、対象を自分に向けた否定であって、絶対に避けなければいけないと決めていたつもりなのだ。
知人がいうように、そういえば最近、というよりかなり前から、否定的言辞が見え隠れするようになっているし、自嘲をオチにつかうものもちらほら目に付く。フォースのダークサイドに魅入られているとしか思えない現象である。はじめの戒めをおもいだし、「これでいいのだ」精神を取り戻そうとかたく決心する冬の日なのであった。
といって、頭にくることは毎日のようにあり、ものいわぬははらふくるる技なのであって、健康にいいとはいえない。幸い、最近存在を思い出したCGI日記にもチョコチョコ書き出したので、あちらにもっぱら悪口をかき、こちらはあくまで全肯定路線でいくということにしようとおもう。休暇でよそに行ったときにフォームから書き込むようにしようと思ってつくったのだが、そんな機会はそうないのだし。トップからも行けるようにして、名前のほうもそのうちかえておくつもり。「暗黒面日記」ではちょっとそのままか。
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2003/01/06 |
あいも変わらず、クレズ系発信者偽装タイプのウイルスメールが日に10通ほど来る。また、こちらのadmin@med-legend.com名で出されていて、インチキなあて先のためにメールデーモンが自動的に返信してきたものも数通ある。いままであほらしいのでそう調べもせず、すぐにすべてゴミ箱行きにしていたが、発信者名などでちょっと気になり、発信経路を調べてみたら、今なお来るものにはパターンがあることがわかった。
御存知のようにこの系統のウイルスメールは、Outlookを宿主にしていて、そこの住所録から適当なアドレスをもってきて発信者を騙ったり、発信先を決めるわけである。最近、この発信者名が大手都市伝説サイトの管理者名になっていることがよくある。私のメールアドレスも使うということは、住所録に都市伝説サイト管理者を複数登録している人のマシンから発信されたものといっていいだろう。
以前はあちこちのプロバイダのIPだったが、最近はOCNだけのようだ。OCNを使っていて、複数の都市伝説サイト管理人のアドレスを登録している方は、いますぐマシンのチェックをお願いしたい。もっとも、"Have a nice epiphany"なんてしゃれた題名のメールだったりして、あまりなじみのない西欧伝統行事の存在を知ったりするという、思わぬ利得があったりもするのだが。
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2003/01/05 |
「覚醒新世紀」 (上祐史裕:東山出版)
以前、アレフの出家信者であるF氏のサイト記述に、ちょっとしたいちゃもんをつけたことがきっかけになって(二日前にもカラスのことで書いたけど、あれはこちらの早とちり)、時々メールをいただくようになり、一昨年のオフ会にも参加していただいた。その時、麻原彰晃の書いた「生死を超える」という本が手に入らないかと彼に頼んでいたのである。
なんで読んでみようと思ったのかというと、昨日紹介した本の著者である吉本隆明が、その本を高く評価していたからである。麻原は世にいわれるようなインチキ教祖ではなく、実践的にヨーガを体得した上質の宗教家にちがいないと吉本は感じたらしい(もちろん、その行動を評価しているわけではない)。ちゃんと修行していることと、インチキ教祖であることは別に並び立たないことでもないはずだがななどと思いつつ、あの吉本がいうのだから、目を通しておくのもよかろうと思ったわけだ。まことに情けない理由である。
ところが現アレフでも「生死を超える」はレアアイテム化しているようで、F氏は代わりといってはなんだがと、アレフ代表の上祐史裕著のこの本をおくってこられた。無理なお願いをしたこちらが全く忘れていたのに、義理堅くも贈呈していただいて感謝この上ないかぎりだ。次のオフ会にでもスケジュールがあえば、シャンパンたっぷりおごるからなんていっても、出家信者は酒などのまんか。
はじめにいっておくと、私は自分が完全な俗物であることを自覚していて、あらゆる宗教やその代替物とはそりがあわない。実際に、自分の仕事や生活のなかでも、新旧とわず宗教とその亜流団体構成員にはたっぷりひどい目にあってきたので、その信念は強固になるばかりだったといってもいい。これは何とか学会はダメでカソリックならいいとか悪いというような問題でなく、自分以外のところにある価値体系に自分をゆだねてしまう、そういう行動原理そのものがダメなのである。それは国家とか、党派というものであっても同じで、もちろん企業理念や建学精神みたいなものもほとんど同じものとして感じる。
そういいながら、お前だって科学や医療の論理に依拠しているではないか、といわれるかもしれないが、少なくともそれは自分の中で、経験を根拠にして合理的に検証と反証をかさねていくことができるものだ。それはもちろん主観的体験のあいまいさや、通念と科学的事実のずれなどについては自覚しているし、まして「医療の論理」などにいたれば、そこにはかなりいい加減なものが混じりこんでいるのは承知しているつもりだ。しかしそれらは多くの客観的事実関係をもとにして検証でき、いくらでも訂正していけるのである。
その点、宗教的信念とか真理はそうでない。それは常にどこかから与えられ、すでにかくあるべきものとして存在している。そういうものをどんな根拠で受け入れなければならないか、と思ってしまう。宗教に対するもっとも正直な態度は、「法の華(だったっけ?)」の教祖みたいに、「金になるからやる」というものぐらいしかありえないとまで思う。それはいくら俗物の私だって、ある種の宗教的荘厳さのなかに、神秘的な香りの痕跡ぐらいを感じることはあるのだが、基本的にはそれは芸術の問題だとおもっている。
こんな風に常識的に書き進めてくると、Fさんなどは、いやそうではないのだ、かくあるものとしての仏や神に帰依するのではなく、あくまで体験的に神秘と合一化するのだ、教義なんていうのは一種のマニュアルで、そういう手順が一番簡単に解脱にいたる道として用意されているに過ぎない、といいだすのではないだろうか。そしておそらく、実際に現アレフで信者やその予備軍は、かなり容易かつ具体的に(日常的に、ではないだろうけど)、その入り口ぐらいは体験できるものなのだろう。
そういう実践的な回向体験への入り方というものを、麻原はかなり平明なかたちで信者たちにしめすマニュアルを完成していたのではないだろうか。そうでなかったら、あれほどの大事件をおこしつつ、なおかつその組織にとどまる信者がいて(別団体だというのはおいといて)、なお今も組織が拡大していくようなことがあるはずがないと私は思うのである。
そういうわけで、この「覚醒新世紀」でも、その実践マニュアルの一部をうかがい知ることができるのでは、という期待をもって読み始めた。結論からいうと、この本ではほとんどそういう方向は上っ面しか書かれていない。あくまで、「こっちの側」には救いがあるぞよ、という御託宣だけである。上祐という人はかなりの荒行を重ねてきていて、そこでさまざまな神秘的ビジョンを得てきているらしいのだが、科学者から宗教家への転進の過程で、おそらくかなりの逡巡と当惑があり、訪れる神秘的体験にもダークサイドからのものもあったはずで、それをどのように乗り越えてきたのかという生々しい証言はここにはないのである。
もちろん、彼のほかの本にはそれが書いてあるのかもしれず、この本は現アレフを知るための便利カタログに徹しているのだ、ということなのかもしれない。でも、多少はそういうバックボーンが行間からにじみ出てくる、ということぐらいはあってもいいはずだ。教義の建前と、まるでクロレラ療法のパンフとか、開運風水グッズの宣伝ビラと同じような信者たちの喜びの声をいくら羅列してみても、それは既成の世俗化宗教志向があらわになるだけのことだと思う。組織運営上、そういう方向は仕方がないことなんだろうけれど。
贈っていただいた本に妙なケチをつけることになってしまい、Fさんには申し訳ないが、以上が今のところの感想。精神疾患という、いうなれば日々ダークサイドの神秘体験に落ち込んでしまう人々を、どうやって此岸に引き戻すかという仕事をしている人間として、超越的体験と日常を行き来する能力というのは治療手段そのものに見えるのである。かならずどこかで協力しあえるところはあるはずだ、という一種の願望的予感までもがなくなったわけではないと記しておこう。
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2003/01/04 |
「ひきこもれ 一人の時間をもつということ」(吉本隆明:大和書房)
60年代の左翼青年にとって、そしてそれ以後もその業界である種の知的スーパースターであった吉本隆明のエッセイというか、社会提言である。私が学生になったころ、同級生や先輩にこの人に心酔している人は山ほどいて、例えば学生主催のシンポジウムなど開いて小粒の知識人に講演してもらい、そのあとの討論がはずみで吉本理論の話になど向いてしまうと、皆われ先にと自分の吉本理解を競い合う発言をしたりするので、ぜんぜん収拾がつかなくなったりするのである。
先ほど左翼と書き、実際本人も左派を自称はするのだけれど、似たような影響力をもっていた黒田寛一のように自分が指導する政治党派を組織していたわけでもなく、もちろん既成左翼の社会党・共産党とはまったく相容れない立場で、その感覚にはむしろ政治的左派とは異質なものがあったように感じている。彼に対する一方的思い入れを表明している新左翼党派というものはあったのだが、実際の活動に彼がかかわることはなかったはずだ。
数年前に海でおぼれ意識不明におちいるという事故にあわれ、それ以降めっきり体がよわり、最近結構出版される著作もほとんど口述されたものを誰かがまとめる形のものだ。その分、語り口がやわらかく、噛んで含めるような展開となっている。毎日新聞に連載していた「近代日本文学の名作」などは、まるで定年退職したアマチュア読書人が、こつこつと記録した読書録を紹介したような平易かつ素朴なものだ。
それでこの、「ひきこもれ」である。題名からはいわゆるひきこもりを擁護するような内容らしく、私なんかはあれあれと腰砕けしてしまいそうになる。というのは、引きこもりというのが社会問題化するようになった80年代初めごろから、こういう主張はすでにステロタイプ化していたからだ。「進歩的」精神科医などが、学校で画一的な教育を受けることばかりがベストなのではない、その人にあった生き方を認めることが第一だなどとしょっちゅういっていた。ところが、そういうことをいってる人が、息子を医学部に入れるために狂奔していたりするのを別ルートで聞いたりするものだから、なんだか笑っちゃいそうになることがしばしばなのだった。
吉本の主張はどういうものなのだろう。子供が作家や漫画家になるなら*学歴なんかいらないから、好きにさせろといってたりしたらうんざりだな、と思いつつこわごわ読んだのである。その結果、さすが吉本というしかない。ひきこもりには二種類あって、一人でいるのが楽だからそうする人と、病気の範疇に入る人がいると。前者なら何の問題もないし、後者なら素人がどうこういわずに医者にまかせればいいのだと。
*周知の事実だろうが、あえて書けば彼の二人の娘さんは小説家の吉本ばななと、漫画家のハルノ宵子である。
虚をつかれるとはこのことだ。考えてみれば当たり前のことを、ここまで堂々といった人はいない。私らのところに相談にくるような「引きこもり」は、ほとんどすべてが病的問題を含んでいて、ノンキにそういう「生き方を認める」ようなことしていたら、その人は一生を棒にふるだけだ。治療の側にその人をとどめるテクニックとして、現状をさしあたって受け入れ観察するのはよくやることだが、家族や近隣に多大な緊張をしいて、展望のない自閉自居生活を続けることが認められるわけはない。先に例を出した物分りのいい医師だって、結局どこかで暴力的手段(親族とか、警察とか、最近ではこれを専門にやるガードマン会社がある)を使ってでも医学的介入をしている筈なのである。もしそれもせずに手をこまねいて、「生き方を認め」続けているなら、それは単なる無責任か無能でしかない。
もちろん、きれいに二つに分けられるかというと難しい場合もあって、病的サインがちらほら出ながら、引きこもることでむしろそれに積極的対処しているようなケースもあり、ここらあたりはやはり、治療者の経験と持ち味をどう発揮するかの問題になってしまう。しかし、ほとんどマスコミレベルののっぺりとした「引きこもり」理解の治療者は決して少なくない。それは家庭内暴力としてそういうサインが出たとき、「ただ耐えるべきだ」と指示する治療者が結構多いことでも知られる。誰から誰に対するものであれ、理不尽な暴力をただ耐えなければならぬなんてことがあっていいはずがない。強制的入院隔離というある意味で社会的暴力装置機能の一部が、何のために医療に与えられているかといえば、そういうことをさしあたって回避するためにあるのだ。
この本は医療が病的なひきこもりにどう対処すべきかを語っているわけではなく、吉本の立場で語られるものでないのも明らかだ。彼はあくまで、病的でないひきこもりを対象にする。吉本は、一人になって自分と向き合う長い時間をもつことで、その人にとっての「価値」をはぐくむことができるので、安手の人間関係のなかに軽々しく出て行くことは、疑わしいような通念とか価値観を強いられるだけのことだとする。考えてみれば、これも自分のスタイルというものをそこそこ確立しているつもりの人なら、何らかの形でかならず経てきた過程であるはずだ。
この本から私が感じ取ったことはほかにもまだ多く、それは「老い」にどうのように対処するのかとか、行き当たりばったりの人生で貫くべき原則とはなにか、というようなことだ。後者は間違うと変な方向に行きそうだが、少なくとも吉本が押し付けがましくないレベルである種の原則を貫いてきたことは間違いないだろう。要は、自分のやろうとすることを10年はきっちりやり続けるという単純なことなのだ。しかし、それは多くの政治的青年たちを幻惑させ続けた、あの知性と能力をもってはじめてなしえることのようにも思う。
(関係ないけど、最近こちらの存在を思い出して時々書いてます。→留守番日記)
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2003/01/03 |
ムッタ・デーヴァ日記の1月1日版で、カラスのカラはサンスクッリト語の「カーラ」(黒もしくは暗青色)からきていて、「黒い鳥」という意味だとあった。彼が暮らしているアレフの道場がある世田谷区烏山も、大黒天マハーカーラ=シヴァ大神と大いにゆかりのある土地だと続けている。
昨日の日記で紹介した「「ちんちん千鳥の鳴く声は」では、カラスについて、鳴き声を「カラ」ととり、それに鳥の名前をつくる「ス」という接尾語がついたものと説明している。スが鳥の接尾語といわれても、ほかにはカケスとホトトギスぐらいしか思いつかないのだが、カラスのような日常的にお目にかかる鳥に、サンスクリット語由来の名前がつくというのは解せないので、ここは山口氏説のほうが正しそう。
というわけで、烏山は別に大黒天とのゆかりを持っているわけではないと思うので、近隣住民や行政との折衝の際には充分なご注意を。
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2003/01/02 |
職場のほうからいつ呼び出し食らうかわからんので、いつもの酒びたり正月にもならず、思わぬ健康的正月をすごしつつある。といって、ぼんやりTVみたり本読む以外に時間のつぶし方をしらんので、一日が長くていけません。
スポーツクラブが開いているといいのだが、4日までやらんのだし。あたりをランニングでもすればいいようなものだが、クソ寒い外に出て行く気がしない。やはり中高年の運動なんてものは、エアコンの効いたインドアで、紫外線フリー、水分補給たっぷりでやらないと体に悪いだけ。
仕方がないので読書。「犬は『びよ』と鳴いていた」(山口仲美:光文社新書)。擬態語、擬音語の変遷から言葉を考えるという視点がなかなか面白い。ダブルブッキングで有名な某狂言師が、TVで犬の鳴き声を「びょうびょうびょうびょう」とやっているのを見て、なんでやねんと思っていたものだから、暮に本屋でこの本をみかけて早速買ったというわけ。たしかにあまり可愛げのない犬が吠え付いてくるようなときは、「びよびよ」といってるようにも聞こえますな。
同じ著者が以前に書いた、「ちんちん千鳥の鳴く声は―日本人が聴いた鳥の声―」(大修館)というのもBK1で注文したら正月にもかかわらず届く。鳥の声に絞っているのと、この著者自身がバードウォッチングを趣味にしているらしき薀蓄が盛り込まれていることもあいまって、きわめて読みやすくまとまった一篇。音韻論みたいなところを、もうちょっと専門的に書いてあればもっとよかったのだが。
「ヌエ(漢字でない)」なんて鳥、本当にいたんですな。それも奈良時代までは「ぬえこどり」なんて呼ばれて親しまれていたのに、中途半端な中国語知識が災いして怪鳥呼ばわりされるようになり(なんでも中国語では「怪鳥」というのは「夜行性の鳥」という意味なんだそうで)、やがて化け物扱いされ、名前と実体の連関が消えることになった経緯なんかは、都市伝説の成立過程の考察を思わせる手際。もちろん著者はもとの可憐な鳥に対する愛着を人一倍持っているので、単なる謎解きに終わらぬ情緒も感じさせる。
今年、女の子の命名に、絶対「ヌエ子」というのが増えると予想したりして。
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2003/01/01 |
あけましておめでとうございます。
考えてみれば、「だ。ある。」文体で新年の挨拶をするのに適当な言葉はないのですな。「謹賀新年」と書けばいいのだろうが、年賀状でもあるまいし、なんとなく変な感じが付きまとう。あけましておめでとう、で止めるのも一法だが、なんとなし態度がデカいような気もするし。あとで日記サイトでも回ってみて、いい言い回しを見つけてこよう。
あまり年頭言みたいなことを書く趣味はないのだが、などといいつつ、このサイトも今月末で3年目になろうとしているため、ある程度の方向性を書いておこうと思う。はじめ、勤務先の病院の広報サイトつくりを担当していて、あまりのヒット数の少なさに、なにか娯楽的なことを書こうとしてはじまったのがそもそものきっかけだった。医学常識のウソと本当、というような感じをめざしたのだが、だんだん病院広報とは相容れぬようなことばかり書き出したので、遠慮して個人サイトとして再出発したわけだ。
海外都市伝説サイト記事の翻訳ばっかりしていた時期もあるが、最近はストレートに都市伝説を扱うのに少しあきてきて、もっぱら医療幻想批判の方向を目指していこうと思うようになっている。それと、本業である精神医学臨床について、正攻法ではないところから経験をまとめてみたいとも。もういい加減手仕舞いを考えなければいけない年代でもあるわけで。
そういう意味では、あまり一般向けの内容ではなくなっていく可能性が高いわけだが、今まで分不相応にアクセスが集まっていたのがむしろおかしかったのだ、と納得しようと思う。我慢してお付き合いいただける方は、今まで同様覗きに来ていただければ、それはもちろんうれしいのはいうまでもない。
更新スタイルはこれまでと同じように、日記型式でほぼ毎日なにか書き、ふくらませそうなのを程ほどに書き換え、各ジャンルにわけて収納するというスタイルでいくつもり。更新といったって、前に書いたのと同じじゃないか、と責めないでいただきたい。それと、誤字、文法的誤り、冗長表現、ちぐはぐ表記などは特に注記せずに随時書き直すことがあるため、引用してけなしてやろうともくろまれる方は、出来れば確認をお願いしたい。それでは今年もいけるところまでボチボチと。